Saturday, 25 October 2014

教育の悩み

小学生を教えていると、細かい悩みの他に、一つの大きな悩みがついてくる。小学生の高学年は、大人にもなれるし子どもにもなれるような微妙な時期だと思う。そのため、毎週授業をしていると、週によって授業の進み方にかなりのムラが出る。パターンは大きく分けて三つある。

1.生徒は静かに座って礼儀正しくはしているが、積極的に授業に関わろうとはしない。
2.生徒はとても元気だが、元気すぎて周りが見えていないので、授業を壊してしまいそうになる。
3.生徒はやるべきことをしっかりやっていて、それなりに元気だが他の人たちへも気を配っている。

(3)は滅多に実現しないが、そういう授業があると、とても嬉しい気持ちになる。私の場合、(1)のような授業になってしまうのがとても怖いので、どうしても(2)に偏ってしまう傾向がある。しかし、それは単に私の感情的な理由からではなく、ある程度考えた結果、(1)になるよりは(2)になった方がマシだと思うからだ。

なぜ(1)より(2)がマシなのか。(1)では、生徒は自分の持っているエネルギーを発散する機会がない。私が小学生の頃も、周りの友人には塾に通っている人がたくさんいた。しかし、今の小学生と比べると、私の年代は楽をさせてもらっていた方だと思う。今の小学生の中には、一週間に3~4日も塾に行く人がザラにいる。親の視点から見れば、色々な理由があって子どもを塾にこれほどにも行かせるのだろうが、子どもの方からすれば、勉強量と拘束時間とが増えるので、面白くはない。勉強が好き、という子どもも当然いるだろう。しかし、私が思うのは、塾に行って勉強をするのが楽しいと思っている小学生は、何かそれなりの事情があるからそう思うのだと思う。たとえば、学校での人間関係がうまくいっていない、あるいは、家庭がいづらい場所となってしまっている、など。

とにかく、塾に行くということは、生徒にとって大きなストレス要因となっている。塾で教える側としては、まずは生徒にとってストレスの原因となることを授業に入れない、という点に気をつけたい。例えば、大きな声で怒ったり、力ずくで言うことを聞かせたりするのは良くない。結果として、生徒たちが自分勝手に大きな声を出したり騒いだりしても、私はあまりそれについては怒らない。

さて、これで話が済めば簡単なのだが、実際はそうもいかない。難しいケースが当然出てくる。例えば、一部の生徒が騒いでいるときに、他の生徒たちはどう思っているのか、などなど。最近も、ある授業中に(授業の一環として)ゲームで遊んでいるときに、とても盛り上がっているグループの中から「死ね!」という声が上がった。遊んでいるゲームがカードを使ったゲームだったので、男の子がカードを出すときに勢いを込めて言ったのだ。それにつられて、そのグループの他の男の子も似たような言葉を大声で言っていた。

このグループ内だけでの話ならば、こうした暴言については、最悪見過ごすこともできるだろうし、あるいは後で本人に「そういう言葉は冗談でも言うべきではない」と言えば済むだろう。しかし、教室には他の生徒たちもいる。かれらにとっては、教室の中に「死ね!」という言葉が聞こえてくるのは当然不快だろう。私だったら、とても嫌だ。そのため、かれらの立場から考えると、教員としての私は、授業中にしっかりと注意をすべきなのだ。

しかし、一回か二回注意したくらいでは、こういう言葉遣いのクセはなくならない。そもそも、気持ちが盛り上がっているときの小学生たちは理性があまり働いていないので、自分の中に浮かぶ言葉を何も考えずに口にしてしまう。そして、思わず「死ね!」などと口走ったあとで、「あ、まずい、言ってしまった」と後悔しても、言った言葉は取り消せないのである。その気まずさもかなりのものだろう。そのため、暴言を吐く生徒を一方的に悪者扱いしてはいけない。注意をする方は、そうしたことも考えつつ、注意の仕方を工夫しないといけない。それも、何回も繰りかえして言わなければならない。

