Tuesday, 30 December 2014

History of Negative and Complex Numbers

Textbooks in mathematics tend to contain very sloppy history. For example, one textbook on abstract algebra claims that mathematicians had disputes over negative and complex numbers because "the idea of a system of numeration which included negative numbers was far too abstract" and because "they couldn't find concrete examples or applications" (A Book of Abstract Algebra, 1990, p.2).

It is quite obvious that the disputes over negative and complex numbers were not due to lack of intelligence on the mathematicians' part nor to the lack of "concrete" (whatever that means) examples or applications. In fact, it was the same mathematicians who contributed most to the development of methods using negative and complex numbers, and these same thinkers had no problem finding "concrete" examples, chiefly that of debt and of squares.

Other books deal with the history of negative and complex numbers differently. In Negative Math: How Mathematical Rules Can Be Positively Bent, Martinez presents a much more nuanced history behind these disputes. Martinez shows, for example, that one chief concern with negative numbers is its lack of symmetry with positive numbers. While it is true that part of these problems were due to the types of intuitions which the mathematicians replied upon, it is perhaps more accurate to say that the chief problem was how to integrate and incorporate negative and complex numbers into the system of numbers as it was generally accepted at the time.

The problem, therefore, was not the lack of concrete applications, but rather the lack of a clear and concise way to relate negative and complex numbers to various other operations already accepted in mathematics.

This way of looking at the history of negative and complex numbers allows us to avoid certain prejudices which seem to color certain textbook account of the same history. According to the latter, mathematics prior to the 20th century was a jumble of confusion, and while it may hold some "historical" (meant in a derogative sense) interest for us, it does not present us with anything more interesting or worth grappling with. However, the fact of the matter is that this history is essential in understanding why negative and complex numbers are treated in the way they are today, at least at the university undergraduate algebra course level. As Martinez observes, many of those old problems disappear not because they are simply discarded, but because they are set aside unsolved and then are not taken up by others later on.

Monday, 29 December 2014

理念は出発点を産出する

年末も近付き、まずは自分の身辺のことからと、カーテンなど洗濯をし、狭いアパートだが隅々まで水拭きをし、年越しに備えて買い物をし、そしてヘーゲルの『論理学』についてのメモを完了した。

理念の章は「生命」「認識」「絶対理念」の三部にわかれる。生命では、理念が個体となる。個体は自らの外、環境を自ら産出する。この環境と個体とが対立する。環境の中には、この個体を生成するために必要な物質が存在する。こうした物質を存在せしめているのもこの生命体である。こうして、生命体は繁殖し、死滅する。新しい個体を自らの環境の中から産出する生命は「類」である。

類はしかし、環境の外部にあるものごとを自らの一部としきれていない。ここに「類」の抽象性がある。類として存在する生命は、その外部と関わっている。生命体とその環境との全体としての生命が自らの外部と関わること―これが「認識」である。

認識には二種類ある。まず、真実の理念、理論である。理論では、外界がそのままの状態で類と対立する。類はこの外界をまずは「分析」し、受容する。つづいて、生命はこの外界を自らの内に理念的に再構成する。そのために必要となる手続きは「定義」「区分」「定理」である。理論はこうした手続きを踏んだ上で、外界を「証明」してみせる。しかし、この証明の出発点は「定義」であり、定義は外界から「与えられた」ものごとに依拠している。そのため、理論にはまだ抽象性あるいは偶然性が伴っている。

理論の外界への依拠を解消するのが、認識の二つ目の種類、善の理念、行動である。行動とは、定義を自ら産出することである。例えば、理論においては「平行線は交わらない」といった定義が「平行線そのもの」によって「与えられた」かのように存在するが、行動においては、「平行線は交わらない」という定義によって、平行線そのものがそのような規定をもって存在するようになるのである。

ただし、数学ではこうした「行動」は不可能である。というのも、数学は抽象的な科学であり、実存する理念のもつ具体性をもたないからである。そのため、さきほどの平行線の例はあまり良い例ではないかもしれない。行動の具体例としては、例えば商売における「売買」などの方が優れている。値段というのは売買の過程において決定するが、それはこの過程以前から定まっているわけではない。こうした意味で、行動は理論のもつ偶然性を解消し、理論における出発点が同時に理念によって産出されたものとするのである。

理論と行動とは理念の発展の二つの要素であり、互いに対立してはいるが純粋に区別されることはない。理論の対象となる規定はすでに行動によって産出されており、行動によって産出される規定はすでに理論によって認識されているのである。このような運動が「絶対理念」である。

絶対理念は、理論の出発点となっていた「外界」を抹消する力をもつ。具体的には、次のような運動をする。まず、理論は理念の規定として「AはBではない」という判断をくだす。これが第一の否定である。この否定によって、理念は具体的な内容を獲得する。つづいて、行動は「AはAではないものではない」という形で判断を解消する。これが第二の否定、否定の否定である。これによって、Aという規定は単独性を獲得し、あらゆる他者に対して絶対的に安定する。さらに、絶対理念は第三の否定を行う。「AはAではないものではなくない」という具合である。これによって、AはBからの区別による規定を失い、また何かの否定によって規定を得ることそれ自体もなくなるのである。これによって、Aは純粋な「出発点」となる。これが、絶対理念により出発点の産出である。

理念は出発点を産出することによってその役目を遂げる。もちろん、出発点は何度も産出されうるので、理念に適うだけの密度と主観性とを備えたものが登場するたびに新しい出発点が生まれるだろう。つまり、研究の対象となると同時に、この研究によって形成されうるような理念が登場するたびに、出発点は産出されるのである。

ヘーゲルの時代においては、論理学によって純粋理念が産出され、自然哲学によって自然の理念が産出された。また、マルクスは『資本論』によって資本の理念を産出し、新しい出発点を提示した。他にも、芸術の理念、神の理念、学問の理念、歴史の理念などが産出された。こうした理念はそれぞれ具体的な規定を持ちつつ、同時にある特定の過去にはひきずられずに自由に発展する思考形式の全体である。

Sunday, 28 December 2014

思想の科学とひとびとの哲学

鶴見俊輔をはじめとするメンバーによって展開された運動に「思想の科学」および「ひとびとの哲学」がある。今年の7月に、この思想の科学についてNHKでドキュメンタリーが放映された。このドキュメンタリーや『共同研究・転向』からみえてくるこの運動の原理は次のようなものである。

  • 思想は使うものである
  • 日本を戦争に導いた政治体制を批判しなければならない
  • なぜ戦前・戦中の知識人たちは公の場で戦争反対ができなかったのかを解明する
  • 人民の「ふつうの言葉」によって戦争を批判し平和を追求できるようにする
  • 戦後の「芯」となる思想をつくる

こうしてまとめてみると、思想の科学やひとびとの哲学は、政治運動ではあっても哲学ではない。哲学とはいえない理由は主に三つある。

  1. 著作物の内容が「貝殻的人間」などといったいわゆる感覚的な表現と、「転向」といった政治的表現とによって占められている
  2. 戦争のありのままを描くという作業と戦時中の体制や知識人、民衆を問いただすという作業とが混同されている
  3. 平和を築くという政治的な意図が著作物の内容をあらかじめ決定している
NHKのドキュメンタリーを観ると、「~べきだ」「~を感じた」という言い方が頻出する。ここから、規範意識と感覚とが思想の科学の支配的な位置を占めているのがわかる。例えば、「人民が哲学者になるべきだと思った」というような言い方がそれだ。

なぜ感覚や規範意識は哲学の妨げになるのか。

ヘーゲルの言を借りると、哲学とは「ある時代を思想によって表現すること」である。思想とは、比喩や政治や規範などにも暗に含まれてはいるが、そういった形式では純粋には表現されえない。思想とはそうした感覚的・規範的・政治的な側面を排除した言葉によって表現されるからである。

例えば、「あの知識人は転向すべきではなかった」という言い方は、「知識人は思想と行動とが矛盾してはならない」という道徳規範を含む。「民衆は貝殻的人間だった」という言い方は「貝殻」という具体的なイメージを含む。含むだけではなく、そうした規範やイメージを抜きにしては無意味となってしまう。しかし、例えば「知識人は自分の行動がどうであれ真実や理想を説くべきだ」と言ってみることも可能である。ここにも道徳規範が含まれる。そして、この道徳規範からは、「あの知識人は転向してもよかった」という結論が導かれるだけでなく、そもそも「転向」などというものは思想的意味をもつのか、という疑問すら導かれる。また、「貝殻」の代わりに「火の玉」を使えば、戦争を肯定する人間像を容易に描くことができる。いずれの場合でも、あらかじめある規範やイメージに従っている状態でしかその思想を理解することも真実として認めることもできない。しかし、これでは何の証明にも推論にもならない。よって、感覚や規範は哲学にはふさわしくないのである。

また、「人民が哲学者になるべきだ」という規範意識も疑問である。戦争に反対する必要性と、哲学者になる必要性とは結びつかない。もちろん、哲学者の中には戦争反対をするだけの勇気を持っているひともいるだろうし、逆に戦争反対をする個人の中には哲学者もいるかもしれない。しかし、哲学者であることと戦争に反対することとの間には、非常にゆるいつながりしかないのである。

というのも、戦争に賛成か反対かといった問題は、哲学者にとっては大切ではないからである。哲学者にとって重要なのは、天皇制を敷く憲法国家が戦争をするのはなぜかという問いである。戦争は実際に起こった。人々は戦争をした。それはなぜなのか。このことを、全く抽象的な立場から思想によって表現するのが哲学者である。

哲学者になるのは容易ではない。というのも、哲学者とは、科学や常識の自明性を捨てるからである。例えば、戦争の一要因として個人の責任をあげるにしても、哲学者は「もしこの個人が違う決断をしていれば戦争は防げていた」というような個人主義に凝り固まってはいけないのである。逆に、「このような社会制度さえあれば戦争は防げていた」「このような文化的風習のせいで戦争が起こった」というような説明も、それなりに真実ではあっても自明のもの、十分なものとしては認めることができない。「近代国家とは何なのか」「なぜ近代国家は戦争をするのか」という根本的な問題から始めるのが哲学であり、日本の体制や文化、指導者たちをベースに戦争を研究するのは心理学、社会学、あるいは政治科学である。

思うに、人民は哲学者になる必要がない。つまり、あらゆる学問を修め、それによって時代の全容をとらえ、その全容を思想によって表現するという作業をする必要がない。しかし、哲学を一般教養としてある程度修めること、哲学の門戸をより多くの人に開くということは重要だと思う。そのために、なるべくわかりやすい言葉で思想を表現するということは大切である。そうはいっても、感覚的イメージや規範意識などに訴えかける言葉は、哲学にはふさわしくない。そのため、哲学とは必然的に大衆受けしない学問となってしまうのである。あるいは、大衆受けする「哲学」として出回っているものはどこかで美意識や規範意識などに一方的にうったえかけているためいかがわしい。

「思想の科学」の出版物の中には、民俗学や社会学、政治科学と呼ぶにふさわしいテキストがたくさん含まれている一方、論理学や自然哲学、政治哲学といった純粋な哲学思想がほとんど見当たらない。

この運動の政治的な意図は立派なものである。また、ここに投稿した書き手たちは皆それぞれ非常に深く自分の題材を研究し、「お守り言葉」ではない言葉によって研究成果を書き残している。 こうした意味で、思想の科学は非常に有益な運動である。

ただし、哲学とはそうした政治的意図をもっており、イメージや感覚に頼った言葉によって展開しても良いのだ、という立場を暗に表明している点では、思想の科学には問題がある。恐らく、この運動のメンバーたちは、「思想によって時代を表現したい」と感じていたとは思う。しかし、実際にかれらが出版した作品群の中には、この感情が十分に反映されていない。なぜ日本は戦争をし、戦争によって日本はどのような国家となったのか―この問いが哲学的な意味をもつ限り、これはまだ未解決なようである。

Saturday, 27 December 2014

哲学の本の構想と悩み

『論理学』に関するメモがそろそろ完了する。残すところは「概念論」の「理念」の章だけだ。このメモを元に、ヘーゲルの論理学についての本を書きたいと思っている。

思ってはいるのだが、悩みがいくつかある。まず、「ヘーゲル」という名前をあまり本文で使いたくない。例えば、数学をまるっきり知らない人が、「ツェルメロ」や「ゲーデル」といった名前が頻出するテキストを読むかどうか… 書き方にも拠るのだろうけれど、人名を出しすぎると文章の内容に注ぐべき注意力が削がれてしまう可能性がある気がする。

次に、単に『論理学』の要約がしたいのではないが、ではどのような現象を題材にすれば良いのかというところで悩んでいる。日本の憲法改正議論や自然災害を題材にしたいとは思っているが、芸術や科学などの分野ではいまひとつ焦点が絞れずにいる。数学では「計算可能性」を扱いたい。

本の内容や書き方についての悩みに疲れると、表紙についてあれこれ考えるのが気休めになる。ヘーゲルは仕事机に嗅ぎ煙草を常備していたので、年寄りの手が嗅ぎ煙草をつまんでいるところのデッサンみたいな表紙が良いと思った。煙草の煙が、「Ἓν καὶ Πᾶνh」 (en kai pan)の三語となる。



クリスマスカードが何通か届いたが、その一つの差出人が「Santa」となっていた。しかもカードの中のサインも「Santa」。粋なことをする人もいるものだ。

クリスマスや年末年始であるにも関わらず、働いている人たちがたくさんいる。以前は、年末を迎えても時間の経過を感じずに新鮮な気持ちだったのだが、今年は時間の経過をやけに重く感じてしまう年末となりそうだ。自分はクリスマスや年末に働きたくはないが、働いている人たちも大勢いる。 


久しく新しい本を購入していなかったが、『Computability and Logic』『Book of Abstract Algebra』『ヒナギクのお茶の場合』を買った。芸術では多和田葉子さんの小説について何か書きたい。彼女はゲーテくらいすごい書き手だと思う。

Thursday, 18 December 2014

学校に行く理由

学校という概念があるとしたら、それはどのような概念だろうか。

学校を最も簡潔に定義するとしたら、「学校とは学ぶ場所である」となるだろう。しかし、この定義は昨今の学校の実態とかみ合っていない。

思うに、本当に生徒が学ぶ場所は、塾や友人の家や図書館や喫茶店や電車の中などである。学校とは、生徒にとっての職場である。つまり、生徒は学校で「業績」ならぬ「成績」を修めることを求められる。失敗や寄り道は許されてはいるが、その代償として自分の評価が下がり、それが将来の不利益につながることもある。ちょうど職場で職務をこなせない社員が減給になったりクビになったりするのと同じように、学校という場所で結果を残せなかった生徒は低い成績をつけられたり留年したりする。

このように、学校は「自由に学ぶ場所」ではない。学校で学ぶこともあるが、それはあくまで二次的な副産物である。極端な話、学校で何も新しいことを学ぶことができなくても、完璧に生徒としての義務を果たせばそれで良いのである。

自由に学ぶとは、ではどういうことなのか。それは、失敗が忘れられるような環境で学ぶことである。例えば、数学を学ぶときに、三角比が苦手な生徒がいるとする。この生徒は、どんなに頑張っても、三角比の相互関係を使った問題が解けない。学校では、これができないということがテストの結果という形で(大袈裟な話)一生記録に残る。高校の通知表を見れば、「ああ、この生徒はここでつまづいたんだな」と誰でもわかるようになる。生徒もそのことは重々承知しているので、三角比の相互関係を使った問題を解く意欲は無くなるだろう。というのも、そこで足踏みをしたり大失敗をしたりするのは、生徒にとって「不利」に働くからである。

対して、塾では学校の成績表のように生徒の成果が記録に残らない。もちろん、塾の記録には残るが、塾の記録は生徒の将来にほとんど影響を及ぼさない。そのため、生徒はテストであらゆる失敗をすることができるし、全く理解できない単元で足踏みすることが許される。これが、自由に学ぶということの大切な一要素である。

