Sunday, 14 October 2012

F・W・エピグラフ

太宰治や大江健三郎みたいにエピグラフを小説の各章の冒頭にもってきて、その引用節を軸にして話を組み立てる人は多いし、それは小説の方法としてはかなり成熟して、とてもうまく機能している。エピグラフにすると引用節は一種の詩のような響きを新たに得るから不思議だ。詩のように響くことで、その言葉は日常の意識には届かない高みへと逃げていってしまうかのようだ。そこまで言葉を飛ばしておき、小説によって再び日常へと変換することで、意識の上下運動みたいなものが生まれてとても新鮮な読書体験を味わうことができるというわけだ。

さて、数ある短篇や長篇小説でも、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』からの引用文をエピグラフに据えた作品は果たして存在するだろうか? たぶん、存在しないのではないか。もしあれば、ぜひ教えていただけたら嬉しい。

なぜ『フィネガンズ・ウェイク』をエピグラフ用の本として活用しづらいかは、この本を開けばわかる。どこを引用しても、とにかくわけがわからない。詩のような効果も少しはあるだろうが、なにせ何をいっているのかが判らないので言葉の上下運動を体験するなんてのは難しいし、これから何が始まるのかを期待をさせる、なんていうのもムリ。 むしろ、こんなエピグラフをひけば、読者のやる気・読む気を削ぐことにもなりかねない。

そんな課題を念頭に置きつつ、あえてそういう小説を書いてみたいとも思う。『フィネガンズ・ウェイク』には常軌を逸した言い回しがたくさん埋め込まれているからだ。

たとえば、「もう、まだまだだった」と柳瀬尚紀氏が訳す「passen-core」という一語。柳瀬氏の名訳のおかげで、原語のもつ含意がわかりやすく引き出されている。すでに起こったことを語る(「○○はもう○○だ」)ことによって、同時にこれから起こることについても語りたい(「○○はまだまだ○○だ」)という意思表示が一語で表されている。そのため、たとえばこの「passen-core」「もう、まだまだだった」という言葉の含まれた一文をエピグラフにもってきたならば、然るべき時間的構造をもった話を書くように書き手は要請される。

書き手の意志とか、「時代の流れ」(仮にまだ「時代」と呼べるようなリアリティーがあるとすればだけれど…)とかいうものとは別の、純粋にジョイスが書いた一文だけと向き合って生まれる小説。別にそれは何かの役に立つわけでもないし、例えば他の形で小説を書けば、いま生きている人の心理を描写してみたりして心理療法的なものを読者に提供できるのだろうがそういう効能も一切ない、ただの芸術作品だ。批評家から一般読者まで、広く拒まれる作品だ。かといって、柳瀬氏をはじめとする少数のコアな文学者とだけ共有できるものかといえばそうとも言い切れない。ジョイス自身、たとえば「アンナ・リヴィア・プルーラベル」の章を執筆する際にアフリカ大陸の辺境に流れる河の流れをそこへ加えることを決めたことについて、「もしこの本を、そこの地元の村に住むこどもが拾ってくれて、偶然自分の裏庭からみえる河の名前をみつけて喜んでくれたいい」と話している。その程度の、ささやかなものであればよいのだ。『フィネガンズ・ウェイク』からエピグラフを引くというのは、つまるところ「この小説は遊び心主義で進みます」と宣言することなのだと思う。