結局、塾の先生としてできる「しつけ」には限界がある。子どもは、家庭で言葉遣いの作法を覚えるべきであって、家庭で汚い言葉が使われていれば、塾で少しくらい怒られても、言葉遣いはなおらないのである。漫画やテレビ、ゲームやパソコンに時間をたくさん使っている生徒ならば、なおさら言葉遣いは過激になるだろう。しかし、漫画などの世界に違和感を感じていない本人にとっては、「死ね!」といった言葉は過激には感じられない。この言葉のもつ力を素直に認めることができなくなるのだ。

...というのが、最近の悩みである。

基本的に、私は「やるべきことをやっていて、他人に危害を加えていない」ならば、子どもはあとは何をやってもいいと思っている。小学生のような錯乱状態のままで大人になる人などいない。皆、必ずどこかで大きく変わり、落ち着くのだ。小学生時代というのは、一つの通過点であって、また大人になるための通過点なので、小学生が大人のように振舞わないからといって、小学生本人やかれらの周りの教育者たちを批判するのは筋違いである。

Tuesday, 21 October 2014

絵画の見方

最近、友人と議論をする機会があった。何かを知るときに、哲学や科学からでは知りえない知識を、芸術から知ることはできるのか? 友人がこの疑問を提示し、私がそれに答えることになった。

私は自分の答えを、コリングウッドの『芸術の原理』に書かれている内容に則して書いた。もちろん、この本の中の議論をそのまま要約したわけではない。しかし、私の答えは、かなりのところまで、この本を模していた。

それによれば、芸術が与える知識というのは次のようなものだ。私たちの精神は、はじめは純粋な感覚世界である。「感覚」というのは、非常に曖昧なものだ。例えば、感覚の例として「色」や「形」などを挙げる人もいるが(例えば、デイヴィット・ヒューム)、厳密に言うと、これらはすでに感覚ではなく、ヒュームの言う「観念」、あるいは、日本語でより自然な言い方としては「印象」である。印象は、感覚と違って、ある特徴を持っている。印象は、私たちがある感覚に注意を向けた結果生じる。「青」「銀」などの色は、はじめから私たちの精神の中に存在していたわけではないのだ。

さて、感覚の世界に浸かっている精神は、意識の働きによって、感覚を印象に変える。この変化を行うのは「注意力」という能力である。何かに注意を注ぐとき、「注意を注ぐ」行為には必ず何かしらの感情が伴っている。コリングウッドは、注意力と感情との関係を表現するために、「charge」 という語を使っている。これは、言い得て妙だと思う。印象と感情とがあり、この二つを結びつける「注意力」には、感覚と感情とがそれぞれ「チャージ」されている。

私たちは、自分が今感知している感覚を選ぶことはできない。感覚は、嫌でも押し寄せてくる。しかし、私たちの精神は、ある特定の感覚に注意力を注ぐ自由をもっている。そのため、印象の生成は、精神の自由な働きによる。このとき、注意力の働きが必要となるが、それはさらに感情によってチャージされている。

芸術作品とは、こうした注意力の働きの引き金となる感情がチャージされた印象のことなのである。芸術作品が表現すべきであり、現に作品によってはうまく表現している対象は、この感情なのだ。そのため、芸術作品は、注意力と感情との働きによって生じた印象をそのまま複製したものではない。鑑賞者は、作品をただ眺めただけでは、芸術家が表現しようとした感情を受け取ることができない。そのため、そもそも芸術家が作品として残した印象を受け取ることもできない。ただ作品を眺めてはいけない。そうではなく、鑑賞者は、芸術家がどのような問題と格闘した結果この作品にたどり着いたのか、その過程の一部始終を知っていなければならない。それは、作品から読み取れる部分もあるだろうし、事前に調べておかなければならない部分もあるだろう。

そうした努力の末、ある芸術作品の表現している印象を鑑賞者は受け取ることができる。もしその作品が優れた芸術家の手によるものであったならば、こうして受け取る印象も、この努力に見合うだけの優れた印象であるはずだ。