教える側にとっては、この「自由に学ぶ」段階で最も腕が試される。教師は、生徒を単に評価する立場から、生徒の悩みを聴いて生徒にとって必要なことをする立場へと、立場を変える必要がある。これがけっこう難しい。例えば、「この生徒は三角比の相互関係でつまづいている」ことは簡単にわかるし、それを生徒に言うのも簡単だ。しかし、「なぜこの生徒はここでつまづいているのか」「この生徒はどのようにつまづいているのか」という問いに瞬時に答えるのは難しい。この生徒は何かを勘違いしているか、あるいはある「思考の悪癖」を持ってしまっている。この「悪癖」は何なのか、それはどのようにすれば乗り越えられるのか。

昔数学が苦手だった人の方が数学を教えるのが上手、といわれる所以はこのあたりにあるのだろう。

もちろん、これは生徒と「等身大の目線に立つ」などという意味ではない。教師は生徒と等身大になってしまっては良くない。教師は常に生徒よりも上である。よく、「私は生徒から多くのことを教わっている」と口にする教師の姿を眼にするが、生徒たちにはそれを言うなと思ってしまう。教師は実際に生徒よりも上であり、かつ生徒から「自分よりも上」とみられることによってでしか良い仕事ができない。それを、生徒に「僕は君たちから学んでいる、これは学び合いだ」などと言ってしまっては、こうした立場の違いがないもののようになってしまう。

とにかく、学校は「学ぶ場所」というよりはむしろ「結果を残すべき場所」になっているのが現状だろう。 これが良いのか悪いのかは、学校の概念とは何なのかを考えた先にわかるはず。

Monday, 15 December 2014

リベラリズム・選挙結果・プーチンの右腕

最近、苫野一徳という若い哲学研究者のブログを読む機会があった。1980年生まれと若く、また文章も読みやすい。その上、作家や他の哲学研究者たちと積極的に公開対談などのイベントも行っている。脳科学における茂木健一郎氏のような存在に、哲学の分野においてなってくれるのではないかとすら思ってしまう人物である。

苫野さんは今年の5月に「TED×Tokyo」でスピーチを行った。 このスピーチで、苫野さんは「哲学は役に立つ」という主張をした。具体的には、哲学は「信念の対立」を克服したり、「鬱を治したり」することができるらしい。どのようにそれが可能なのかといえば、苫野さんによると、それは二つの原理から可能になっている。一つ目は「欲望相関性」、二つ目は「相互承認」。

「欲望相関性」によれば、私が何か「信念」をもつとき、その信念をもつ理由は私の欲望によって説明できる。苫野さんの例によると、例えば「いじめ厳罰主義」を信じる人は過去にいじめられた経験があり、それによって「いじめをする人に復讐をしたい」という欲望を持っているかもしれない。対して、「やりなおし主義」を信じる人は、過去に誰かをいじめていた経験があり、いじめっ子である自分にやりなおしの機会を与えてくれた指導者をもっていたかもしれない。そのため、「いじめをする側にもやりなおしの機会を与えたい」という欲望を持っており、このような信念をもつに至ったのだろう。こんな風にして、人のもつ信念は、その人の個人的な体験やそれから生じる個人的な(あるいは主観的な)欲望へと還元される(あるいは、少し悪い言い方をしてしまえば、「すりかえられる」。)

「相互承認」によれば、私たちは信念が対立しあうときでも、まずは自分とは異質な信念をもつ相手を「承認」すべきである、ということになる。ただし、これは条件付きだ。苫野さんはここに、「人を傷つけない限り」とりあえずは認め合う」と付言している。つまり、他の人を「傷つける」可能性のある信念は、そのまま認めてしまってはいけないというわけである。こう言い添えた上で、苫野さんは、「この原理は民主主義の根本にある」と言う。苫野さんのスピーチはこの辺りで完結する。

このスピーチは、リベラリズムの考え方をとてもわかりやすく提示している。あらゆる信念を個人の「欲望」に置き換え、個人同士を「相互承認」させることで実質的に無力にする―リベラリズム的な支配とはこういうものだ。

たしかに、「人を傷つけない」信念に関しては、そのまま「承認」することもできるだろうし、それが無難だろう。しかし、そのような信念はそもそも「承認」される必要もない。承認される必要のある信念とは、必然的に他人を「傷つける」可能性をもっている。例えば、「いじめ厳罰主義」「やりなおし主義」は、どちらも人を傷つける可能性を持っている。具体的には、前者はいじめっ子やそのいじめっ子に厳罰を加える人々を、後者はいじめられっ子ややりなおしの機会をつくる教員たちを。

すると、どちらの主義を「承認」するかは、単なる「欲望」の問題ではなくなる。しかし、リベラルな考え方は、この点から眼をそらすための言い訳としても機能しうる。例えば、「やりなおし主義」を唱える人は、本当に自分の立場が善いと信じており、信じているだけではなく経験的にもそれを感じており、また自分の経験などという狭い尺度ではなく、ちゃんと色々な調査をした上でこの結論に論理的に辿りついたはずなのである。「いじめ厳罰主義」を唱える人も、それは同じだ。すると、それぞれの「信念」を唱える人の個人的な経験や欲望は、この議論には関係がない。この対立はあくまで論理的に解決されるべきであり、議論を行うべきは専門家である。

さて、「いじめ問題」の例では、厳罰主義とやりなおし主義のどちらがいじめを抑制できるのかを実証的に調べることができる。(つまり、全国調査をして統計をとったり、教員や生徒にインタビューをするなどして。) しかし、実証的には解決できない問題もたくさん存在する。

例えば、「今回の衆議院選挙は何だったのか」という疑問に対しては、さまざまな主義主張があるだろう。また、「そもそも衆議院選挙とは何なのか」という疑問に対しても同様である。しかし、こうした疑問は、過去に行われた衆議院選挙を観察しただけでは解決することが到底できない。それでも、こうした疑問は解決されるべきである。では、どうすれば良いのか。

選挙結果をみて、色々な信念を抱く人がいる。かれらの信念を「承認」すれば、それで良いのか。その程度の信念なのであれば、さきほども述べたように、そもそも承認する必要がない。個人的な空想にすぎないからである。承認するに足る信念とは、何の理由もなく承認してしまってはいけない。しかし、選挙に関する哲学的理論は、実証的に裏付けることができない。では、どう裏付ければ良いのか。その理論に使われているカテゴリー(思考形式)が果たして演繹されたものなのか、それとも無根拠なものなのかを問う、という方法がある。ここではしかし、この方法にはこれ以上深入りしない。

リベラルな考え方に対して、ロシアは対立している。プーチンの右腕の理論家に、アレクサンダー・ドゥーギンという人物がいる。ドゥーギンの政治思想がどのようにリベラリズムと対立するのかを、マイケル・ミラーマンが説明している動画がある。

ミラーマンによれば、リベラリズムにおける「相互承認」とは、リベラリズム的な形而上学(あるいは「世界観」)を暗に強要している。具体的には、あらゆる問題を「個人の選択の自由」に置き換え、「資本主義」や「議会民主制」などといった制度への批判は許さないのである。また、「宗教」や「教育」、「家族」などについても、伝統的な価値観をリベラリズムは暗に壊す。これも、「個人の選択の自由」という考えが壊すのである。

これに対して、ドゥーギンはロシアに「ユーラシアニズム」という思想を見出す。これによれば、ロシアは個人ではなく共同体のレベルで人々が信念を持つことができるようにすべきである。例えば、「一夫多妻制」を重んじている共同体は、この信念が持続されるような領土と経済状況とを確保されるべきである。あるいは、「ロシア正教会」も、礼拝などの儀式を行えるような環境(教会や休日など)を保証されるべきである。これらは、単なる「個人の選択の自由」の問題ではないからである。

こうしたロシアをつくるためには、ドゥーギンいわく、現在のロシアの影響力を広め、「ユーラシア」を構想(あるいは奪還)する必要がある。ロシアは元々アジアとヨーロッパとにまたがる広大な領土をもつ国家だった。それが、シノソヴィエト連邦の崩壊後、領土が急速に縮まってしまった。これは、1000年の歴史の中でも初めての事態である。ロシアが「ユーラシア」をどのように実現するつもりなのか(占領によるのか、国連のような形なのか)について、ミラーマンもドゥーギンも具体的なことを言っていない。

さて、「ユーラシアニズム」は、「リベラリズム」とは明らかに対立する考えである。これを「承認」するためには、例えば「自由とは個人の選択の自由である」といったような考えを放棄しなければならない。具体的には、ウクライナのような国家は、リベラルとなるかユーラシアンとなるか決断を迫られるのである。ここでは、「相互承認」といった考えは全く無力なものとなる。

さらに、これはドゥーギンやプーチンの個人的な過去や経験、欲望に置き換えて議論できる問題でもない。極端な話、かれらが皆躁鬱にかかって機能不全に陥ったとしても、リベラリズムかユーラシアニズムかといった議論は続くし、色々な国家に属する数多くの市民がこれに深い影響を受けることになる。(例えば、宗教、家族、仕事をどうするのかといったことだ。)

こうしてみてみると、リベラリズムは、より大きな対立の一項目である。リベラリズムとユーラシアニズムの対立は、その全体もまた二つ存在する。つまり、リベラルな視点からみたこの対立と、ユーラシアンな対立からみたそれとである。全体としても対立しあい、二つの全体像の内部においてもそれぞれ対立している―これが政治思想の対立の構図である。

ヘーゲルはこうした複雑な対立の構図を丁寧に描くことに専念した。現代においても、優れた政治哲学者はそのような仕事をしている。ドゥーギンはその一人である。哲学を学ぶことによって鬱が治るのは素晴らしいことだが、哲学が「役に立つ」かどうかはそうした個人への効力で議論すべき問題ではない。哲学の意義は、信念の対立の構図を描くことである。そして、対立する信念の内、どちらがより優れた信念なのかを論理的に決定することである。「みんなちがってみんないい」という立場は、あくまでリベラリズムの一方的な考えなのであり、哲学の根本原理には到底なりえない。

(今回の衆議院選挙は、小泉純一郎の劇場政治よろしく茶番であった。具体的な論点がないのである。安倍首相は、「消費税増税を先送りするという決断をしたが、それが公約違反なので、国民に改めて信を問う」という大義名分を掲げてはいるが、実際は自分の内閣や自民党の政治を延命しつつ改めて正当化するために選挙をしたのである。私は、一部で声高に叫ばれているほどに今の政権に危機感を持っていない。持つ必要がないからである。安倍内閣は小泉内閣と同じ「劇場政治」であり、実質がない。たしかに、雇用率の問題やワーキングプアの問題、過労の問題、家族崩壊の問題や教育の問題など、山積している問題は全く解決・解消されずにいるだろう。しかし、それは野党が政権をとったとしても同じなのである。重要なのは、「今の政治がそのような問題を解決してくれる」という考えを幻想として捨てることである。政治には、こうした問題を解決する力はないし、その力がないということを批判するのも筋違いである。そのため、自民党・公明党の圧勝という選挙結果は、むしろ反動的な野党政治が出てくる可能性をつぶしてくれたという意味では良かったと思う。もちろん、これが「私たちが日本の経済を立て直します」「私たちが教育を再生します」といった動きに本格的になってしまっては一大事なのだが。劇場政治は、あくまで劇場にとどまるべきなのである。)


Sunday, 14 December 2014

偽の自由と真の自由

カントは哲学史において初めて人間の自由を哲学の中心的主題に添えた。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルをはじめ、カントに反応した思想家たちもまた、同じ主題と闘った。かれらの仕事を読むと、人間にとっての真の自由と、私たちが今この社会に生きることによってたまたま思い込んでいる偽の自由との違いをみてとることができる。

偽の自由とは...
  • 「趣味の自由」―私は自分のやりたいことを趣味としてやってもよい。
  • 「職業選択の自由」―私は自分の職業を選ぶことができる。
  • 「住まいの選択の自由」―私は自分の住みたい場所を選ぶことができる。
  • 「性的自由」―私は異性あるいは同性の相手と自由に性的な関係を結ぶことができる。
  • 「投票の自由」―私は自分の選ぶ政党に投票することができる。

真の自由とは...
  • 「義務の自由」―私は私がすべきことを自分で自分に命令することができる。
  • 「考える自由」―私は私の理性を最大限行使することができる。
  • 「判断の自由」―私はあらゆるものごとを自分の理性に照らし合わせて判断してよい。

偽の自由に共通していることは、個人をその人の外にある何かに依存させる自由であるという点だ。例えば、「趣味の自由」の元には、お酒を飲む自由や、習い事をする自由などが含まれるだろう。すると、「この習い事をしたい」「お酒を飲みたい」などといった欲望を肯定することになり、「もうこの習い事ができない」「もうお酒が飲めない」などといった状態が受け容れ難いものになりえる。しかし、習い事やお酒などといったものは、主体である私にとって外的なものである。同様に、「住まい」「職業」「性」「投票」も、それぞれが私の外にある何かによって決定されているため、真の自由とはいえない。

対して、真の自由においては、私の外にあるものごとは私を支配したり限定したりすることがない。例えば、「義務」とは、ここではカント的な意味を持つ。そのため、例えば「結婚する」という義務は、私が私自身に課す義務であり、それは私の外にあるものごとには影響を受けない。あるいは、もっと抽象的なレベルで、「私は義務を果たす」という義務も、やはりその義務の内容が何かが関係ないので、私の意志以外によっては影響を受けない。

もっと厳密に言うならば、真の自由においては、自由の内容が意志されている時点においてその人は自由である。もちろん、例えば「結婚する」という意志は結婚相手がいなければ実現されえないし、「自分の義務を遂行する」という意志も、自分の義務がそもそも何なのかはっきりしていない個人にとっては実現不可能である。他方で、しかし「結婚する」とは結婚相手がいる状態を保つということであり、「義務」についても、ある義務を持ち続けるということである。そのため、たとえ有限な意志であっても、こうした意志をもつか否かは正に自由な個人としての「私」にかかっている。その意味で、こうした意志は「意志した時点で私を自由にする」のである。

...ということを、カントやヘーゲルはかなり具体的な文脈で論じた。

Friday, 12 December 2014

無垢な概念から判断へ

『論理学』の「概念論」は「概念それ自体」と題された章で始まり、「絶対理念」の章で終わる。

概念それ自体とは、まだ概念のもつ諸規定が差別化されていない状態である。例えば、「国家」という概念があったとして、まだこの概念は「法律」「市民」「階級」などといった形式へと細分化されていない。そのため、この段階における概念は「無垢」と呼ぶことができると思う。

無垢な概念は、しかし、生成された思考形式であるという過去をもつ。その過去とは、「有」と「本質」の各思考形式である。「有」は、それ自体としては他者へと移行する単純態だった。例えば、「ある国」は「別の国」とは排他的に区別される。そのため、ひとつの国の領土や法律などが有効な限り、別の国のそれらは無効である。「本質」の思考形式は、逆に、他者に「投影」される、あるいは他者から「反映」されることによってのみ存在する「投影体」である。例えば、文化としての「その国らしさ」は、国民の活動―食事のとりかた、子どもの育て方など―に「投影」され、それらによって「反映」されている。「これがこの国の文化だ」と、ある存在(つまり「有」の形式)をとりあげて名指しすることはできない。概念とは、本質の各思考形式が同時に有としても成立している状態のことである。例えば、国家の概念は、「国らしさ」 であると同時に「ある国」でもある。国家の概念は単純にある国を取り出してみただけでは成立しない。例えば、アメリカを国家の概念そのものだと言うことはできない。同時に、国家とは、単なる投影としてのみ存在することもできない。「これが国だ」と直接名指しできる何かがなければ、「国らしさ」もまた存在しない。国家とは、「ある国」が同時に「国らしさ」の投影体でもあるような、そんな概念なのである。

こうした意味において、ヘーゲルは次のように述べている:「概念は、同時に普遍性、特定性、そして単独性をあわせもつ。概念においては、これら三つの規定が順を追って提示されることはなく、一つが提示されると、直ちに他の二つもまた提示される。」

