Tuesday, 27 October 2015

福島と、傍観を決め込む私たちと

本日のJapan Mail Mediaより引用:

チェルノブイリ事故後、ヨーロッパ諸国は大なり小なり汚染されたため、イギリス、ノルウェー、チェコ、スロバキア、フランスなど、多くの国の規制当局は食品の出荷制限や放射線管理を行った経験があります。どの食品が汚染される可能性が高いか、風向きによってどのぐらいの範囲が汚染される可能性があるかシミュレーションする。といった話がなされていました。失礼かもしれないですが、毒物をいかに避けるか、化学物質の濃度管理をどのように徹底するか、といった話が大部分を占めすぎていて、原発事故が引き起こした何かもっと大きなものをあまり意識していないという印象を受けました。日本で福島から離れて放射線の話をしにいくと、何か被ばくの話だけ、がんの数とかxxミリシーベルトとか、数字の話だけ質問される。あの感覚です。

もちろん、それはそれで非常に重要です。何はともあれ、汚染管理をしないことには始まりません。ただ、相双地区であれば、震災関連死の問題や、高齢化、地域の分断、そこからいかに立ち上がるか。災害自体が様々な影響を及ぼすこと。特に地域や文化との折り合いや、差別への対応や自尊心、究極的には故郷をどう守っていくかなどについて、「線量が科学的に低ければそれで十分」で話は終わらないこと。震災後、若年者が減ったことに起因する高齢化が加速的に進み、健康や医療に影響を与えている。という既に福島では一般に知られている問題の話を聞いて、びっくり!といった具合です。まだまだ認識にはかなりのギャップがあるように感じました。

大手既成メディアの情報を信頼している人たちにとって、以上の言葉は重い。元々、事故発生直後からメディアは公正な報道をしてこなかった。また、大手既成メディアの社員たちが現地の情報収集の際にとった手段も、今回の事故に関してはあまり有効ではなかった。具体的には、まだ被災のショックから立ち直っていない避難民たちが住んでいる避難所にある日突然やってきて、何の面識もない避難民に対して紋切り型の質問を投げかけていく。しかし、現地における取材活動すらも、最近では下火になってきているということか。

福島 フクシマ FUKUSHIMAというブログに、原発作業員の声がたくさん載っている。ブログを運営されている奥村氏には本当に頭が下がる思いだ。貴重な情報である。安倍首相は事故が収束済みであると強調しているが、これは2003年5月1日にブッシュがイラク戦争の「ミッション完了」を宣言したときに匹敵する愚論だろう。ブッシュ政権はその後、イラク軍人50万人を突如解雇した。これがその後のイラクの「抵抗軍」の形成につながる。(これについては、チャールズ・ファーガスン監督の「No End In Sight」というドキュメンタリー映画が詳しく扱っている。) しかし、ブッシュは前者の事実を隠し、後者だけをメディアに報じさせた。ウィキペディアの「Iraq Insurgency」のページには、いまだに軍人解雇の事実が載っておらず、あたかもイラクの自発的な抵抗であるかのように書かれている。同じように、安倍首相もまた、福島の現地で起きていることを積極的に隠している。例えば、今年8月に急性白血病で福島の作業員の方が亡くなった。これについて、直後のメディアの報道では、東電の「放射線が原因とは考えられない」というコメントを大々的に報道していた。10月に入って、この作業員は労災認定を受けるのだから、冗談のような話である。

しかし、メディアによる情報発信が改善すればそれで万事大丈夫というわけではない。Disposable Lifeというウェブサイト上でキャロル・グルック氏が指摘しているように、現代においては、人々の命は「世界中から注目を浴びていたとしても、使い捨て可能(disposable)となってしまうようです。」  つまり、表面上はこうした人々について「真摯に考え」たり「心苦しい」と感じたりしていたとしても、結局のところ、行動のレベルでは全く真摯でなく、心苦しさも全く表現できていないということだ。さきほど挙げた奥村氏のブログ上で多くの人々が言うように、遠くから傍観しつつきれいごとを述べているのは全く呆れる態度である。ならば、きれいごとを述べなければ傍観者をしていてもいいのかというと、これはさらにひどい露悪で、だったらまだしもきれいごとを述べている方がマシだろう―もっとも、これはどんぐりの背比べであって、どっちもどっちなのだが。いずれにしても、福島の作業員の健康問題は社会的な問題なので、政治に積極的に働きかけていくような行動を人はとっていくべきだし、そうすることによってしか傍観者の立場を脱することはできないだろう。

Monday, 26 October 2015

精神病について思うこと

少し前に、『DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル』をざっくりと読んだことを今日思い出していた。精神科医が診断を行うときに参考にするマニュアルであり、現代社会において精神病がどのように理解されているのかを知る上で最良の出発点であると思う。

精神病というと一部のごく少数の人たちが抱える問題のように考えたがる人も多い。しかし、例えば『砂の女』の中で安倍公房がヒューモラスに述べているように、下手をすると人間は誰しも必ず少なくとも一つの精神疾患を抱えている可能性があるのである。

また、「精神病は少数の人たちの問題」という考えは、「少数派は何らかの精神病を必ず抱えているに違いない」というイデオロギーへといとも簡単に転化するし、むしろ前者は後者に基づいているともいえるかもしれない。この典型例は「アスペルガー症候群」の描写である。一見すると、アスペルガーとは「本当の」精神病であるかのような描写が行われるが、DSMを読み進めてゆくと、「あるいは、アスペルガー患者は少数派であるがゆえに社会生活が困難なだけかもしれない」という意味の付記がされている。著名な学者や芸術家などにも―例えば、アラン・チューリングのような―アスペルガーと診断されてもおかしくない人たちがたくさん存在する。もし少数派であるがゆえに、あるいは突出した才能を持ってしまったがゆえに、アスペルガーとして診断をされてしまうのだとすると、アスペルガー症候群を「病」と呼ぶことには疑問符がつきはしないだろうか。これについては後述する。