そうはいっても、芸術が与えてくれるこの「印象」は、まだ哲学や科学における「概念」ほど鮮明ではない。しかし、この印象は、私たちの感覚世界の中にたしかに存在する何かである。芸術がこの感覚を私たちの意識の前に引っ張り出してくれなければ、私たちは一生この感覚について意識することなく過ごすだろう。

哲学や科学は、芸術とは違い、感覚の世界からある感覚の流れを「印象」として取り出すことができない。代わりに、哲学や科学の役目は、すでに「印象」として存在するものごとを、思考や知性の働きによって自由に関係付けることである。そのため、「印象」なくしては、哲学や科学もありえない。つまり、芸術が仕事をしなければ、哲学や科学もまた仕事ができないのである。

...という内容を友人に伝えた。まだ相手から返事は来ていない。しかし、久しぶりに自分の考えを整理して文章にできたのは良かった。さらに、最近、近所の美術館でちょうど新しい展示が始まったところだ。ただ漠然と鑑賞に行くのではなくて、デュフィという人の直面した問いをまずは調べてから行こうという気になったし、これもただ漠然と調べて見に行くのではなく、かれがどのような感覚と格闘して、どのような感情を使ってどのような印象にたどり着いたのか、それを知るために見に行くのだ。

Wednesday, 8 October 2014

How Things Appear in Hegel

The category of "appearance" comes right after the category of "thing." In the context of Hegel's Science of Logic, therefore, it is appropriate to say that "a thing appears," and in order to read the two sections on "thing" and "appearance," it is also important to ask: "how does a thing appear?"

For Hegel, appearance gives stable subsistence to the otherwise unstable thing. For the thinker who is thinking about how things appear, therefore, the correct way to think is not to focus on appearance in order to see how a thing is constituted out of it, but rather to focus on the thing to see how it becomes stabilized.

"Thing" is a core category of "concrete existence" [Existenz]. Concrete existence is first the result of the movement of abstract essence which is taken as immediate. Abstract essence develops the framework for the entire Doctrine of Essence, and this development begins with the most abstract, namely, the category of reflection. In essence, a determination or quality comes to be through being negated, which means that an essential quality is never present and is instead always past. At first, there is only the form of positing this essential quality, but Hegel develops the chapter on abstract essence in such a way that these qualities come to constitute a totality, a totality which accounts for all determinations of being which are excluded from what is present as being. For example, outside my window there is a tall, old fir tree that is present. As a being, it has a certain quality and a certain quantity which combine into a measure - hence, I can call it "tall" (since this is an appropriate measure which the tree exhibits immediately) and so forth. However, I also know that the tree is, in itself and independently of my perception of it, something which has come to be out of a seed and a stem. In abstract essence, the seed, the stem, as well as all the measures and their relations, are posited as the "timelessly past" essences of the tree. The present, grown and old tree is only a shine of these essences. The developed totality of a tree, its full reproductive cycle, is its concrete existence.

In concrete existence, essence exists as a totality, and this totality is at first the "thing." Although concrete existence is a result of the movement of positing the essences, as a "thing" this movement is "sublated," that is, temporarily forgotten or suspended, treated as null. Therefore, the "thing" is totality in its immediacy. As immediate totality, and as a category of essence, the "thing" divides into the essential and the inessential. First, the thing divides into concrete existence as the inessential and the "thing in itself" as the essential. But the "thing in itself" is just the totality of essential qualities which pertain to the thing. In this way, the thing next becomes a "thing with many properties." The thing is the inessential, while the many properties, each subsisting as things in themselves, are the essential. Thirdly, these properties are united as things in themselves or for themselves, and so they come to constitute matters. The thing is thus the totally empty vessel in which the many different matters come to be and subsist.

On the one hand, the thing holds the many matters together. Thus, it is thanks to the tree qua thing that heat matter, wood matter, etc. find stable mutual subsistence. On the other hand, the thing is also the dividing point of the many matters. If a thing is not a tree but another thing, then different matters will constitute it, in which case the matters are, conversely, also constituted differently by the change in the thing. Although empty, the thing has this function of altering the matters with itself. In this way, the thing is, on the one hand, the becoming of matters, but on the other hand also the medium through which the matters find stable subsistence.