普遍性とは、「国らしさ」のことである。しかし、概念における「国らしさ」は、もろもろの存在の中に投影されている場合のみ現実的である。そのため、普遍的な「国らしさ」は、同時に特定の「国らしさ」でもある。例えば、日本における人間関係のフォーマリズムなどは「日本らしさ」であり、これは特定の国らしさである。この「日本らしさ」が同時に「国らしさ」でもある。さらに、「日本らしさ」はそれ自体としてまた他の存在や本質を提示することができる。例えば、日本の学校教育における諸活動は、「日本らしさ」から派生したものとしてのみ成立している。そのため、 特定の国らしさは、それ自体が自立した普遍体として存在する。これがヘーゲルのいう「単独性」である。

概念において、普遍性と単独性とは激しく対立する。一方で、「国らしさ」は特定の国とは別の純粋な概念であろうとする。しかし、他方で、「日本」のような単独の国を通してでしか、「国らしさ」は現実を獲得することができない。「日本は国である」というような考えを通してのみ、「国らしさ」もまた現実に存在する概念となるのである。また、単独体である「日本」も、「国らしさ」をもつことによってでしか単独体でありえない。こうした意味において、「国らしさ」と「日本」とは同じ概念(国家の概念)の内部において対立する二つの規定である。一方は普遍性、他方は単独性であり、どちらも概念の全体たろうとする。つまり、国らしさの側からは、「日本らしさ」とは「国らしさ」を基準として定められるべきであるが、日本らしさの側からは、「国らしさ」が「日本」を通じて規定されるべきである。この緊張関係が、ヘーゲルのいう「判断」(Urteil)である。

判断においては、無垢な概念に潜在していた諸規定が現実の世界においてそれぞれ区別された状態で提示され、対立しあう。それでも、判断によって生じたこれらの諸規定は、もともと一つの概念がもつ諸規定なので、いずれはこの概念の内へと統一される。現実へとこうしてバラバラに拡散しつつ、概念へと収斂されていくわけだ。こうして、概念は現実化され、「理念」となる... という筋書きをヘーゲルは用意しているらしい。しかし、ことはこれほど単純ではなさそうだ。概念はダイナミックな思考形式で、「有」のもつ単純さや「本質」のもつ一方的な繊細さをあわせもってさらに複雑だ。

外はとても寒い。乾いた風が強く吹いている。少し窓を開けた。不思議とこの冬の風が暖かくすら感じる。風の音は好きだ。今夜はよく眠れそう。

Friday, 28 November 2014

概念と精神、その他の雑感

ヘーゲルの『論理学』の日本語まとめもいよいよ第三部「概念論」に突入した。「本質論」の最後では「因果律」(causality)が描写されている。はじめは「持続体(substance)が自らの一部として同時に自らの全体でもあるような出来事(accident)を提示する」ことがイコール因果律である。このとき、持続体は原因、出来事は結果だ。しかし、この段階においては、同じ内容のものがあるときは持続体=原因として、またあるときは出来事=結果として提示されるにすぎない。例えば、地球の重力とは、地球の運動である。このとき、地球の重力が原因であり、その結果地球は運動をする。しかし、両者の内容は、まだこの段階では地球の運動というひとつの現象である。こうして、同一の内容をもつ因果律から、ヘーゲルは「現実の因果律」(real causality)が生じる過程を描き、さらにこれが「相互作用」(reciprocal action)にまで発展する道のりを描く。 

『論理学』の中には、ときどき、理論の本筋から少しそれた考えが登場することがある。「因果律」の部分でも、ヘーゲルは物体における因果律と、精神におけるそれとの違いについて、脱線をしている。ヘーゲルによれば、精神とは機械的な原因によって機械的に動くことがない。あらゆるものごとは、精神に触れることによって、精神と対立する新たな何かへと生まれ変わる。それは電子のようなものであっても、地球のようなものであっても変わらない。精神と全く無関係でありかつ精神と関係できるようなものは存在しないのである。ヘーゲルにとって、自分の外のものごとを自分の否定あるいは自分と対立する何かへと変容させるのは「有機体」である。この意味で、動植物はすでに精神的な側面をもっている。しかし、動植物は自らの限られた環境を創造するだけなのに対して、精神とは思考の力によって全てを創造する。論理学における「概念」は、哲学全体における「精神」に対応する。人間の精神に限らず、精神的なものが全てもつ仕組み、あるいは特性が「概念論」から読み取れたらよい。



私的なことだが、英語を教えていて思うことは、ある教え方がうまくいっているかどうかは少なくとも1年は続けてみないとわからないということだ。色々な生徒たちと触れて思うに、その場の感情で何かを評価する傾向が老若男女問わず広がっている。例えば、一回の授業でわかりづらい内容に出会うと、今までわかりやすい授業が続いてきた(はず)なのにも関わらず、「先生の授業はわかりづらい」という評価をする、などなど。また、「感情的」という点からは、実際には英語力が格段に伸びているのに、授業では常に難しい内容を扱っているために、「自分はできない」と思い込んでしまう、といった生徒さんもいる。

生徒にある程度の自信を持ち続けてもらうのは理想的だが、大したことのない英語をむやみにほめちぎっても駄目だ。こうした嘘は、短期的にはうまくいくのだが、1年、5年、10年と同じようなことを教師が続けると、自信はあるが英語はできないままとなってしまう可能性がある。難しいところだ。

基本的に、私は学びたくない人は学ばなくて良いと思っている。そのため、自分の英語に自信が持てない生徒さんに自信を持ってもらおうとはあまり思わない。私はただ「これだけできればいいですよ」というラインを示し、それに生徒さんがついてきているかどうかをみるだけである。ついてきていれば次に行くし、厳しそうならば立ち止まって復習に時間をかける。場合によっては、足踏みしている単元はすっとばして次に行くかもしれない。とにかく、生徒さんの「自信」や「やる気」などといった心理的な部分については、生徒さんが各自でコントロールしてくれれば良いと思っている。

これと関連して思うのは、私は教師と生徒との関係はそれほど親密にならなくても良いと思っている。親密な関係は、客観的に生徒の能力を評価するときの妨げにもなりうる。「この人はこんなにも積極的に教師と関わろうとしているのだから、すこし甘くみてしまおうか」ということにもなりかねない。生徒たちの中には、当然、明らかに何か家庭や学校でうまくいっていないとわかる人もいる。いじめや家庭内暴力について私は今年だけでも何回か生徒さん本人から相談を受けている。しかし、そういった生徒さんでも、やはり教師としては距離を保つようにしている。私は英語の教師なのであって、かれらのカウンセラーではない。英語を通して自信をつけてほしいという思いはあるが、それは毎週の課題をこなすことで生徒が自分で勝ち取る感情である。教師のお情けで与えられ、一方的に消費されるような感情は安っぽいし意味がない。



ジョイスは24歳のときに英語の先生としてイタリアで働いた。そのときに、かれの上司であるベルリッツ氏を揶揄して以下のようなことを書き残している。明日職場のパートナーに教えてあげるつもりだ。

"Signor Berlitz is an insatiable sponge. His teachers have had their brains sopped up. And their flesh? We've been crucified on the pole till we're skin and bones. I present myself to my pupils as an example of the giraffe species in order to teach zoology objectively according to the gospel of my master, Signor Berlitz." (James Joyce: A Biography, R. Ellmann, p.216)

ホント、英語の教師とはこんな感じである。

「ベルリッツ氏は底なしのスポンジだ。かれのために働く教師たちは、みな脳みそを吸い取られてしまった。それでは、かれらの肉体の方はどうか? われわれは、骨と皮になるまで鉄の棒に磔にされている。私はキリンの種族の見本として、生徒たちの前に歩み出る。すべてはわが主人ベルリッツ氏の聖典にもとづいて客観的に動物学を教授するためなのだ。」

日本語訳すると、ユーモアも半減するようだ。

文章を読む意味は二つ。一つは笑うため。もう一つは真剣に考えるため。笑うふりや真剣に考えるふりを強要するような読書は悪い読書だ。そんな読書を生徒に強要したくない。

Monday, 24 November 2014

『子宮に沈める』を観て

『子宮に沈める』とは、緒方貴臣監督作品の映画。大阪2児餓死事件および苫小牧の事件を題材としてつくられている。映画のあらすじは、他の方々がブログに書かれているものがある。例えばココ

映画を観終わった後、知り合いの方と近くの喫茶店でこの作品について2時間弱話をした。

まず、この作品は、ネグレクトに対する偏見を一掃してくれるという点で非常に優れている。例えば、ネグレクトというと「シングルマザーの問題」と考えてしまいがちだが、この作品は主人公の母がシングルマザーになる以前から始まっている。そのため、ここではさらにさかのぼって、そもそもなぜこの母親はシングルマザーになってしまったのかをこの作品は鑑賞者に考えさせる。

さらに、「ネグレクトは育児を怠る怠惰な母親の問題」と、母親個人の感情や性格をネグレクトの原因としてしまう考えもある。しかし、この作品では、母親は勤勉で愛情に溢れる人物である。(実際、大阪の事件の母親も、子どもに手作りの離乳食を与えたり、布おむつを使ってあげたりしていたらしい。) つまり、ネグレクトとは母親の性格の問題ではないのだ。

では、ネグレクトとは何なのか。その原因とは何なのか。こうした問いを新鮮に突きつけてくるのが『子宮に沈める』という作品だ。

自分が思うに、この問いを考える鍵となるシーンは、父親が帰宅したときに、母親がセックスを迫るシーンである。このシーンは非常に短いが、唯一父親が登場するシーンである。母親が真面目な人物であったように、この父親も非常に真面目で、帰宅が遅いのも、恐らく仕事が忙しいからである。そこへ、自分の妻が半ばヒステリックな状態でセックスを迫ってくる。「私のこと、好き?」と訊いてくる。私がもしこのシーンで父親の立場にいたら、恐らくこの父親がとった行動と同じ行動をとったろう。つまり、妻を振り払い、途方に暮れて立ち尽くし、そそくさをその場を去っただろう。この父親には、妻の辛さを受け止めるだけの余裕がないのだから。

なぜこのシーンが鍵になるのか。妻は、久しぶりに会う夫に、セックスを求める。知り合いの方と話していて、お互い一番ひっかかったのはこの点である。というのも、例えば他の言葉をかけたり、あるいは一緒に散歩に行こうと言ったり、いくらでも他に手段はあったのではないか。なぜセックスなのか。

この状況下で、セックスを求めなければいけない、というところに、実はネグレクトの根本的な原因も隠されているような気がする。そもそも、この母親は、ここまでしっかり家庭を守ることができているのに、なぜ深い孤独を感じ続けているのか。そして、その孤独を乗り越える手段として、なぜ夫にセックスを求めるのか。

それは、「幸福であれ」という命令に妻が従っているから、そして、幸福を実感するための具体的な現象として、「快楽」が必要だから、ではないだろうか。

父親と夫とは、全く異なる。同じように、母親と妻とも全く異なる。妻とは、夫との関係の中で自分自身の幸福を追求する存在である(それは夫の場合も同様だ)。対して、母親とは、子どもとの関係の中において存在するが、子どもが自らに幸福を与えてくれなくても良いと思うのが母親(そして父親)である。あるいは、子どもが健全に生存することに満足をおぼえるのが母親である、ともいえる。

簡単に言うと、親とは、子どものために生きているのだ。そのため、自らの幸福を追求することがもう許されない。

こうした考えは当然反発を生む。「父親にも母親にも、幸福を追求する権利はあるはず。それができないから、ネグレクトは起きるのだ」という具合に。しかし、これは「母親」という役目と、人間として存在する母親とを混同している。人間には幸福を追求する権利があるが、母親という役目の中には、母親自身の幸福の追求という義務は含まれていない。

それにもかかわらず、母親であるこの主人公は、自らが一人の人間として「幸福」であらねばならないと感じている。なぜ彼女がそう感じるのかはまた別の問題だ。しかし、そう感じていることは間違いない。しかし、この感情は、母親の役目と明らかに矛盾する。母親にとって、自らが幸福になるかどうかは偶然が決めることであって、幸福でないからといって母親として失格であるということにはならないからだ。

自分が幸福であるかどうかを計る尺度として「快楽」が用いられるのは、現代の風潮である。

さて、では「幸福であれ」という命令は、どのようにして母親を追い込んでいくのか。すでに何度か述べたように、母親には自らの幸福よりも優先すべきことがあり、また自らの幸福は実現する必要がない。重要なのは、家族が健全に存続していくことなのである。しかし、「幸福であれ」という命令は、「幸福でない人生は生きる意味がない」という考えを生む。つまり、健全に存続していても、母親自身が幸福を感じていなければ、それには意味がない。そこで、母親は、自らが母親としての役目を良く果たしていても、そこに満足を感じることができない。

そこで、母親は「幸福」への道を進むために、夫にすがる。それも、セックスを求めるのである。妻にとって、幸福は快楽によって実感されるのだ。そして、その快楽を与えてくれるのは、セックスなのである。あるいは、夫からの「愛の表現」なのである。しかし、これはこうである必要がない。例えば、家族についての会話から「幸福」を得ることも可能だ。あるいは、「家では全てうまく行っています」「こちらも、仕事は順調です」というやりとりから幸福を感じることもできるだろう。しかし、幸福の尺度は「快楽」なのである。そして、快楽の強さとしては、こうした会話は弱い。また、特に後者の会話は、自分の幸福よりもさらに大切な別の生きがいを持っている人でないと行うことができない。

以上のような理由から、この作品においてはネグレクトの根本的原因が「幸福であれ」という命令だということができるように思う。この作品を観て思うことは他にもたくさんあるのだが、一番重要だと感じた考えはこれだ。

それなので、ネグレクトを失くすということは、「幸福であれ」という命令から自由になるための別の言語環境を整えるということだと思う。例えば、幸福よりも義務を優先しても良い、というような。特に闘うべき相手として、「幸福の追求は人間が自然に行うことである」という考えがある。幸福の追求には何も自然なところがない。これは社会的に、特にある言語環境において構築された考えなのである。

自らが幸福であるかどうか、という問いがあまり重要ではない文化あるいは言語環境も存在する。例えば、『赤毛のアン』のような作品で描かれるカナダ、あるいは『アンナ・カレーニナ』で描かれるロシアがそれである。父親や母親が親として存在できるような言語環境はとても大切だが、残念ながら、「幸福の追求」という命令(義務とすら言ってもよい)は年を重ねるごとに威力を増している。『子宮に沈める』は、この命令に対抗する必要性を強く感じさせてくれる映画でもあった。

追記: 2015年3月にこの映画のDVDが発売された。私はもう一度観たいと思う。が、しかし、すぐには観ることができない。それなりに気持ちに余裕があるときでないと観ることができない映画だ。

Sunday, 23 November 2014

プラトンの『饗宴』―「法に対する愛」

プラトンの『饗宴』で、ソクラテスが愛についての理論を語る場面がある。ソクラテスによれば、愛には四つの段階がある。

  1. 肉体に対する愛
  2. 精神に対する愛
  3. 法に対する愛
  4. 善のイデアに対する愛
また、ソクラテスによれば、いきなり善のイデアに対する愛を感じることは人間にはできず、まず肉体、次に精神、次に法、そして最後に善のイデア、という具合に、段階を踏む必要がある。

肉体に対する愛から精神に対する愛へと移る過程は、直感的にとらえやすい。ここでいう「肉体」とは、ある人が周りの人たちに直ちに与える印象も含んでいる。そのため、例えば「この人の雰囲気が好き」というような気持ちも「肉体に対する愛」に属する。

