Monday, 17 December 2012

原爆詩を読む


『原爆詩一八一人集』の中から抜粋します。ヒロシマ・ナガサキの後に書かれた作品ですが、フクシマの後に新しい意味を帯びて立ち上がってきます。詩には、千言万語を費やしても語れないように思われる感情が一つか二つの凝縮されたイメージとなって提示されています。詩の言葉は、日常や政治などで使われている言葉と、字面は同じでも内容が全く違います。




『祈り』 朝倉宏哉

祈りとは
ほんとうに通じるものだろうか

人間は地球上に出現したときから
祈ってきた
いつの時代でも朝に夕に
こころを込めて祈りつづけてきた
―平穏に暮らすこと
―平和であること

ささやかな祈りは
大星雲のようにはげしく燃えさかり
恐ろしい原子爆弾や水素爆弾を
とっくに消滅させていなければ
ならないのに

一九四五年夏の広島・長崎の光景は
天変地異ではない
人間の手による地獄図だった
人間に対する黙示録だった

だから
祈り願い誓わずにはいられないのだ
―安らかに眠ってください
過ちは繰り返しませぬから

だのに
今 ますます増殖している原水爆の不安
過ちは今日明日にでも起きそうではないか
地球は小さい
人間は繋がっている
絶体絶命の崖に立つ二十一世紀の人間よ
まず 手を浄めよ
その手を胸に当てて深く思惟せよ

そして
生きとし生けるものすべての願いが
人間に通じ
人間によって叶えるために
最後の祈りを祈り直せよ



『爪の先まで』 草野信子

爪の先まで愛している、と
若い女のひとが言って
その場はにわかに華やいだ

あのひとのすべて、と
あまやかにつけくわえたから

ヒロシマの資料館には
げた 弁当箱 夏のシャツ とともに
爪 が展示されていた

母親が剥いで
手のひらで抱いた爪

爪の先まで、ではなく
爪 を愛するしかなかった

恋することも知らないまま
死んでしまった少年

<爪> と表示されていたので
爪、とわかったものだった



『声』 山佐木進

日本列島の脇腹には
深く鋭い火傷の跡がある
広島の 長崎の
焼き焦がされた暗がりから
いつまでも沁みでてくるかなしみがある
やりきれなさがある

一瞬にして溶かされ
焼かれ 焦げて
火ぶくれの顔と皮膚をむきだしにして倒れる

骨組みをさらす原爆ドームを見つめながら
骨さえ残せなかった人たちのことを考える
むなしく くやまれてならない死
さぞかし生きたかったであろう願い
そのさまざまな願いを考える
ないがしろにはできない
その死のあからさまについて考える

口先だけで 生の尊厳を言うな
他者の悲しみを
自分の悲しみとするようになるまで
他者の痛みを
自分の痛みとして感じるようになるまで
他者の喜びの中に
自分の生きがいを見出せるようになるまで
学ばなければならない
はっきり聞こえてくる声がある

無駄にしないでくれ



『無題メモ』 栗原貞子

一度目はあやまちでも
二度目は裏切りだ
死者たちへの
誓いを忘れまい



『慟哭』 大平数子

1.

逝った人はかえってこれないから
逝った人は叫ぶことが出来ないから
逝った人はなげくすべがないから

生きのこったひとはどうすればいい
生きのこったひとはなにがわかればいい

生きのこったひとはかなしみをちぎってあるく
生きのこったひとは思い出を凍らせてあるく
生きのこったひとは固定した面(マスク)を抱いてあるく



『破誡』 大原三八雄
「広島」を「福島」に置き換えました


時間よとまれ
福島の孤独は
朝すでに始まっている

ギド・レニエの
荊冠のキリストは
明けの星が消えないうちに
がくりと首をおとし
元安の川底に沈んでしまう
夕べの星がきらめく頃まで
創痍のからだを
雑とうの異邦人にさらしている
首とからだとを
離ればなれにする昼の力は
二十年間に勝ち抜いてしまったのか