Within the same thing, therefore, a matter both is and is not. It is, because the thing is what posits the matter in its determinateness. It is not, because in being altered the matter founders, sinks to the ground, so to speak, and subsists, waiting to play its role when the conditions arise. For example, the pigments of the leaves of a tree subsist even within the seed, for the seed is already implicitly the leaf, and the leaf is where the pigments, qua "color matter," find their moment of being. In this way, the being of a matter is treated as an appearance.

Without appearance, the matters lose their being, for they would no longer have a "beyond" in which they subsist as they once were. Appearance allows for the repetition which is necessary for the matters to find stable, self-identical subsistence. A thing therefore appears because, in order to function as the place where a totality of essential qualities subsist, it must treat each essential quality as subsisting in its absence. Or, to put it differently, appearance is a category which resolves the contradiction of a matter being present in its very absence.

Sunday, 5 October 2014

天皇と憲法の関係

日本国憲法を読むと、天皇と憲法の関係がわかる。一方で、憲法は天皇によって公布される。そのため、憲法は天皇の意思である。しかし、他方では、天皇は憲法に書かれていることを守る義務を負う。そのため、憲法は天皇に対して制約を加える。天皇を無限の権力をもった個人だとするならば、憲法は天皇が自らその権力に制限を与える文書であるといえるかもしれない。

これと関連して、天皇は独断で憲法改正を行うことができない、と憲法は定めている。そのため、日本国憲法は、天皇が自らの絶対権力を自主的に放棄した証拠であるともいえる。

天皇と憲法のこうした関係は、近代国家の基盤を把握するために重要だと思う。国家は権力の分散によって安定する、という考え方がある。日本国憲法においては、この考え方は具体的に次のように実現されている。まず、抽象的権力をもつ君主としての天皇がいたかのように、憲法は天皇の絶対性を保持している。(この「かのように」は大切なところで、実際に天皇がそのような権力をもったことはない。) また、天皇が独断で政治を行う状態があったかのようにも、憲法は述べている。そして、憲法は、そうした権力をもっていた(かのように思われている)天皇が、自らその権力を、まさしく絶対権力の名の下に放棄した証拠なのである。そのため、仮に再び天皇が政治的権力を持とうとすれば、それは自らの絶対権力によって行った放棄行為をキャンセルすることと同じである。そうした場合、天皇は自らの行為の絶対性を妥協することとなり、もはや絶対権力を持たなくなる。しかし、絶対権力を持たない存在は、天皇ではない。そのため、天皇は、自らの絶対権力を否定する宿命に自らを置いたのである。しかし、同時に、具体的な政治活動を行わないと宣言することによって、天皇は否定的に絶対権力を保持し続けることになる。憲法は、こうした意味において、天皇が自らの権力を保証している文書でもある。

憲法における国会や裁判所の位置づけは、天皇と憲法のこうした関係を背景に解釈しないと正しく理解することができない。なぜ国会は天皇に「助言」する立場にあるのか、またなぜ裁判所は国会から独立しているのか、またさらに、なぜ最高裁判所の裁判官は天皇が任命するのにその他の裁判官は国会から任命されるのか、こうした疑問は、天皇がもつ否定的絶対権力から出発して考えてみる必要があるだろう。

Friday, 3 October 2014

貧困の必然性

久しぶりに、優れた論文を読んだ。マット・S・ホイットの作品で、題は「ヘーゲルの倫理国家論における貧困の問題と自由の限界について」(原題:"The Problem of Poverty and the Limits of Freedom in Hegel's Theory of the Ethical State" by Matt S. Whitt。)

ヘーゲルの国家論は、近代の国家をコントロールしている概念を一通り網羅している。歴史の中で数百年もの間近代国家は生き延びてきた。また、資本主義によって社会が解体されていく中で、近代国家だけはなぜか存続している。それは、近代国家がもつ独特の概念が理由だ。