ここから「精神に対する愛」へと移るには、まず、肉体に対する愛が消化される必要がある。肉体や雰囲気がそのままの状態で魅力的な人ほど、精神への愛の対象となりにくい。それでも、付き合いが長ければ、いつかは相手の肉体や印象や雰囲気に対して幻滅するときが訪れる。しかし、その人は単にこの肉体、あるいはこの雰囲気だけではない。その人は精神の持ち主なのだ。精神とは、他者、あるいは自分と対立するものを否定し、この否定によって存在するものである。その人の肉体や雰囲気に対する幻滅は、私がそれを感じる遥か以前から、すでに相手によって感じられているのだ。その幻滅の感情を共有することで、肉体に対する愛は消化される。

精神に対する愛から法に対する愛への移行が、哲学の学生も含めて、多くの人を困惑させる段階だろう。肉体や精神はある一人の個人に属するのに対して、法や善のイデアはそうした個人を超えて存在するものだからだ。愛とは、そもそも個人に対する感情ではなかったのか。

法に対する愛とはそもそも何なのか。それが、僕にはかなり最近まで理解できなかった。最近になってようやくわかってきたのは、次のような考えだ。精神は、目の前に直ちに存在する物質的な現実を絶えず否定し、その否定によって存続する。ある一面では、精神は物質よりも抽象的であるといえるが、別の一面からは、物質よりも精神の方がより具体的であるといえる。というのも、物質的現実はこの一瞬、あるいはある一定の限られた期間存続するのに対して、精神的現実はある意味時間を越えて存在するからである。例えば、気心の知れた友人と久しぶりに会うとき、その友人は物質的には、肉体も雰囲気もずいぶん変わっているだろう。それでもその友人が以前の友人と同一人物である理由は、かれの精神が以前と同じだからである。つまり、私にとって気心の知れた友人とは、この肉体をもった人物ではなく、この肉体がなくても存続するような精神のことなのだ。すると、精神的なものは、肉体を超えて人々の記憶に残り続けることになる。では、精神を消化した先にある「法」とは何なのか。法とは、精神からその個性や偶然性を取り払った結果生じるのだと思う。例えば、さきほどの友人を例に考えてみる。その友人と以前時間を過ごしたことによって、私はある別の法則あるいは法に従って生きるようになっている。例えば、自分の肉体に気を使うようになったり、あるいはものごとをそれほど悩まなくなったり。こうした法則は、まずはその友人の精神がもつ力として存在していた。しかし、その友人の精神がこの場を去った今でも、私の生活の中にはまだこうした法則が残っている。意識してようとしてまいと、こうした法則に従っている限りにおいて、私はこの法則を「愛している」のだ。こういう意味において、法に対する愛は精神に対する愛の先に存在し、後者よりも一層深いのだ。また、肉体と精神の関係においても言えたことだが、精神と法を比べてみても、ある意味後者のほうが抽象的だが、やはり別の意味においては後者のほうがより具体的だ。というのも、私のある個人的な相手への愛が途絶えた後でも、その相手を介して私が愛するようになった法則への愛は到底途絶えないからである。

プラトンの愛の理論の各段階の具体性については、次のようなこともいえる。肉体に対する愛は、直接的であるだけに一番刺激が強いが、同時に最も手放すのが容易な感情であるといえる。精神に対する愛は、肉体よりも具体的で持続的なものへの感情であるだけに、手放すのがより難しい。しかしまた、精神への愛は肉体に対する愛が消化された先に芽生えるので、比較的穏やかで落ち着いた感情でもある。三つ目に、法に対する愛は、抽象的な穏やかさあるいは平穏だけではなく、私の生活の具体的な骨格を形作っている。そのため、法に対する愛は、よっぽどのことがない限り、そもそも意識にのぼることすらない。これほど具体的な感情は、手放すのもまた容易ではない。法則に対する愛を手放すということは、単にある個人とのつながりを断ち切るということではなく、ある普遍的なものと決別することだからである。往々にして、私の生活を形成する法則は、そこから意識的に逃れようとするさまざまな逃げ道をあらかじめ自分の一部として折り込み済みであることが多い。例えば、お金持ちになろうと思う感情と決別しようとしても、「代わり」の指針を決めるときに、ほぼ無意識のうちに「損得勘定」が働くだろう。お金というものに対する執着は手放したつもりでも、ものごとを損得でみるという法則は残る上、その法則に対する自分の愛も残る。法に対する愛とはそういうものなのだと思う。

では、最後の善のイデアに対する愛とはどういう感情なのか。これはまだ理解できないが、法に対する愛についての解釈は思いがけないタイミングでできたので、これについてもいつかは腑に落ちるときが来るだろう。

Wednesday, 12 November 2014

加藤尚武

『ヘーゲルを学ぶ人のために』という著作を読んだ。加藤尚武が編集している論文集だ。その序章で、加藤は次のように書いている。
いまなお、ヘーゲルを偉大な文字を書き残した思想家であると錯覚している人がいる。そして、せめて完成度の高い『大論理学』を完全に解明したなら、その思想の結晶があきらかになると期待している。そのような期待を満たす著作はヘーゲルには一冊もない。ヘーゲル哲学を学ぶ人は、恐ろしく抽象度が高いが、同時に文章としての完成度の恐ろしく低い文章の密林に入り込んで、その地図作りに参加しなくてはならない。(7項)
異論をはさむ余地のない主張だと思う。同じ序章の終わりの方で、加藤はヘーゲル(の和訳文)を引用した後、「翻訳すると―」という書き出しでその引用部の内容を説明している。「翻訳」という言葉も、的を得ている。ヘーゲルを読むということは、ヘーゲルの文章を現代の言葉へと「翻訳」することなのだ。

さらに、加藤はヘーゲルの思想の全体、あるいは戦略を、これまた非常にシンプルで的を得た言葉でこう要約している。
自然のなかにも精神のなかにも論理が自己展開する構造になっていて、自然よりも高い段階に精神が位置づけられるという体系構造で、ヘーゲルは難局を乗り切っていく。(12項)
このすぐ後で、加藤はこう続ける。
つまり、「論理学」、「自然哲学」、「精神哲学」という三部構成の哲学体系を立てる。そのなかに、時代のあらゆる知や芸術や政治を盛り込んでみせる。さまざまな素材を盛り込みすぎて、体系の枠組みからこぼれ出してしまってもお構いなしで、ヘーゲルは時代の文化の全体を吸収消化し続けた。(12‐13項)
なぜヘーゲルが体系をつくったのか―加藤はこの問いに上記のようなわかりやすい答えを与えている。ヘーゲルが体系をつくった理由を説明できないと、哲学が体系的であるべき理由もはっきりしない。「ヘーゲルの時代には体系が流行していたから」などというチープな歴史主義では駄目なのだ。加藤はフィヒテも引き合いに出しつつ、次のように説明している。
[当時のドイツでは]時代状況に対する国民的な主体性の確立が大きな課題となっていた。その課題を担う中心にあるのは学問であって、あらゆる知識に生きた総合をもたらすことが、国民的な自立の達成に寄与すると信じられていた。国家からも教会からも自立した大学の哲学知の体系が国家の自立を支えるというのである。(8項)
事実、若いヘーゲルは、国民の教養=Bildungを高めるような人になるという目標を持っていた。(テリー・ピンカードの『ヘーゲル伝』に、Bildungをめぐるヘーゲルの悩みが詳しく書かれている。) そして、知識を国民生活の一部とするための手段として、ヘーゲルは体系を選んだのだ。

以下は加藤の論旨を発展させた考え。思うに、ヘーゲルは一個人としての国民が、同時に国家という全体像に積極的に関わるようになるにはどうすれば良いかと考えたのである。そのためには、個体でありながら、同時に全体でもありえるような何かが国民の中に存在しなければならない。それは、知識の体系である。宗教の文脈では、それは父なる神(全)、神の子キリスト(個)、そして精霊(全にして個)という三位一体である。

哲学は体系である―この見方に対して、「私は体系の構築には興味がない。私は、ある特定の問題のさらにある特定の部分に、非常に緻密に練りこまれた答えを出す」と反発する人もいる。学問の分業化である。

学問の分業化は、専門用語の量産につながる。誰も考えたことのないような細かい問題について、自分一人で悩むわけだから、新しいことを言うためにはどうしても造語が必要になるだろう。こうした細部へのこだわりは、100%悪いわけではないが、大きな問題を抱えている。こうした専門家中の専門家の残した仕事が、その他大勢の国民にとって全く読まれえないのである。

これが工学や医学における技術知ならば問題はない。技術知は、知られることに価値があるのではなく、応用されることに価値があるからである。対して、人文知は、知られることに価値がある。つまり、人文知は、それが広く知れ渡ることによってのみ、具体的な成果へとつながるのである。

もしこうした見方が適当だとすれば、人文知の中でも最も古い哲学こそ、「誰にでも読める」「全体的な」学問であるべきだ。この点を、フィヒテやヘーゲルはよく理解し、実践したのである。

ヘーゲルについて書かれた本は、ほぼ読解不能の悪文か、あるいは単純すぎて何が面白いのかわからないようなものが多い。特に前者は、ヘーゲル自身の悪文癖につられて(あるいは甘えて)、研究者自身も同じ間違いを犯しているふしがある。加藤尚武は、ヘーゲルの悪文を率直に「悪文」として批判し、ヘーゲルののこしたテキストを「密林」に喩えることによって、新鮮な指針を提示してくれた。

久しぶりに良い解説書に出会うことができた。

Wednesday, 5 November 2014

The Absoluteあるいはdas Absoluteをどう和訳すべきか

ヘーゲルの『論理学』の日本語メモを書き進めていると、私は和訳が非常に難しい言葉にしばしば遭遇する。『論理学』の英訳を読みつつ私はメモをとっている。英文はヘーゲルの思考の流れをしっかり捕まえているので、集中して読めば流れるように一気に読み進めることができる。ところが、メモをとっている途中でふと和訳に悩む箇所が登場すると、せっかくの滑らかな英文の流れが私の中で一時停止してしまう。このとき、直訳をあててメモを書くことも私にはできる。実際、最近はそのようにすることが多い。しかし、これには問題がいくつかある。まず、英語から日本語へと思考を移し変える作業が中途半端となってしまう。つまり、英語ではドンピシャの言葉で表現されている思考が、日本語では全くかみ合わない造語によって複製されてしまっているだけとなってしまう。次に、後でこのメモを読み返したとき、日本語にこだわらなかった箇所は私にはわかりにくいものとなってしまっている。最後に、直訳をしてしまうと、日本語の言葉のもつ広がりがその言葉に宿らない。

というわけで、和訳にこだわりたいのだが、それでは『論理学』を読む作業も一時停止してしまう。一つの言葉に30分くらい悩むこともザラで、これでは私は先へ進めない。 そこで、実際には妥協をする。ただ、どうしても妥協できないような言葉もいくつかある。「Das Absolute」はその内の一つだ。(他にも、setzenやReflexionやScheinやSeinやExistenzなどもある。) ヘーゲル翻訳家の間では、この語は「絶対者」と和訳するのが通例である。しかし、この和訳は、原語を忠実に汲みとれていないだけではなく、ヘーゲルのいわんとすることに対しても不適切な訳となってしまっている。

まず、Das Absoluteには人と物との区別がない。対して、「絶対者」と「者」をつけてしまうと、あたかも「物」とは異なる何かが「絶対」であるかのようになってしまう。さらに、ヘーゲルはDas Absoluteを思考形式、つまりカテゴリーとして提示している。(setzenは英語ではpositだが、日本語では「提示」でもいいかもしれない!) そのため、和訳の方にも、それ相応の抽象性が備わっていなければならない。しかし、「絶対者」という言葉には、誰か具体的な人物、あるいは神を指しているような具体性がある。これは、ヘーゲルの思考の内容と照らし合わせてみると、不適切な連想であると私は思う。

そのため、「絶対者」という通例の和訳は、見直される必要があると私は思う。では、どのような代替案がありえるか。まず、単純に「者」を取っ払ってしまい「絶対」と訳すのはどうか。これの問題点は、「絶対」は名詞ではないのに対して、das Absoluteは冠詞のおかげで明確に名詞であるということだ。そもそも、「者」がつけられた原因は、「絶対」という語を名詞形にせよという要請だろう。何も工夫せずに「絶対」と言ってしまっては、「絶対者」という和訳が解決しようとした問題と向き合わないことになる。

もう一つ、「絶対性」という訳し方はどうだろうか。こちらの方が、「絶対」そのものが名詞形で際立つので、余計な連想を生まないという点では「絶対者」という一語よりも優れているだろう。これの問題点は二点。まず、(そしてこれはこの一語に限らず、名詞を和訳するときの宿命的な問題点なのだが)the Absoluteは複数形にもできるのに対して、「絶対性」は複数ありえるようなものではない。少なくとも、私にはそのような気がする。(しかし、もしかしたら「~性」で終わる名詞にも、「~性ら」と複数にしても不自然ではないものもあるのかもしれない。) 二つ目に、das Absoluteは性質ではない。こちらの方が深刻な問題点である。というのも、「絶対性」というと、あたかもdas Absoluteの外に何か具体的なものが存在していて、そこに「絶対性」という性質が後付けされるような響きがある。あるいは、まず始めに具体的なものが存在していて、「絶対性」はそうしたものたちから抽出されたいわば二次的な観念である、という響きもある。いずれにしても問題なのは、「性」をつけることによって、一種の二次性がdas Absoluteに含まれてしまう点である。

「絶対者」「絶対性」「絶対」の三つのどれもうまくいかない。ではどうすれば良いのか。今のところ、アイデアが思い浮かばない。

Monday, 3 November 2014

私事

今日は久しぶりにいい風が吹いている。最近、仕事に追われて私事がおろそかになっていた。仕事で忙しいことの良さももちろんあると思う。単にお金が貯まるというだけでなく、公共の場で他の人の眼にも触れることができるから。ただ、先日久しぶりに自由に本を読んだときは気持ちが軽くなった。外で色々するのも良いが、やはり今は自分の「私事」を大切にしたいと感じた。

部屋の掃除や洗濯をさぼっていたので、今日久しぶりにそれらをした。特にマスクの手洗いをさぼっていたので、12枚くらいさきほど手洗いした。さぼっていたというよりは、本当に時間がなかったのだが。おまけに、天気はずっと雨だった。雨は仕事日和なのかもしれない。

風が強くて晴れの今日は、遠くまで山の景色が見える。山は、普段は霞がかかったようにしか見えない。 風が雲や微粒子を吹き飛ばしてくれるのだろうか。布団を干したいのだが、それも吹き飛んでしまいそうで、干せない。

昨日は、名古屋で開催された「哲学カフェ」に参加させていただいた。思っていた以上に良い雰囲気だった。運営の中心メンバーの方々の力のおかげだろう。こうした企画を持続させることはかなり大変だ。人が集まらない場合も多いだろうし、集まったとしても、普段は話しなれていないことについて話すので、感情的に高揚したり、逆に冷えきってしまったりする人も出てくるだろう。

「哲学」というと「難しい言葉でどうでもいいことを真剣に話す」学問だというイメージを持つ人も多い。実際、これは半分くらい当たっている。「どうでもいい」=「出世などにつながらない」という意味ならば、哲学はたしかにどうでもいい。それに、日常の場ではなかなか話せないことについて自由に話すので、言葉もどうしても見慣れないものが出てくる。他方で、別に難しい言葉をあえて使う必要はない。それに、どうでもいいことを真剣に話すことの何が悪いのだ。私たちが公共の場では「どうでもいい」と言い、あるいは「人それぞれだ」と言ってそれ以上考えることをやめる物事は沢山ある。しかし、だからといって、それらのものごとが本当にどうでもいいとは限らない。そういうことに興味を持つ人だっているはずだ。そういう人たちが集まって話す場が「哲学カフェ」なのだろう。そういう場は貴重だと思う。また行きたい。

Saturday, 25 October 2014

教育の悩み

小学生を教えていると、細かい悩みの他に、一つの大きな悩みがついてくる。小学生の高学年は、大人にもなれるし子どもにもなれるような微妙な時期だと思う。そのため、毎週授業をしていると、週によって授業の進み方にかなりのムラが出る。パターンは大きく分けて三つある。