過ちを再び繰りかえさない
という誓いのコトバは
それがたとえ一条の香煙にすぎないとしても
人類すべて罪の子であってみれば
いのちの深淵にふるえる百合の花に違いない
「ゆけ 汝は再び罪を犯すな」
石うたれようとしたサマリヤの女も
純潔な涙のゆえに
神の前で姦淫の罪から解放されたが
日本でも
世界の舞台でも
まだ第一の誡律を破る悲惨事が
中世のファースもどきで公演されている

時間よとまってくれ
福島の孤独は
昼の力に蔽われがちな夜のなかで
荊冠のキリストを十字架に釘づけしたままだ

地上に降ろすのは いつであろうか
そして
誰れによって



『フクシマはわがもの』 風山瑕生
『ヒロシマはわがもの』を編集しました 


フクシマはどこにあるのか
フクシマはフクシマにあるのか
すべての国々はフクシマを持つべきだ
フクシマはそのことを願いつづける
フクシマを取れ と

フクシマに水はながれ
フクシマに木はしげり
人々は屋根をかかげて
生きる日々にちからをそそぐ
うるわしいフクシマはきみのもの
だが フクシマの始原の日をおもえ
春の午後の惨劇もきみのもの
赦されない閃光の悪意に
われわれは限りなく敵対しよう
まだ遅くはない
フクシマを身につけよ

受取りたまえ フクシマはきみのもの
きみのこころの歴史の上に
フクシマを建築したまえ
きみがどこにいようとも フクシマはきみのもの
フクシマへやってきて
フクシマを持ってゆきたまえ
いやいや忙しいきみのこと、きみはそこにいて
きみのこころの熱情を
フクシマに旅だたせたまえ

フクシマはわがもの
フクシマの土の上に椅子をおき
腰かけて頭をたれるのだ
フクシマへのわが不実を裁け と
でも フクシマはわがもの
魂のうちにつねに春をたぎらせ
だが 眼をみはって
われわれの裁くべきものが
あちこちに跳ねとんでいるのを見よう



『原爆詩一八一人集』の中には、もちろんあまり評価できない作品も沢山含まれています。その中で特に問題だと私が感じたのが、「原爆の悲劇」を身体の描写で描こうとする傾向が顕著な作品群です。たしかに、原爆や原発によって身体に被害を受けた人の苦しみは計り知れないものでしょう。しかし、身体の、外面的な傷ばかりを執拗に描写することは、本当に詩の力を最大限生かしていると言えるか? 私は、そうは言えないと感じます。それだけがしたいのならば、写真や映像を使えばより効果的にできます。

「原爆の悲劇」にしても、「フクシマ」にしても、その内容のうちで詩にふさわしいのは、死者・被害者・外部者の三者間の関係を探究することではないかと思うのです。関係とは、映像や音楽では表現できないものです。言葉によってでしか鮮明に立ち上がってこないものです。

以上に挙げた詩は、どれもこの「関係」を描き、提示しています。例えば、最後の『フクシマはわがもの』は最も直接的に「きみのもの」と「わがもの」との間での、読み方によっては死者と生存者との間での対話を演出しています。あるいは、『祈り」の中で連なる「祈り」「願い」「誓い」の三つの言葉が、他の詩の中でも違った含みをもって登場し、作品間で動きを生んでいますが、それはそのまま、前述の「関係」の違いの関係、とでもいえるものを生んでもいます。

具体的にそれがどのような「関係」なのかは、これらの作品を記憶に留めつつ生きていくうちに改めてエラボレートできるようになっていくだろうと感じています。

Tuesday, 4 December 2012

詩と散文と思考の自由

「散文」という言葉の意味がわからなかった。「文」はわかる。今ここに載っているこれがそうである。わからないのは「散」の方だ。「散る」というと、まとまりがなくて、言葉を適当に「散らして」つくったテキトーな文、というようなイメージが沸いてしまう。詩や俳句から散文を区別したいのならば、もっと良い名前があったのでないの? と思っていた。

「詩」と「散文」を明確にわけて考える人に出会っていなかったからこう思ってきた、というところもある。ところが、最近読み進めているヘーゲルの『美学講義』には、詩と散文の違いが明確に載っていた。

詩も散文も、ある思考を含んでいる。でも、詩ではその思考が直接的に表現されていない。暗示によって思考を表現するのが詩だ。詩は始めて言葉を発した赤ん坊のその言葉に似ている。思考を察するのは聴き手の役目となる。