ホイットは、「賎民」が近代国家において果たす役割について論じている。まずホイットは、「ヘーゲルは貧困を失くす方法を提示しない」という批判をとりあげる。事実、ヘーゲルは国家が賎民を生むとは述べているが、賎民を失くす方法は提示していない。しかし、これはヘーゲルの個人的な問題なのではなく、近代国家そのものがもつ問題であるとホイットは論じる。

賎民は、市民社会に参加できない階級の人々である。ヘーゲルによれば、賎民は資本も職業も持たず、市民社会に受け容れてもらえるだけの品格も道徳観もない。かれらは、主観的にも客観的にも、社会にとっての部外者なのである。しかし、他方で、賎民は国民である。そのため、賎民は、社会の一部であるが、同時に社会の一部ではない、という、矛盾した立場にたたされている。

ホイットによれば、賎民のこうした矛盾した立場は、国家が国家として維持されるために必然的に必要なのである。国家は、他者を否定することで自らを確立するものである。国家が破壊される道は二通りある。第一に、他の国家によって、つまり自らの外部にいるものによって破壊される道がある。この道を否定するためには、国家は外部に他者を持たなければならない。これは、他の国家、他国である。他国と戦争をすること―これは、国家が外部と関係しつつ国家として存在するためには、避けては通れない出来事なのである。

さらに、国家は内部から破壊される可能性がある。これを防ぎつつ存続するためには、国家は自らの内部に、自らと根本的に異なる他者を持たなければならない。この矛盾した他者こそ「賎民」である―これが、ホイットの論点だ。

賎民の排除、すなわち貧困の解消―これこそ、国民が国家の内部でまとまるための究極目標なのである。貧困がなくなれば、国民が共有する目標もなくなり、近代国家そのものが脅かされる。「弱きものを助ける」という大義名分の下にまとまるのが近代国家なのである。

近代国家は、賎民のもつ矛盾を解消することができない。というのも、一方では、近代国家のもつ「貧困の撲滅」という目標は、真摯に追求されなければならない。これに手を抜いたり、これを不可能なものとしてしまっては、国家そのものが危うくなるのである。他方では、しかし、実際に貧困を撲滅することは許されない。そのため、国家とは、一方では貧困を失くすための素振りを見せつつ、他方では貧困が続くように行動する機関なのである。

ヘーゲルおよびホイットの論によれば、国家のもつこうした性格は、特定の個人によって意識されている必要はない。国家は、国家として機能する限り、国民が実際に何を思い考えていようが、上記のような構造をもつのである。つまり、賎民という矛盾を解消しようとしつつ持続させもするのが国家なのである。

もしホイットのこの考えに信憑性があるならば、賎民は国家にとっての数ある問題の内の一つなどではなく、国家の存在に必要不可欠な階級である、ということになる。すると、貧困に対する私たちの考え方も、「貧困はどうやったら撲滅できるのか」という漠然とした問いではなく、「貧困を必要とする国家の構造とは何なのか」という問いや、「この構造を解体するにはどうすればよいのか」「この構造に当て嵌まらないような反貧困活動は何なのか」といった問いへと進むことができる。

Thursday, 2 October 2014

ピンチョン映画出る




ピンチョンの小説が映画化! かれの小説に登場する台詞が声になる。これだけでも、観にいきたい。米国では12月に公開だそうだが、日本にはいつ上陸するのだろうか。大ヒット作品にはならないことが予想されるだけに、日本に来るのかどうかもあやしい。来るべきだ。

ヘーゲルの哲学の中心は「否定性」だ。かれの哲学の根本原理を一行で表現するとしたら、「すべてのものごとは否定される」となる。

真に難しいのは、「否定の否定」だ。否定性そのものを否定するためには、否定性が現実に存在する必要がある。そのため、否定を否定するためには、また新たな、別の質感をもった否定性を、半ば無意識のうちに確立してしまうことになる。

否定の否定は、一回ではできないのだ。否定性を否定する試みと、その結果生まれる新たな否定性―このサイクルは、堂々巡りではない。これが堂々巡りではないことを示すのが「弁証法」という方法である。


哲学に専念したい。最近は、少し仕事をしすぎた。そして、ピンチョン映画に早く上陸してほしい。