1.生徒は静かに座って礼儀正しくはしているが、積極的に授業に関わろうとはしない。
2.生徒はとても元気だが、元気すぎて周りが見えていないので、授業を壊してしまいそうになる。
3.生徒はやるべきことをしっかりやっていて、それなりに元気だが他の人たちへも気を配っている。

(3)は滅多に実現しないが、そういう授業があると、とても嬉しい気持ちになる。私の場合、(1)のような授業になってしまうのがとても怖いので、どうしても(2)に偏ってしまう傾向がある。しかし、それは単に私の感情的な理由からではなく、ある程度考えた結果、(1)になるよりは(2)になった方がマシだと思うからだ。

なぜ(1)より(2)がマシなのか。(1)では、生徒は自分の持っているエネルギーを発散する機会がない。私が小学生の頃も、周りの友人には塾に通っている人がたくさんいた。しかし、今の小学生と比べると、私の年代は楽をさせてもらっていた方だと思う。今の小学生の中には、一週間に3~4日も塾に行く人がザラにいる。親の視点から見れば、色々な理由があって子どもを塾にこれほどにも行かせるのだろうが、子どもの方からすれば、勉強量と拘束時間とが増えるので、面白くはない。勉強が好き、という子どもも当然いるだろう。しかし、私が思うのは、塾に行って勉強をするのが楽しいと思っている小学生は、何かそれなりの事情があるからそう思うのだと思う。たとえば、学校での人間関係がうまくいっていない、あるいは、家庭がいづらい場所となってしまっている、など。

とにかく、塾に行くということは、生徒にとって大きなストレス要因となっている。塾で教える側としては、まずは生徒にとってストレスの原因となることを授業に入れない、という点に気をつけたい。例えば、大きな声で怒ったり、力ずくで言うことを聞かせたりするのは良くない。結果として、生徒たちが自分勝手に大きな声を出したり騒いだりしても、私はあまりそれについては怒らない。

さて、これで話が済めば簡単なのだが、実際はそうもいかない。難しいケースが当然出てくる。例えば、一部の生徒が騒いでいるときに、他の生徒たちはどう思っているのか、などなど。最近も、ある授業中に(授業の一環として)ゲームで遊んでいるときに、とても盛り上がっているグループの中から「死ね!」という声が上がった。遊んでいるゲームがカードを使ったゲームだったので、男の子がカードを出すときに勢いを込めて言ったのだ。それにつられて、そのグループの他の男の子も似たような言葉を大声で言っていた。

このグループ内だけでの話ならば、こうした暴言については、最悪見過ごすこともできるだろうし、あるいは後で本人に「そういう言葉は冗談でも言うべきではない」と言えば済むだろう。しかし、教室には他の生徒たちもいる。かれらにとっては、教室の中に「死ね!」という言葉が聞こえてくるのは当然不快だろう。私だったら、とても嫌だ。そのため、かれらの立場から考えると、教員としての私は、授業中にしっかりと注意をすべきなのだ。

しかし、一回か二回注意したくらいでは、こういう言葉遣いのクセはなくならない。そもそも、気持ちが盛り上がっているときの小学生たちは理性があまり働いていないので、自分の中に浮かぶ言葉を何も考えずに口にしてしまう。そして、思わず「死ね!」などと口走ったあとで、「あ、まずい、言ってしまった」と後悔しても、言った言葉は取り消せないのである。その気まずさもかなりのものだろう。そのため、暴言を吐く生徒を一方的に悪者扱いしてはいけない。注意をする方は、そうしたことも考えつつ、注意の仕方を工夫しないといけない。それも、何回も繰りかえして言わなければならない。

結局、塾の先生としてできる「しつけ」には限界がある。子どもは、家庭で言葉遣いの作法を覚えるべきであって、家庭で汚い言葉が使われていれば、塾で少しくらい怒られても、言葉遣いはなおらないのである。漫画やテレビ、ゲームやパソコンに時間をたくさん使っている生徒ならば、なおさら言葉遣いは過激になるだろう。しかし、漫画などの世界に違和感を感じていない本人にとっては、「死ね!」といった言葉は過激には感じられない。この言葉のもつ力を素直に認めることができなくなるのだ。

...というのが、最近の悩みである。

基本的に、私は「やるべきことをやっていて、他人に危害を加えていない」ならば、子どもはあとは何をやってもいいと思っている。小学生のような錯乱状態のままで大人になる人などいない。皆、必ずどこかで大きく変わり、落ち着くのだ。小学生時代というのは、一つの通過点であって、また大人になるための通過点なので、小学生が大人のように振舞わないからといって、小学生本人やかれらの周りの教育者たちを批判するのは筋違いである。

Tuesday, 21 October 2014

絵画の見方

最近、友人と議論をする機会があった。何かを知るときに、哲学や科学からでは知りえない知識を、芸術から知ることはできるのか? 友人がこの疑問を提示し、私がそれに答えることになった。

私は自分の答えを、コリングウッドの『芸術の原理』に書かれている内容に則して書いた。もちろん、この本の中の議論をそのまま要約したわけではない。しかし、私の答えは、かなりのところまで、この本を模していた。

それによれば、芸術が与える知識というのは次のようなものだ。私たちの精神は、はじめは純粋な感覚世界である。「感覚」というのは、非常に曖昧なものだ。例えば、感覚の例として「色」や「形」などを挙げる人もいるが(例えば、デイヴィット・ヒューム)、厳密に言うと、これらはすでに感覚ではなく、ヒュームの言う「観念」、あるいは、日本語でより自然な言い方としては「印象」である。印象は、感覚と違って、ある特徴を持っている。印象は、私たちがある感覚に注意を向けた結果生じる。「青」「銀」などの色は、はじめから私たちの精神の中に存在していたわけではないのだ。

さて、感覚の世界に浸かっている精神は、意識の働きによって、感覚を印象に変える。この変化を行うのは「注意力」という能力である。何かに注意を注ぐとき、「注意を注ぐ」行為には必ず何かしらの感情が伴っている。コリングウッドは、注意力と感情との関係を表現するために、「charge」 という語を使っている。これは、言い得て妙だと思う。印象と感情とがあり、この二つを結びつける「注意力」には、感覚と感情とがそれぞれ「チャージ」されている。

私たちは、自分が今感知している感覚を選ぶことはできない。感覚は、嫌でも押し寄せてくる。しかし、私たちの精神は、ある特定の感覚に注意力を注ぐ自由をもっている。そのため、印象の生成は、精神の自由な働きによる。このとき、注意力の働きが必要となるが、それはさらに感情によってチャージされている。

芸術作品とは、こうした注意力の働きの引き金となる感情がチャージされた印象のことなのである。芸術作品が表現すべきであり、現に作品によってはうまく表現している対象は、この感情なのだ。そのため、芸術作品は、注意力と感情との働きによって生じた印象をそのまま複製したものではない。鑑賞者は、作品をただ眺めただけでは、芸術家が表現しようとした感情を受け取ることができない。そのため、そもそも芸術家が作品として残した印象を受け取ることもできない。ただ作品を眺めてはいけない。そうではなく、鑑賞者は、芸術家がどのような問題と格闘した結果この作品にたどり着いたのか、その過程の一部始終を知っていなければならない。それは、作品から読み取れる部分もあるだろうし、事前に調べておかなければならない部分もあるだろう。

そうした努力の末、ある芸術作品の表現している印象を鑑賞者は受け取ることができる。もしその作品が優れた芸術家の手によるものであったならば、こうして受け取る印象も、この努力に見合うだけの優れた印象であるはずだ。

そうはいっても、芸術が与えてくれるこの「印象」は、まだ哲学や科学における「概念」ほど鮮明ではない。しかし、この印象は、私たちの感覚世界の中にたしかに存在する何かである。芸術がこの感覚を私たちの意識の前に引っ張り出してくれなければ、私たちは一生この感覚について意識することなく過ごすだろう。

哲学や科学は、芸術とは違い、感覚の世界からある感覚の流れを「印象」として取り出すことができない。代わりに、哲学や科学の役目は、すでに「印象」として存在するものごとを、思考や知性の働きによって自由に関係付けることである。そのため、「印象」なくしては、哲学や科学もありえない。つまり、芸術が仕事をしなければ、哲学や科学もまた仕事ができないのである。

...という内容を友人に伝えた。まだ相手から返事は来ていない。しかし、久しぶりに自分の考えを整理して文章にできたのは良かった。さらに、最近、近所の美術館でちょうど新しい展示が始まったところだ。ただ漠然と鑑賞に行くのではなくて、デュフィという人の直面した問いをまずは調べてから行こうという気になったし、これもただ漠然と調べて見に行くのではなく、かれがどのような感覚と格闘して、どのような感情を使ってどのような印象にたどり着いたのか、それを知るために見に行くのだ。

Wednesday, 8 October 2014

How Things Appear in Hegel

The category of "appearance" comes right after the category of "thing." In the context of Hegel's Science of Logic, therefore, it is appropriate to say that "a thing appears," and in order to read the two sections on "thing" and "appearance," it is also important to ask: "how does a thing appear?"

For Hegel, appearance gives stable subsistence to the otherwise unstable thing. For the thinker who is thinking about how things appear, therefore, the correct way to think is not to focus on appearance in order to see how a thing is constituted out of it, but rather to focus on the thing to see how it becomes stabilized.

"Thing" is a core category of "concrete existence" [Existenz]. Concrete existence is first the result of the movement of abstract essence which is taken as immediate. Abstract essence develops the framework for the entire Doctrine of Essence, and this development begins with the most abstract, namely, the category of reflection. In essence, a determination or quality comes to be through being negated, which means that an essential quality is never present and is instead always past. At first, there is only the form of positing this essential quality, but Hegel develops the chapter on abstract essence in such a way that these qualities come to constitute a totality, a totality which accounts for all determinations of being which are excluded from what is present as being. For example, outside my window there is a tall, old fir tree that is present. As a being, it has a certain quality and a certain quantity which combine into a measure - hence, I can call it "tall" (since this is an appropriate measure which the tree exhibits immediately) and so forth. However, I also know that the tree is, in itself and independently of my perception of it, something which has come to be out of a seed and a stem. In abstract essence, the seed, the stem, as well as all the measures and their relations, are posited as the "timelessly past" essences of the tree. The present, grown and old tree is only a shine of these essences. The developed totality of a tree, its full reproductive cycle, is its concrete existence.

In concrete existence, essence exists as a totality, and this totality is at first the "thing." Although concrete existence is a result of the movement of positing the essences, as a "thing" this movement is "sublated," that is, temporarily forgotten or suspended, treated as null. Therefore, the "thing" is totality in its immediacy. As immediate totality, and as a category of essence, the "thing" divides into the essential and the inessential. First, the thing divides into concrete existence as the inessential and the "thing in itself" as the essential. But the "thing in itself" is just the totality of essential qualities which pertain to the thing. In this way, the thing next becomes a "thing with many properties." The thing is the inessential, while the many properties, each subsisting as things in themselves, are the essential. Thirdly, these properties are united as things in themselves or for themselves, and so they come to constitute matters. The thing is thus the totally empty vessel in which the many different matters come to be and subsist.

On the one hand, the thing holds the many matters together. Thus, it is thanks to the tree qua thing that heat matter, wood matter, etc. find stable mutual subsistence. On the other hand, the thing is also the dividing point of the many matters. If a thing is not a tree but another thing, then different matters will constitute it, in which case the matters are, conversely, also constituted differently by the change in the thing. Although empty, the thing has this function of altering the matters with itself. In this way, the thing is, on the one hand, the becoming of matters, but on the other hand also the medium through which the matters find stable subsistence.

Within the same thing, therefore, a matter both is and is not. It is, because the thing is what posits the matter in its determinateness. It is not, because in being altered the matter founders, sinks to the ground, so to speak, and subsists, waiting to play its role when the conditions arise. For example, the pigments of the leaves of a tree subsist even within the seed, for the seed is already implicitly the leaf, and the leaf is where the pigments, qua "color matter," find their moment of being. In this way, the being of a matter is treated as an appearance.

Without appearance, the matters lose their being, for they would no longer have a "beyond" in which they subsist as they once were. Appearance allows for the repetition which is necessary for the matters to find stable, self-identical subsistence. A thing therefore appears because, in order to function as the place where a totality of essential qualities subsist, it must treat each essential quality as subsisting in its absence. Or, to put it differently, appearance is a category which resolves the contradiction of a matter being present in its very absence.

Sunday, 5 October 2014

天皇と憲法の関係

日本国憲法を読むと、天皇と憲法の関係がわかる。一方で、憲法は天皇によって公布される。そのため、憲法は天皇の意思である。しかし、他方では、天皇は憲法に書かれていることを守る義務を負う。そのため、憲法は天皇に対して制約を加える。天皇を無限の権力をもった個人だとするならば、憲法は天皇が自らその権力に制限を与える文書であるといえるかもしれない。

これと関連して、天皇は独断で憲法改正を行うことができない、と憲法は定めている。そのため、日本国憲法は、天皇が自らの絶対権力を自主的に放棄した証拠であるともいえる。

天皇と憲法のこうした関係は、近代国家の基盤を把握するために重要だと思う。国家は権力の分散によって安定する、という考え方がある。日本国憲法においては、この考え方は具体的に次のように実現されている。まず、抽象的権力をもつ君主としての天皇がいたかのように、憲法は天皇の絶対性を保持している。(この「かのように」は大切なところで、実際に天皇がそのような権力をもったことはない。) また、天皇が独断で政治を行う状態があったかのようにも、憲法は述べている。そして、憲法は、そうした権力をもっていた(かのように思われている)天皇が、自らその権力を、まさしく絶対権力の名の下に放棄した証拠なのである。そのため、仮に再び天皇が政治的権力を持とうとすれば、それは自らの絶対権力によって行った放棄行為をキャンセルすることと同じである。そうした場合、天皇は自らの行為の絶対性を妥協することとなり、もはや絶対権力を持たなくなる。しかし、絶対権力を持たない存在は、天皇ではない。そのため、天皇は、自らの絶対権力を否定する宿命に自らを置いたのである。しかし、同時に、具体的な政治活動を行わないと宣言することによって、天皇は否定的に絶対権力を保持し続けることになる。憲法は、こうした意味において、天皇が自らの権力を保証している文書でもある。

憲法における国会や裁判所の位置づけは、天皇と憲法のこうした関係を背景に解釈しないと正しく理解することができない。なぜ国会は天皇に「助言」する立場にあるのか、またなぜ裁判所は国会から独立しているのか、またさらに、なぜ最高裁判所の裁判官は天皇が任命するのにその他の裁判官は国会から任命されるのか、こうした疑問は、天皇がもつ否定的絶対権力から出発して考えてみる必要があるだろう。

Friday, 3 October 2014

貧困の必然性

久しぶりに、優れた論文を読んだ。マット・S・ホイットの作品で、題は「ヘーゲルの倫理国家論における貧困の問題と自由の限界について」(原題:"The Problem of Poverty and the Limits of Freedom in Hegel's Theory of the Ethical State" by Matt S. Whitt。)

ヘーゲルの国家論は、近代の国家をコントロールしている概念を一通り網羅している。歴史の中で数百年もの間近代国家は生き延びてきた。また、資本主義によって社会が解体されていく中で、近代国家だけはなぜか存続している。それは、近代国家がもつ独特の概念が理由だ。

ホイットは、「賎民」が近代国家において果たす役割について論じている。まずホイットは、「ヘーゲルは貧困を失くす方法を提示しない」という批判をとりあげる。事実、ヘーゲルは国家が賎民を生むとは述べているが、賎民を失くす方法は提示していない。しかし、これはヘーゲルの個人的な問題なのではなく、近代国家そのものがもつ問題であるとホイットは論じる。

賎民は、市民社会に参加できない階級の人々である。ヘーゲルによれば、賎民は資本も職業も持たず、市民社会に受け容れてもらえるだけの品格も道徳観もない。かれらは、主観的にも客観的にも、社会にとっての部外者なのである。しかし、他方で、賎民は国民である。そのため、賎民は、社会の一部であるが、同時に社会の一部ではない、という、矛盾した立場にたたされている。