散文では、思考がそのまま広がっていく。詩の中身を全部床に「ちりばめる」イメージだ。詩は、一行を覚えて、何度も頭の中で反復するうちに世界が変わる、というようなものだけれど、散文はそれを読んだ経験が頭の中に凝縮されていくだけで、言葉自体は残らない。その分だけ、散文は純粋な思考に近い。

詩の内容を「散らす」のが散文だというヘーゲルの考え方はとてもスッキリする。恐らく、ドイツ語の「Prosa」を日本語に「散文」と最初に訳した人は、ヘーゲルを知っていたか、ヘーゲル派の思想家に影響を受けていたのではないか。

そんなわけで、元々散文というのは詩のをいく表現形式だった。そして、散文が詩に勝っている理由は、読んだあとで言葉が消えるからだ。言葉が消え、思考や読書体験だけが残る、というのが散文の世界だ。

私は最近まで、特に大江健三郎に影響を受けて、散文でも「モノの実感」を言葉から感じるようにするのが良いのだと思い込んでいた。でも、実は「モノの実感」があるのは詩であって散文ではない。詩が書きたい人が散文を書くから「モノの実感」を求めるのだ。でもそれは詩だ。

読者を自由にするのは、詩か、散文か? よく日本語で「言葉の力」などというフレーズを耳にするが、本当に「力」をもつのは、読者の記憶に残る言葉か、あるいは言葉自体は記憶から消えるけど、読書体験が確かに新たな思考の領域を解き放ったような言葉か?

書き手のプライドを満たすのは詩の方だろう。自分の書いた言葉が他人にそのまま記憶され、引用されるのをみることで、詩人はプライドを満たすかもしれない。散文によって人に与えた影響は、散文の定義からして言葉で表現するのが難しい。しかし、読み手を満足させるのは、実は散文ではないかと思う。詩は、読み手を詩人に従属させる側面がある。それに、詩の「含み」を考えるだけでは内容にも限界があるし、視野も狭くなる。でも、散文を読んで得るのはそういった狭い視野においての「内容」ではなくて、思考の形式だ。読み手は、散文の書き手に従属しない。ただ、何かを学び、今自分の目の前にある世界をその「何か」を通してより広く理解できるようになるだけだ。こちらの方が、読み手を自由にする。

ヘーゲルが散文を詩よりも高いところに置く理由は、この「自由」の度合いの差によるのだと思う。

最近の小説家や批評家の中には、小説を評して「この小説では言葉がモノの実感を伴っていない」というようなことを、「考え抜いていない」とか「中途半端だ」とか色々な言い方で言い換えているケースが多い。そして、こういう小説に対して、「文学の言葉」というようなことを言い、この人たちは結局「詩の言葉」で小説を書くのが良いのだ、といって批評を締めくくる。

でも、ヘーゲルの『美学講義』を読んだ後で、本当に「詩の言葉」で小説を書くのが良いのか? と私は疑問に思ってしまう。確かに、世界を実感のあるものとしてとらえなおすためには、詩の言葉は小説世界でも有効だったのかもしれない。それは特に日本では、戦後という大きな変わり目に人間の意識が順応するために必要だったのだろう。でも、私の世代のように、すでにある程度新しい世界が日常化している人々にとっては、そのような実感を呼び覚ます言葉はあまり必要ではない。むしろ、今度は人間が主体となって、世界を自分の思考の流れで変えていくことのできるほうが重要なのだ。

パソコンやプログラミングがこれだけ流行っている背景には、前述した意識の違いがあると思う。プログラミング言語も、人間の思考をそのまま世界に反映させる「散文」のモデルに近いものがあるし、詩とプログラミングとどちらを学びたいかを問われて「プログラミング」を選ぶ人の多いことは、詩の言葉よりも散文的なものが求められている状況を反映しているのではないか。

散文では、言葉の一つ一つは読んだそばから消えていくが、読書体験だけは確実に残っていく。そういう微妙な、言葉のレベルではなく思考や体験のレベルで本を批評したり、書いたりすることが現代では必要なのだろうと思う。そしてやっぱりヘーゲルはそういう意識を先取りして論じている辺りさすがだなあと改めて思うのでした。