ホイットによれば、賎民のこうした矛盾した立場は、国家が国家として維持されるために必然的に必要なのである。国家は、他者を否定することで自らを確立するものである。国家が破壊される道は二通りある。第一に、他の国家によって、つまり自らの外部にいるものによって破壊される道がある。この道を否定するためには、国家は外部に他者を持たなければならない。これは、他の国家、他国である。他国と戦争をすること―これは、国家が外部と関係しつつ国家として存在するためには、避けては通れない出来事なのである。

さらに、国家は内部から破壊される可能性がある。これを防ぎつつ存続するためには、国家は自らの内部に、自らと根本的に異なる他者を持たなければならない。この矛盾した他者こそ「賎民」である―これが、ホイットの論点だ。

賎民の排除、すなわち貧困の解消―これこそ、国民が国家の内部でまとまるための究極目標なのである。貧困がなくなれば、国民が共有する目標もなくなり、近代国家そのものが脅かされる。「弱きものを助ける」という大義名分の下にまとまるのが近代国家なのである。

近代国家は、賎民のもつ矛盾を解消することができない。というのも、一方では、近代国家のもつ「貧困の撲滅」という目標は、真摯に追求されなければならない。これに手を抜いたり、これを不可能なものとしてしまっては、国家そのものが危うくなるのである。他方では、しかし、実際に貧困を撲滅することは許されない。そのため、国家とは、一方では貧困を失くすための素振りを見せつつ、他方では貧困が続くように行動する機関なのである。

ヘーゲルおよびホイットの論によれば、国家のもつこうした性格は、特定の個人によって意識されている必要はない。国家は、国家として機能する限り、国民が実際に何を思い考えていようが、上記のような構造をもつのである。つまり、賎民という矛盾を解消しようとしつつ持続させもするのが国家なのである。

もしホイットのこの考えに信憑性があるならば、賎民は国家にとっての数ある問題の内の一つなどではなく、国家の存在に必要不可欠な階級である、ということになる。すると、貧困に対する私たちの考え方も、「貧困はどうやったら撲滅できるのか」という漠然とした問いではなく、「貧困を必要とする国家の構造とは何なのか」という問いや、「この構造を解体するにはどうすればよいのか」「この構造に当て嵌まらないような反貧困活動は何なのか」といった問いへと進むことができる。

Thursday, 2 October 2014

ピンチョン映画出る




ピンチョンの小説が映画化! かれの小説に登場する台詞が声になる。これだけでも、観にいきたい。米国では12月に公開だそうだが、日本にはいつ上陸するのだろうか。大ヒット作品にはならないことが予想されるだけに、日本に来るのかどうかもあやしい。来るべきだ。

ヘーゲルの哲学の中心は「否定性」だ。かれの哲学の根本原理を一行で表現するとしたら、「すべてのものごとは否定される」となる。

真に難しいのは、「否定の否定」だ。否定性そのものを否定するためには、否定性が現実に存在する必要がある。そのため、否定を否定するためには、また新たな、別の質感をもった否定性を、半ば無意識のうちに確立してしまうことになる。

否定の否定は、一回ではできないのだ。否定性を否定する試みと、その結果生まれる新たな否定性―このサイクルは、堂々巡りではない。これが堂々巡りではないことを示すのが「弁証法」という方法である。


哲学に専念したい。最近は、少し仕事をしすぎた。そして、ピンチョン映画に早く上陸してほしい。

Thursday, 25 September 2014

南海トラフ大地震・浜岡原発・定住先

浜岡原子力発電所は、現在運転停止中の原子力発電所だ。将来、再稼動される可能性もあり、また燃料が発電所に保管されている可能性もある。そんな浜岡原発は、静岡県御前崎市にある。

静岡県御前崎市は、内閣府が南海トラフ大地震の際に「津波避難対策特別強化地域指定市町村」に指定している(ここを参照)。どういうことかというと、御前崎市は、「陸上において津波により30cm以上の浸水が地震発生から30分以内に生じる地域」であるとされているのだ(ここを参照)。さらにまた、御前崎市は「防災対策推進地域指定市町村」にも指定されている。こちらによれば、御前崎市は「震度6弱以上」の揺れが来ることが予想され、「大津波(3m以上)が予想され」るが「この水位よりも高い海岸堤防がない地域」だということになっている。

浜岡原発が果たして震度6弱以上の揺れと3m以上の津波を受けても事故を起こさないのかどうか、専門家ではない私にはわからない。少なくとも、福島第一原発の十年後に3号機は着工されており、4号機と5号機はさらにその後での着工なので、耐震性などは福島よりも浜岡が勝る可能性は高い。それ以上のことはいえないが、100%安心とは言い難い。何よりも不安なのは、津波が来たときに、現場の作業員は現場に残って冷静に作業をすることができるのかという点。とっさの事態に作業員が対応できなければ、事故に至る可能性は高い。対応できれば、事故は回避できるだろう。

事故が起きるか起きないかを事前に判断できず、しかし起きる可能性が極端に低いわけではないと思えるときは、「事故は起きる」という前提で考えるのが良い気がする。もし事故が起きた場合、被害はどのくらいになるのか。原発事故の可能性と並んで、被ばくによる人体への影響も、科学的に不透明な部分が大きい。

長い目でみると、やはりこうした大地震が来ることがわかっていながら、日本で、特に太平洋側で家族を育てることは、なかなかやりにくい。ただでさえ、南海トラフ大地震の想定される被害は大きい。内閣府は、「33万2千人」の死者を「8割減」、「250万棟」の全壊棟数を「5割減」することを、10年後までの「減災目標」として掲げている(ここを参照)。つまり、どんなに減災がうまくいっても、死者6万人、125万棟全壊という事態は十分考えられるということだ。ちなみに、東日本大震災の場合は、死者・行方不明者数1万8千人以上、全壊・半壊棟数40万棟以上となっている(2014年9月11日付けの警察庁広報資料より)。これを大きく上回る被害が、南海トラフ地震では想定されているわけだ。

地震や津波、原発事故などは、実際に起きてみないとその被害の凄まじさを実感することができない。そして、実感ができない被害に対しては、特に対策をとらないのが、人間の心理だろう。しかし、こうした資料を読むと、南海トラフ地震が起きたときに、一体どうなるのか、具体的に想像をすることができる。自分の住んでいる家が全壊あるいは半壊し、それによって家族の一部または全員が重傷を負ったり死亡したりする可能性がある。原発事故によって水や食料、大気の放射能汚染が起こり、それの影響を自分の子どもたちが受ける可能性もある。また、こうした一時の災難が過ぎ去ったあとは、深いトラウマと貧困状態に耐える一方、復興の作業を他方では開始しなければならなくなる。こうしたことを考えてみると、日本の、特に太平洋側の地域で家族を養うという選択は、あまり褒められたものではないと思えてしまう。

もちろん、他の地域や国に定住しても、あらゆるリスクを回避できるわけではない。しかし、少なくとも、今回想定されている南海トラフ地震の規模の被害は十分回避できる。黒か白かで考えるよりも、より被害の少ない場所を選んで定住するのが賢明だと思う。どうせ苦労するならば、なるべく苦労の少ない道を選びたい。

Good Documentary on Ancient and Modern Technology in Japan

What the Ancients Knew - Japan




Saturday, 20 September 2014

出発点の問題

明日から数日間、お休みだ。じっくり読書をして考える時間にしたい。散歩や音楽もしたいと思う。今夜は久しぶりに蚊取り線香を焚いた。外からの風が冷たい。これから、温かい飲み物がおいしい季節になる。

哲学は、他の学問と違って、ある原理を前提とすることができない―こうヘーゲルは書いた。そして、哲学の基礎である「論理学」においては、「前提なき出発点」から思考を開始する必要があるのだ、ともかれは書いた。

しかし、「前提なき出発点」などというものは本当にあるのだろうか。一つは、「前提なき出発点」それ自体がありえるのかという問題。二つ目は、仮にそのような出発点があったとしても、そこにたどり着くまでに何かを前提としなければならないのではないか、という問題。

一つ目の問題は、容易にクリアできると思う。まず、前提なき出発点は、あらゆる前提を否定している。しかし、この否定が前提となっているので、その意味では「前提なき」とはいえないだろう、という反論はありえる。これは、ヘーゲルも折り込み済みの反論で、これに対してかれは、そうした否定自体もまた否定すればよい、と答えている。つまり、否定したということ自体をまた否定すれば、純粋な出発点だけが残る、というわけだ。

二つ目の問題の方は非常に難しい。たしかに、前提を取り払う作業においては、なんらかの原理が常に仮定されている。例えば、「私」は出発点にはならない、という議論を考えてみる。すべてのものごとは「私」の内部で起きている。そのため、「私」は絶対的な存在であるかのように思える。しかし、「私」が存在するためには、同時に「私ではないもの」が存在している必要がある。というのも、「私でないもの」が存在しない状態においては、「私」はもはや「私」としては存在できず、ただ抽象的な「有」でしかないからだ。そのため、「有」ではなく「私」が出発点となるならば、後者と「私でないもの」との間にすでになんらかの区別がされている必要がある。しかし、こうした区別が仮にあるのだとすれば、「私」はもはや絶対的な存在ではなく、より根本的な存在のもつ片割れであるにすぎない。そのため、「私」は絶対的な出発点とはなりえない。

同様の議論は、「私」に限らず、その他ありとあらゆる思考形式に対して使うことができる。例えば、タレスの「水」であっても、エピキュロスの「原子」にしても、それはすでに何らかの区別を前提とし、その区別の片一方を理由もなく出発点にしているだけなので、絶対的な出発点とはなりえない。

さて、こうした議論は、例えば「区別」という思考形式、あるいは「モーダスポネンス」という思考形式を前提としている。 こうした思考形式を前提としてしまってよいのだろうか。これは難しい問いだ。一目には、「こうした前提があるならば、「前提なき出発点」へ到達するのも不可能だろう」と言いたくなってしまう。しかし、他方では、「前提なき出発点」へと到達するまでの道のりは、その出発点の本性には影響を与えないから、こうした前提は問題にならない、と反論することもできそうだ。これは、もう少しじっくり考えて整理するべき問いだと思う。

Wednesday, 17 September 2014

引越しと家庭

友人の引越しの手伝いをした。手伝いの予定は入っていたが、それをすっかり忘れており、早朝に電話をもらって初めて思い出した。あわてて準備をし、友人のところへ向かった。そして、大型トラックに荷物を積み込んでゆく。良い運動になったが、猫の毛もたくさん吸い込んだ気がする。身体に猫の匂いがしみこんだ気がしたので、いったん帰宅し、シャワーを浴びてから仕事へ向かった。

さらに、先日は別の友人の家にお邪魔したが、この家が素敵だった。床は100%天然木で、天井は高め。壁はシンプルな白で、部屋の取り方もシンプルで広々としていた。家具の全て天然木。二階にはテラスがあり、数人で座ってバーベキューができるようになっていた。実際、その日はバーベキューをした。肉や魚や野菜を友人が焼いてくれた。子どもたちも一緒に食べた。家の第一印象があまりにも美しくて、それだけでもう自分は満足だったが、その家に住む友人やかれの家族はそれ以上に素敵だった。「素敵」としか言いようが無い、そんな家族だった。

自分の住まいや、仕事や、子どもたちに対して、友人とかれの妻とは、共にある種の余裕を持っていた。この余裕があるかないかは大きいと思う。細かいことをかれらは見過ごすことができるし、なんというか、子どもたちを包む雰囲気を持続させることができる。また、双方に、支えられつつ、実は相手のことも支えている。深い信頼があるのだろう。そして、お互い、深い悲しみを過去に経験しており、それを自力で乗り越えてもいる。つまり、深いところで自立している。

こういう家庭に、自分はこれまで何回か出会ったことがあるが、ここまで自分の年齢と近い人がそういう家庭の中にいるところを見るのは初めてだった。

今日は床を久しぶりに水拭きし、洗濯もし、食器も洗った。明日は久しぶりにまた本を読む余裕がありそうだ。また別の友人が、国際的な映画祭で今年もまた作品を発表した。かれの作風は去年よりも格段にくっきりしたように思う。かれは、映画祭の取材への返答の中で、ヘーゲルを引用していた。「無知な愛は、憎しみよりも有害である」というくだりだ。自分も背筋を伸ばさねば、と思った。

Saturday, 13 September 2014

ノラ・ジョーンズの5分




朝、ノラ・ジョーンズの「Sunrise」を聴いた。5分もない曲だ。この5分によって、一日の残りが染められた。

Saturday, 6 September 2014

Quotes from Letter to D: A Love Story.

From Letter to D: a Love Story by Andre Gorz, translated by Julie Rose.

At the end of the day, only one thing was essential to me: to be with you. I can't imagine continuing to write, if you no longer are. You are the essential without which all the rest, no matter how important it seems to me when you're there, loses its meaning and its importance. (102-3)

Love is the mutual fascination of two individuals based precisely on what is least definable about them, least socialisable, most resistant to the roles and images of themselves that society imposes on them. We could share almost everything because we had almost nothing to start with. (25)

You were the first woman I was able to love body and soul, to feel deeply connected to. You were my first true love, to put it simply. If I wasn't capable of loving you for good, I'd never love anyone. I found words I'd never known how to say; words to tell you that I wanted us to be together for as long as we lived. (29)

Over the next three months, we thought about getting married. I had objections of principle, ideological objections. I held marriage to be a bourgeois institution; I thought it was a legal formality, one which socially tamed a relationship that, precisely because it was based on love, bound two people through what was the least social thing about them. The legal tie had a tendency, and even the express mission, to take on a life of its own, independent of the experience and feelings of the couple involved. I also said: 'Who's to say that in ten or twenty years time our lifelong pact will correspond with what we want in terms of who we've become?'
     Your reply was unanswerable: 'If you join with someone for life in marriage, you share your lives together and you refrain from doing what might divide or damage your marriage. Building your life together as a couple is your common project and you never finish reinforcing it, adapting it, reshaping it to fit changing situations. We will be what we do together.' (21-2)

At night I sometimes see a figure of a man, on an empty road in a deserted landscape, walking behind a hearse. I am that man. It's you the hearse is taking away. I don't want to be there for your cremation; I don't want to be given an urn with your ashes in it. I hear the voice of Kathleen Ferrier singing, 'Die Welt ist leer, Ich will nicht leben mehr' and I wake up. I check your breathing, my hand brushes over you. Neither of us wants to outlive the other. We'd often said to ourselves that if, by some miracle, we were to have a second life, we'd like to spend it together. (106)

I feel an immense sympathy with Gorz and I agree with everything he says and expresses in these passages. But what would Gorz have done if his worst nightmare were to become a reality?

Sunday, 31 August 2014

英語を勉強させることについて

外から、花と動物と線香の匂いがしている。風が部屋に入ってくると、思いのほか透きとおった匂いなので驚く。床を水拭きし、洗濯をし、食器を洗った。そして、コンビニへ印刷をしに行った。扇風機のパーツを洗った。きれいな日で、そろそろ秋という感じがする。夜も、涼しくなってきた。寒い夜もあったくらいだ。

今学期が始まってすでに半年近くが経とうとしている。各クラスの中では、当然、生徒によって実力に差が出てくる。上にいる生徒たちは、授業で行う新しいことを次々と覚えていくので、退屈そうにしていることがある。下の生徒たちは、なんとかついていこうとはしているが、やる気が落ちている人も何人かいる。集団で授業をするときのジレンマはこれだ。上にあわせるか下にあわせるかの二択しかない。下にあわせつつ上にも面白いことをやる、といった小細工は、少しはできても、根本的な解決にはならない。それに、授業でそういう小細工をやると、かえって生徒たちの間では「上」と「下」の差がはっきり意識されるので、授業自体がやりづらくなる面もある。

今のところは、下の方に合わせて授業を行っている。上の方の生徒たちは案の定やや退屈そうにしている。しかし、余裕があるから感じるフラストレーションよりも、全く授業についていけなくて感じるフラストレーションの方が重いはず。それなので、この方針は、正しい妥協の仕方だと思う。

それにしても、生徒たちはよくついてきてくれているといつも感心する。小学生が英語を習いに毎週勉強に行くということは、大変なことだ。自分が小学生の頃、同じことをしろと言われたら、間違いなく反発しただろうし、どこか塾へ通うように言われたら、恐らく何らかの方法でサボっただろう。自分の場合、両親が半ば無理矢理に英語をやらせた。家庭教師だったので、サボるのも難しかった。勉強をしているときはつらかったし、これが一体何の役に立つのかが全然わからなかった。それでも、今は、そのときに英語をしっかり勉強したおかげで、色々なことができるようになっているし、今の社会において比較的生き延びやすい立場を得ることができたと思う。

英語の勉強の大切さを小学生に説明して納得してもらうことは不可能だ。往々にして、小学生が何かを判断するときは、それが「快い」か「辛い」かが判断基準となる。今は辛いけど将来役に立つ、とか、今は快いけど将来後悔することになる、とか、そういった長期的な判断が、小学生にはできない。小学生が快さを感じる機会が量産されている現代においては、あえて辛さを我慢して意味のわからない勉強に専念するのはさらに難しいだろう。

その意味では、毎週しっかり英語を勉強している小学生もえらいが、そういうことを子供にしっかりさせている親御さんもえらい。子供に英語を勉強させるのは非常に面倒くさい。お金もかかるし、毎週宿題をチェックしたり、ちゃんと塾に行っているかを確認したり、子供の文句を聞いたり、子供を説得したり罰したりしなければならない。何もやらせなければ、こうした苦労からは自由でいられるので、親にとっては楽だ。それでも、子供の将来やこれからの世の中についてしっかり考えているからこそ、親御さんも子供に英語を勉強させることを選んだのだろう。

「勉強させる」といっても辛いことばかりではない。わかる楽しさはあると思うし、数年の勉強が実って本を読めるようになったり、英語で文章が書けるようになったりすると、ある種の「力」を実感することができる。

Saturday, 30 August 2014

Historicizing Hegel

Let those who are still dissatisfied with this beginning take upon themselves the challenge of beginning in some other way and yet avoiding such defects. Science of Logic. 2010. p.53.

Historicizing the legacy of Hegel is perhaps the most formidable task which contemporary philosophy faces. Heidegger's approach does not work, in so far as Dasein in Being and Time is in fact a concept, a thought, and thus is in some sense a representation. Dasein is the being to which (or to whom) the question of the meaning of being arises. In so far as the questioning is taking place at the beginning of phenomenology, Dasein is an as it were a priori necessary being. However, this does not mean that one ought to begin philosophy from the analysis of Dasein. There are other beings for which (or for whom) the question of the meaning of being does not arise. Why should one begin philosophy with Dasein rather than from one of these latter beings? The answer is that, while Dasein is necessary for philosophy as such to have its existence, these latter beings may or may not be there for philosophy. Another reason is that these latter beings, in order to be there, must have already been mediated in some way by the question of the meaning of being, for after all these are beings. However, even here, the question still remains as to whether or not it really is necessary to have a questioning being, i.e. Dasein, as the a priori foundation for the being of all other kinds of being. What if there were beings who are able to be without the mediation of a conscious, questioning being such as Dasein? This, then, is the limit of Heidegger's thought: for Heidegger, the legitimate question in philosophy is always a question concerning a question, or a reflection upon an seemingly immediate question. In other words, the question of the meaning of being is always reflected back into the question of the meaning of being of Dasein. This leads Heidegger to describe the presuppositions which make a particular Dasein possible, but Heidegger's questioning cannot reach beyond the "world" which is always the world of Dasein.

The same defect can be found with any other mode of questioning which in some sense presupposes a mediation when beginning a process of questioning or dialectics. Hegel's challenge is to have philosophy make a beginning without presupposing such mediation. While Heidegger's legacy does constitute an interesting and constructive chapter in the philosophy of mind, it nonetheless is not powerful enough to overturn the Hegelian system or to meet the challenge which Hegel poses in the Science of Logic.

There is no quick and easy way out of the problem of the beginning. If one begins with the thought of pure being, then one necessarily ends up thinking pure nothing, and the Hegelian machine comes into motion, manufacturing all the other categories with a necessity and rigor which is difficult to dispute. And even when one is able to insert other categories in between, the introduce further mediations into the system -- a task which is no doubt appropriate given the significant advancement in all fields of the different sciences since Hegel's death -- the fact still remains that the system is fundamentally a Hegelian one. This is because the beginning is made with pure being, and because the thought of pure being immediately collapses into pure nothing. Negation here necessarily becomes the predominant motif, and unless one is able to find a still prior, different motif which can also envelop negation, one remains caught within the Hegelian framework.

One question worth raising is this: how did Hegel himself manage to historicize his predecessors? The answer is: Hegel found a way to begin philosophy with a thought which is more fundamental than anything else, and he succeeded in patiently working through the consequences of making such a beginning. In particular, Hegel's way of beginning philosophy allows him to uncover and criticize the hidden presuppositions in the systems of Spinoza and Fichte. The lesson to be learned from Hegel, a lesson which will allow a thinker to historicize and overcome Hegel, is this: one ought to begin philosophy in a manner different from that of Hegel's, and thus uncover the hidden presuppositions which informs Hegel's way of beginning philosophy.

Sunday, 17 August 2014

小三治の落語





良い声ですね。間の取り方もうまいです。

Saturday, 2 August 2014

Two Kinds of Solitude

The first kind of solitude is a simple one. One is simply alone and has no other to whom one could relate in a deep way. By deep way I mean renouncing one's own ego and will and choosing to look at the world and act from the other's point of view. Lacking such a partner or a companion is the first kind.

The second kind is that there is such a partner but one could no longer relate to the other's thoughts and will in the manner described above. The situation becomes all the more painful when one suspects that the other in fact has no thought or will of this kind which one could follow. For example, if the other makes a request to do something, then one could prove the bond between the two by doing that something no matter what. However, if the other does not request anything, one is left with nothing to work on, and is instead forced to withdraw into oneself. In this way, the bond starts to decay. Being alone while feeling this decay is the second kind.

Thursday, 10 July 2014

Sketchy Sidethoughts on Hegel's Philosophy of Right, Parts II & III

Part II of Outline of the Philosophy of Right is all about abstract subjectivity. At the starting point, the subject emerges as the gap between the promise and performance of a contract. The subject occupies both sides in a negative way, and so is the gap which separates the two. By degrees, the subject frees itself from the initial thing which was its object of contract. The subject passes through various dichotomies -- intention/action, means/ends, etc. -- and then reaches its unity in the notion of happiness. It then passes through the dichotomy "good/conscience." In the end, the subject is thoroughly stripped of all positive and particular content, and thereby occupies the place of pure particularity and arbitrariness.

Part III, "Sittlichkeit," begins from this point where the subject is this thoroughly abstract self-related negativity. The subject is in itself the will to be all, or to be the subject. On the other hand, for itself, the subject is still one, particular subject, against which stands the highest good.

The first attempt of the subject to become all is family. The family grows in twos and threes. Two: two individuals make absolute commitments to each other, renounces their particularity, and thus becomes a universal self-consciousness. Three: the child produces another family, and the tension between families, as well as the family and the subject, becomes explicit in the consciousness of the child. The second attempt is civil society. The third attempt is the state.

An important first step, by which consciousness steps into the sphere of ethics proper, is marriage. In marriage, two minds absolutely commit to each other. This commitment is "absolute" in the sense that its meaning and form is not influenced by what has preceded it. Marriage is thus a fresh beginning, a negative act by which the very negation which negates the past is also negated.

One important point to note is that marriage can only happen between two individuals. Why? One individual is the I, the mind which is related to itself. The other individual is the other mind, who is equally an I yet is related to me in a negative way, that is, there is always the possibility that the other will will the opposite of what I will. However, if a third individuals comes along, then there is the possibility that the two others oppose each other. This possibility allows me to make an arbitrary choice between the two opposite wills. This choice will always rest on a particular, contingent, and external reason, which has nothing to do with an absolute commitment to the barren will of the other. This choice and contingency is strictly virtual. Therefore, for example, it does not matter if all three individuals live in the same house. There is a possibility that the three would live in separate places, in which case there is no way for one's will to be directed simultaneously to both of his partners (e.g. I cannot sincerely want to live in Washington DC while also wanting to go to Ottawa at the same time, assuming that it is in those two places that my presumed two partners live.) Only if there is just one partner could I ever desire to live with her absolutely and thus blame the inability to do so on external, contingent reasons. Otherwise, the fault lies in the form of the relationship, not just on such contingencies.

One question arises here: how does this absolute negativity of marriage relate to the equally absolute subjective notion of love? On the one hand, the two are in tension. In marriage, love is a derived effect of external and objective ceremonies. Therefore, it is not that I marry someone out of love, but rather that I love someone because I am married to her. Love, however, also asserts its absolute negativity, although subjectively. Love commits my own will to the abstract will of the other. No matter what the external appearance of our relationship might be, it is this subjective commitment that counts in love. Therefore, from the point of view of love, whether or not I am married to the other is a contingent and insignificant matter.

How to resolve this tension? On the other hand, love and marriage share an essential feature, namely, that both privilege the act of commitment over any particular quality or event. This formal correspondence between the two is precisely also the reason why the gap between the two cannot be simply closed. If there were to be such an absolute merging of two wills, then it has to be either subjective or objectively initiated, but not both at the same time. Or at least this is how the situation appears after these two positions are spelled out in their formal detail.

Hegel does not talk about the ethical role of love in the sections on marriage and family. However, since love is essentially the moment of subjective ethicality, as it were, it surely has a role to play in altering the content of the ethical form of marriage.

Sunday, 6 July 2014

平凡なものに対する嫌悪はそれ自体平凡だ

哲学は近代に入ってから、否定性を本気で考えるようになった。否定性とは、今目の前に現存しないもの、人々が「ない」と思っているものごと、その「ない」感じのことだ。ないはずだけど、それは「ある」ものごとにたしかに影響を与えている。というより、なにが「ある」のかを決めるのは、「ない」ものごとだから。

この考え方は、芸術や宗教や思想にも応用できるし、応用しないといけない。よく、芸術は平凡なものを拒むという。一面では、これは正しい。極端なことをできない人は芸術家ではない。極端ではない作品は芸術作品ではない。極端でありながら意味がわかり、抵抗し難い魅力を持っており、ある種の強烈な磁力を持っている作品こそ、芸術作品だ。しかし、そこで否定されている「平凡なものごと」は、単に忘れ去られていてはいけない。平凡なものごとをどう否定するかが芸術作品の命だ。否定の仕方は色々あると思う。上から塗りつぶすもよし、真っ向から対立するもよし、そのまま表象するもよし、拒絶する素振りをみせるもよし、作品中で少しずつ破壊するもよし、または気がついたら消えていた、という風に作品を構成するもよし... 平凡なものをどう否定するかによって、作品のレベルが決まる。

平凡なものごとを単に拒絶することはそれ自体平凡だ。しかし、そういう芸術作品、そういう宗教、そういう思想が、ちまたには溢れている。溢れすぎている。誰もこんなものには満足していない。ただ、こうした作品や宗教や思想を創るほうからしてみれば、これ以上楽なものはない。教養もエネルギーも必要がないから。もちろん、良いものがたくさん出回っている世の中においては、こうした凡作、つまらない宗教、虚しい思想はすぐに廃れる。しかし、こうしたつまらないものごとしかない世の中においては、相対的に輝くこともできる。増えれば増えるほど、人々にそれは受け入れられていく。

これはとても残念だ。ただ、ことの元凶は、かつての素晴らしい芸術作品や宗教や思想にあるのかもしれない。そうしたものがあまりにも素晴らしすぎて、新しいものを創る人々はやる気がなくなってしまったのかも。あるいは、ただ何か異なることをするだけでも大変なこととなってしまったので、何か異なることができた時点で満足してしまい、消費するほうも、ただ今までと異なることができたというだけで満足してしまったのかもしれない。そのもの自体の質を真摯に評価すれば、それがつまらないものだとわかったかもしれないが、それだと、ここまできて結局過去を越えることができていない、という辛い現実と向き合わなければいけないから、人々はそれから眼を背けるのかもしれない。

だったら、まだ過去の芸術作品や宗教や思想を学んで、それを反復するほうが、よっぽど新しいだろう。というか、それより他に道はないようにすら思える。だから、個人的には、ジョイスを読み、キリスト教の聖書を読み、ヘーゲルの哲学をまだまだ考え抜きたいと考えている。もしかしたら、この三つを越えるものもあるのかもしれないけど。

Monday, 23 June 2014

A Model of a Truly Intelligent Artificial Intelligence

The following is meant to be both a description of what an intelligence is in general, as well as how one might go about programming a robot so that it may become intelligent. This description involves two principles and their elaborations.


1. AI must be able to reproduce another AI which can repeat the same cycle as itself. In order to do so, the AI will have an algorithm which will constitute its "nature." Part of what the AI will do with this algorithm is to duplicate this algorithm by making use of things other than itself. The AI will, firstly, duplicate itself, and then, secondly, multiply. More specifically, the AI will have to identify the parts of itself which has become dysfunctional, remove those parts, replace them, and incorporate them as part of itself. Or, it must learn to assemble other parts in such a way as to let the parts internally relate to each other, thereby starting to move on its own in the way which the original AI did. The implication of this is that when the AI fails to find a part of itself, it will stop functioning and die, but then another AI can come along and assemble the remaining parts with other parts taken from other "dead" AIs, and in this way reproduce another AI.

2. When confronted with something which contradicts its cycle, AI must be able to fit this something into its cycle. The way it will do this is as follows. First, the AI will somehow recognize this something as a particular, abstract, bounded object. This recognition must not happen as a purely passive scanning of the properties of the object. Rather, it must be an act which is clearly distinguished from the reproductive cycle of the AI. In this way, the something is explicitly recognized by the AI as something which is other than itself. Based on this recognition, the AI will choose to store some of the object's properties into its own cycle, while aiming to destroy the others which cannot be so stored. Thirdly, the AI must be able to re-start a new, updated cycle of reproduction, as if it were the same reproduction as before. For example, it may continue to express the same intention, only now in different words. However, the final step for the AI to be fully intelligent is this: to recognize the contradiction between what it intends to say and what it actually says, and then to discard or delete its intention-data and to instead take up the newly acquired words as themselves the expression of its intention. In this way, the AI gets to learn something concretely.

In a nutshell, I think that the above is all that human intelligence really amounts to. Replace the word "AI" with "Concept," and this short entry becomes a summary of what Hegel means by the "Concept."

Saturday, 21 June 2014

Measure and Essence, Explaining Semblance

How do things start to appear or seem? This question is given an answer in Hegel's Logic. The Encyclopedia Logic, i.e. the "Lesser Logic," gives a basic outline of this solution. The solution is then developed in more detail in the Science of Logic or the "Greater Logic."

Semblance is called the "shine" [Schein] in Hegel. Appearance is a logical form which is a further specification of what "shine" is. However, with the category of shine, an answer to the above question is already given. Therefore, the real next question is to see how "shine" is posited. This means to ask how being becomes essence, for "shine" is a determination of being as it turns into essence.

I will trace the path of being becoming essence backwards. First, shine is immediate being, but an immediacy which is also posited. The concreteness or "givenness" of shine is due to its immediacy; however, at the same time this givenness is cancelled by the idea that there is, implicitly and only negatively, another being, or rather a nothing, behind this shine. For example, water may appear immediately as liquid. As a quality, water just is this liquid, or water is as it is immediately. However, as shine, the liquid is only one among the many forms of water. Behind the immediate, liquid being of water, there is also "water as such," as well as steam and ice as two other forms of water. The "water as such" can then receive various other determinations, whether that be physical, chemical, artistic, or religious. All of these determinations of the forms of water are not immediately present. Thus, these constitute the "essence" of water. But this essence, since it is not, can only be conceived as nothing.

This nothing, which is essence, is however a very determinate nothing which is posited or "punched" out of the immediate being of water, in this case its liquid form. Therefore, essence is not some arbitrary, abstract nothingness, but rather a nothingness posited by immediate being. How does being posit its own essence?

This question takes us a step back into the category of measure. Measure is the final category of being. It is comprised of two other categories, namely, quality and quantity.

1. Quality is the result of the abstract dialectic of being and nothing. It is either a being which has been nothing, and thus is a limited being, or it is a nothing which is a limited nothing in the same sense. Quality is therefore a One which excludes other ones. This means, for Hegel, that each One is negatively related to other Ones. In order to determine itself through the others, the One must in some sense reach out to its others. The One must then determine itself by determining what counts as the negative of itself. For example, the color green is one quality which is not only green in itself, but also is green by virtue of the fact that other colors are not green, and it is part of the quality of green to specify what counts as not green. The next step in the dialectic is to recognize that quality can also penetrate others, and determine its character positively through others. For example, alongside "green as such," there is a "patch of green," a "green sphere," a "green leaf," etc. Here, the quality of green becomes concretely so only through the negation of the other qualities which it internalizes in its various determinations. The "green as such," when contrasted to the "green of the leaf," is clearly still abstract, not yet fully green. The fact that various qualities can serve as the internal relation of the quality of green is what Hegel calls "attraction." By contrast, the fact that green becomes concrete by internalizing other qualities, and thus separating itself from other qualitative determinations of green, is what Hegel calls "repulsion." The many qualities of green becomes the quality of green through attraction. This last movement is expressed by the formula: "the One becomes One through the many ones." With this, however, the quality green becomes indifferent to its being related to other qualities. This indifference is not itself a quality, but something else: quantity.

2. Quantity is the indifference of the constituted quality with respect to other qualities. This indifference is, however, a result of the dialectic of the One and the many. The two basic determinations of quantity are brought over from these of quality. The One is the unit, the many is the amount. At first, and in the abstract, what counts as unit and what counts as amount is quite arbitrary. For example, what counts as the unit of a quantity of water can be any amount of water. However, when quantity is considered as an abstraction from quality, the situation becomes different. For example, after a certain point, green turns into red, or any other color, which is a different quality. In this way, the amount of green becomes limited, and the unit of green also becomes determinate. However, still, green can have various intensities and degrees. But with this connection between quantity and quality, quantity is no longer indifferent to its qualitative basis. Instead, it is now a different category: measure.

3. Hegel calls measure a "qualitative quantity." In measure, a quality is determined as having a certain quantity. Moreover, in the development of measure - which I will discuss in more detail on another occasion - one quality is determined or constituted by another quality by virtue of a specific quantum associated with both qualities. This can take the form of simple indifferent measures - e.g. 100 cents constitutes 1 dollar -, or ratios, or degrees. In this last determination of measure, namely in the degree, one quality internally transforms itself into another. So, for instance, the transition of water from solid to liquid (which is caused by, but not is, the rise of temperature) can be repeated for the already liquified water, until the liquid itself evaporates, thereby becoming steam. Here, the one change which gave birth to the liquid is also its death. Or, to take another example, a grain of sand becomes a heap by being piled together one by one. However, a heap once more becomes a multiplicity of grains by being made bigger and bigger - a beach is not a humungous heap, but is something altogether different. However, in intensifying itself and thus losing itself in its other, quality at the same time posits itself as virtually present in this other. So, for example, a beach is implicitly also a heap, and steam is implicitly also liquid. This posited, virtual quality is no longer subject to measure: no matter how far water or sand develops, the determinations of liquid and heap remain the same. This virtual quality, which emerges as a result of the dialectic of measure taken to its conclusion, is what Hegel calls the "measureless." This "measureless" is essence, while the being which continues to be as the explicit manifestation of this essence is shine.

Thus, the essence of the immediately existing steam is the solid, the liquid, and the steam. Shine always is a measure, while essence is necessarily a measureless, virtual quality.

How does this logical process explain the birth of semblance? Well, it shows what a semblance is. A semblance is not an "emergent property." Rather, it is being which has posited the virtual, negated quality which has been and yet is not, due to the nature of measure. To put it another way, when measurable qualities exist as something which came out of its implicit existence, these qualities are semblances. However, what the ordinary consciousness fails to see is that the semblance-ness of these measurable quantities are posited just because of the nature of the measure. It is false to think that pre-existing essences posit themselves as finite, subjecting themselves to being measured by someone external. It is rather the essences which are posited by the movement of measure.




Friday, 13 June 2014

自由の森学園について、卒業生の立場から

私は英語を教えている。英語とは、言語である。言語とは、思考の材料である。つまり、英語教育は、同時に英語でものを考える教育である。しかし、私の今働いている現場では、英語教育とは生徒にある決まったことをやらせ、英語検定に合格させる教育なのである。それが私の職場の「実績」となるからである。

しかし、これは効率も悪いし、英語力も育たない教育法だと思う。そう思うが、しかし職場での自分の立場上、これに逆らうことは許されない。さらに、もし本気で納得のいく英語教育がしたいのであれば、自分で学校を立ち上げてそれを実践するべきである。しかし、私にはそのようなことをすることは経済的に難しい。それでも、あえて意見を書きたいのは、こうした思いは、恐らくそのうち消えてしまうか、忘れられてしまうからだ。また、恐らくこうした悩みを抱える教師は多いはずだからだ。さらに、自由の森という場所は、とにかく誤解されているからだ。

ちなみに、私は、自由の森の英語教育が他校と比べて一方的に優れているなどとは思わない。自由の森での英語の授業で、生徒たちは英語を使えるようにはなりにくい。しかし、これは自由の森の問題ではない。そもそも、中学校から英語を学び始めることに無理があるのである。すでに英語を知っている人が他のヨーロッパ言語―例えば、フランス語やスペイン語―を学ぶのと、日本語しか使えない人が英語を学ぶのとでは、全く事情が違う。文法や単語などが、日本語と英語とでは違いすぎるからである。そのため、日本語に一度慣れてしまうと、そこから自分の考え方を英語流に切り替えるのは至難の業なのである。

そのため、自由の森の英語の授業を受けることによって英語が話せるようにならなかったとしても、それは自由の森に落ち度があるというよりは、そうした教育制度自体に落ち度があるのであり、また日本文化にもその原因はある。そもそも、家庭に英語を話せる人がいない状態で、学校の授業だけで英語を学んでも、英語が話せるようになる保証は全くない。数学や理科社会などと同じく、英語は生徒にとって「得意」ともなれば「苦手」ともなる。対して、「私は日本語が苦手だ」と言う生徒は、それを「私は日本語が使いこなせない」という意味では言っていない。家庭で日本語を話してきたからである。

すこし脱線してしまった。さて、そうはいっても、自由の森の英語教育には、公立の学校の教育と決定的に違うところがある。そして、この違いは、英語だけではなく、自由の森における教養科目のすべてにいえる違いである。それは何かと言うと、「自分の言葉」を探すよう教員が生徒に対して毎授業呼びかける、という点である。これはとても大切なことだ。いくら単語を暗記しても、それを自分で使えるようにならなければ宝の持ち腐れであり、さらにいえばそうした単語もすぐに記憶から消されてしまうので、宝すらなくなってしまう。対して、「自分の言葉」として、シンプルな基本表現でもよいので使えば、その経験のおかげで、「もっと英語がうまくなりたい」「英語でも私は自分の考えを伝えることができる」という気持ちが芽生える。文法や単語の暗記量の観点からは、こうした教育は全く劣っているようにみえるだろう。しかし、長い目でみて、生徒の英語力がどれだけ伸びたかに注目してみると、ここで述べたような気持ちを芽生えさせる分だけ、こうした教育のほうが良いと思う。

この「自分の言葉」へのこだわりは、国語や理科や社会においては一層重みを増すように思う。そして、これは大学や社会においても、非常に大切なことである。ある概念について、一つしかそれを表現する方法を持たない人は、その一つの表現が失敗した―つまり、それによって相手にその概念を伝えることができなかった―とき、それ以上その概念を表現することができない。すると、知識の上ではその概念を知っているつもりでも、それは本人の「思い込み」にすぎないものとなってしまう。逆に、自分とは異なる考え方をもった人に対して、自分の考えの大切さやその内容を伝える手段を多く持っている人は、様々な表現ができるので、少なくとも自分の今知っていることについては、しっかり他の人に伝えることができる。すると、いわゆる「知識量」では後者の人が劣っていても、結果的に歴史や社会に影響を及ぼすのは後者なのである。

自由の森学園は、ものの伝え方を磨く場所である。また、同時に、今の自分の持っている表現ではものごとが伝わらない、あるいは他の人の発信しているものごとを受け止められない、そう感じたときに、自由の森では、そうした状態になぜ自分が陥っているのか、考えて、議論することができる。そうした議論に付き合ってくれる教員がいる。それに、そうしたことを真剣に話すことのできる生徒仲間がいる。

自由の森が「詰め込み式の教育」や「点数による序列化」を否定する理由はここにある。ものごとを暗記して、一つの答えがあるテストに正答する、こうした行為の中には、自分と異なる他者と向き合う機会がない。むしろ、そうした他者と向き合うことは全くの無駄であり、ただ目の前の教科書を読むことに時間を使うべきなのである。しかし、こうして得た「知識」は、往々にしてただの「思い込み」なのである。テストでそれを書けば丸がもらえるからといって、それが正しいという保証はどこにもない。そうした保証は、丸をつける先生が与えてくれるのではなく、いわゆる「知識」としてまかり通っているものごとを一度批判的に見直すことによってでしか得られない。しかし、その「知識」を批判するような他者を想定しないことには、そもそもそうした批判は始まらない。つまり、詰め込み式の教育が教える「知識」とは、その程度のものなのである。

自由の森学園に対する偏見のひとつに、「自由の森学園の生徒や卒業生は、口は達者だがものを知らない。やはり、テストがないから、常識的な知識が欠けている」という批判の声がある。まず、この批判は、中学生や高校生、および高校を卒業したばかりの十代に向けられている、という点を覚えておきたい。その上で、ではそうした若い世代に求められる「常識的な知識」とは、どの程度のものなのか。そう考えてみると、どんなに若い世代を過大評価したとしても、この「常識的な知識」はたかが知れているのである。例えば、数学で微分積分の問題が解けたからといって、数学者の間で「常識」として通用するレベルの知識には到底届かない。また、日本語で安部公房や内田樹、徒然草の一部を読んだからといって、日本文学者の持っている知識量には全く及ばない。それは、公立高校の数学や国語の教科書に載っているものごとを全て暗記した人についても同じように言える。高校で得られる「知識」の量とは、その程度のものなのである。ということは、そもそも、自由の森の卒業生を「常識的な知識がない」として批判すること自体、おかしいのである。そんなことを言ってしまえば、公立の高校を卒業した人たちも、同じくらい無知なのであり、正にそれはどんぐりの背比べと言うべきだ。高校教育における知識量とはその程度のものなのだ。そのため、高校教育の質を評価するためには、単なる「知識量」以外の尺度が必要となる。

ドイツの近代哲学者ヘーゲルは、『精神哲学』の中で、スポーツや芸術などの分野においては早熟は良いことだが、学問においては早熟か大器晩成かは関係がない、と述べている。少しヘーゲルの議論に私の解釈を加えると、肉体を使い直感的に行うことは若いうちに、理性を使って筋道立てて行う抽象的な活動は大人になってからも少しずつ、身につけるべきなのだと思う。この考え方にのっとると、高校教育までで最も大切なのは、まずもって肉体を健康に保ち、五感と思考力、想像力とを様々な活動によってひらいていくことなのである。いわゆる「知識」の習得は、急ぐ必要がない。それは、各人が納得のいく時期に、それぞれ大学に入学して行えば良いのであり、あるいは大学の外で行えば良い。この文脈では、教育の質は、その教育を経た人がどれだけ五感・思考力・想像力をひらくことができたか、という尺度によって評価されるべきだといえる。そして、いうまでもなく、そうした尺度で評価した場合、自由の森学園の教育は、ほとんどの公立校のそれよりも勝っているのである。

他にも、自由の森学園に対する偏見は沢山ある。それらのほとんどは、とりあげることすら馬鹿馬鹿しいものである。例えば、「自由の森では、生徒は何をしても許される」という考え。ある一線を越えることをすれば、自由の森の中だろうと外だろうと、生徒がとるべき責任は変わらない。「自由の森にいるから俺はもうやりたい放題だ」と思い込む生徒は、たしかに存在する。しかし、こうした生徒は、自由の森で堂々と自分勝手なことをするわけではない。そうできない雰囲気が学校にあるからである。というのも、そこには、その生徒以外にも、同じように「なんでもしても良い」他の生徒たちがいる。そうした生徒たちの存在は、何をするにしても、常に意識せざるをえない。すると、すでに生徒たちは「何をしても許される」などという愚かな思い込みは乗り越えるのである。逆に、学校生活の一から十まで(あるいは、九くらいまで)をすべて学校側のルールによって決められてしまっている生徒こそ、「なんでも自分勝手にできる場所」などというものが存在するという幻想にひたり、夢を見るのである。むしろ、一見まさにそうした場所のようにしかみえない自由の森学園に来ることによって、こうした生徒たちはそうした幻想や夢から解放されるのである。そして、生徒たちは、より現実的な駆け引きに身を投じる。校内でおおっぴらにはできないことをしたい生徒たちは、自分がそれをあくまですべきなのか―例えば、煙草を吸ったり、ものを盗む等―、あるいはむしろそうしたことを欲している自分を変えるべきなのか、岐路に立たされるのである。逆に、そうした欲望を抱かない生徒たちは、そうした欲望をもつ生徒を無視すべきなのか、それともかれらと関わっていくべきなのか、また関わるとしたらどう関わればよいのか、考えざるを得ないのである。教員の権力にことを委ねれば解決する、などという非現実的な環境ではないのである。

さて、しかし、実社会では、こうした問題を解決してくれる権力というものが存在する。それは、国家であり、司法の場であり、警察であり、企業であり、家族である。では、なぜわざわざ自由の森学園などという無法地帯に身を投じて、そうした権力を前提にできない状態で生徒同士は関係すべきなのか。それは、他でもない、そうした権力の正しいあり方について、そうした機会に身をもって考えることができるからである。まず、自由の森学園で考えることによって、生徒たちは、「なぜ権力は必要なのか」「なぜ権力は不当でありえるのか」ということを考えるための材料を、つまり経験を手に入れる。また、そうした日々の経験を元に、話し合う場を得る。そうした具体的な問題意識を持ちつつ、図書館で本を読んだり、教室や野外で様々な活動をしたりするのである。国家とは何か、正当な権力とは何か、他者と向き合うとはどういうことなのか―こうした問いは、まさに日々身近にある問いであり、自由の森学園では避けては通れない問いなのである。

自由の森を卒業したからといって、こうした問いに対して満足のいく答えが得られるわけではない。しかし、そうした問いについて考えるための材料は、自由の森の卒業生たちの方が、他の公立の高校生たちよりも、はるかに豊かに持っているはずである。これこそ、自由の森の「自由」である。つまり、権力や他者といったことについて、建設的に、具体的に考えるための経験をもつことこそ、自由への条件だと思う。これも、壮大な話ではなく、自由の森にとっては非常に身近なことなのである。これを壮大なことだと感じてしまう人は、それを身近に感じられないような教育を受けてきたからそう感じるだけなのである。私は、自由の森を卒業しなければ、権力や他者について考えることもできない、などと言いたいのではない。ただ、そうしたことを自分のこととして考えるチャンスを、自由の森学園は確実に与えてくれる、ということが言いたいのである。