もう一つ、DSMに特徴的な点として、精神病を、社会的な立場の弱さと結びつけてしまう傾向もある。この典型は、DSM-5にて初めて病として認定された「反抗挑戦性障害」が挙げられるだろう。DSMの診断表をみるとわかるのだが、ある人がこの「障害」を持っているか否かは、基本的にその人が周りの言うことに従っているかどうか、また周りの人たちの価値判断を受け入れているかどうかによって決まる。つまり、自傷行為や不眠症など、身体的健康を害するような症状が一切みられなくても、ただ周囲の権力者の考えに賛同できないというだけで、障害者呼ばわりされる可能性があるのである。ここで重要な点は、権力者は弱者から「反抗挑戦性障害」の認定を受けることがありえない。定義上これは不可能だからである。

ここから、精神病という考え方のもつ問題点が二つみえてくる。まず第一に、少数派を疎外するイデオロギーとしてこの考えが機能してしまわないかという点。第二に、権力に対する批判や、権力関係を超えた人間関係の否定として、精神病というカテゴリーが乱用されはしないかという点である。

では、以上の二つの問題点をクリアするためにはどうすればよいのか。まず大切なことは、私たちは―特に、精神医学を専門的に勉強したことのないアマチュアは―精神病のカテゴリーを自分や他人に当て嵌めてはいけないということである。これはどれだけ強調しても足りないような大切な方針だ。「メンヘラ」というような言葉が軽々しく飛び交っているのは良くない―そもそも、冗談としてもあまり面白くない言葉だ。ましてや、多数派になじめない人たちや、自分の思うように考えたり行動したりしてくれない人たちに対して、「あなたは○○という精神病を患っています」などと言ってはいけない。(蛇足だが、人を精神病患者とみなすことによってものごとの解決を図ること自体を精神病として認定してみてはどうだろうか。精神病というカテゴリーの乱用を防ぐ上では有効だと思うのだが。)

また、「多数派対少数派」「権力者対弱者」という枠組みは、共同体の合意があるとき以外は用いるべきではない―これも大切な方針だと思う。例えば、夫婦関係を簡略化するために、「○○については私があなたの言うことを聞く(つまりあなたが権力者として振舞ってもよい)」という風に決めた場合は、権力者対弱者という枠組みで状況を捉えても良い。しかし、そうした合意がないのに、一方が他方に一方的にある枠組みを押し付けてしまってはいけない。そして、こうした枠組みを拒否する相手に向かって、「あなたは精神病なのでは?」という意味の言葉を投げかけてしまってはいけない。

精神病というカテゴリーを乱用するのではなく、教養を深めてより多くの人たちと関係できるようになればいい。相手が「極端」「おかしい」と思えてしまうのは、自分の興味関心の狭さの裏返しである場合も多いからだ。それに、その場にいる人たちが皆足並みをそろえて一緒に考え行動しなければいけない理由などもない。乗り越えられない誤解が存在していたとしても、肩の力を抜いてそれを気軽に面白がるようなドライ・ヒューモアがあればいい。

Sunday, 25 October 2015

Cooking in the Streets

A Greek man called Mr. Polychronopoulos started the "Social Kitchen." Here is Al Jazeera's coverage of what he did.

There really is nothing to lose taking part in such an activity. Not only will people come together and help out each other and feel better, but the movement will also create an opportunity for people to discuss the political moves necessary for ending the oppression and deprivation of the poor.

I found special encouragement in Mr. Polychronopoulos' telling of how he started by asking people to give a potato or a zucchini. Many supermarkets and grocery stores have workers feeling very bad about throwing away so much food -- food that is still edible -- every day. And many thrift stores would be more than happy to donate equipment for cooking the food and delivering them to others

As Hegel put it in his Philosophy of History:
Whatever might disturb the purity of the soul, should be destroyed. So in reference to property and worldly gain, it is said: "Care not for your life, what ye shall eat and drink, nor for your body, what ye shall put on. Is not the life more than meat, and the body more than raiment? Behold the fowls of the air: for they sow not, neither do they reap, nor gather into barns; yet your heavenly Father feedeth them. Are ye not much better than they?" Labor for subsistence is thus reprobated: "Wilt though be perfect, go and sell what thou hast, and give it to the poor, so shalt thou have a treasure in heaven, and come, follow me." Were this precept directly complied with, a social revolution must take place (p.327; my emphasis).
Yes, it is even said: "Think not that I am come to send peace on the Earth. I am not come to send peace but the sword. For I am come to set a man against his father, and the daughter against her mother, and the mother-in-law against her daughter-in-law." Here then is an abstraction from all that belongs to reality, even from moral ties. We may say that nowhere are to be found such revolutionary utterances as in the Gospels; for everything that had been respected, is treated as a matter of indifference -- as worthy of no regard (p.328, emphasis in the original).

Tuesday, 20 October 2015

TPP Intellectual Property Rights - Comments Up To P.38

Wikileaks released the Intellectual Property Rights documents of the TPP on October 9, 2015. Below is a series of my personal reflections on certain articles in that document.

Article QQ.A.9.

"In respect of all categories of intellectual property covered in this Chapter, each Party shall accord to nationals of the other Party treatment no less favorable than it accords to its own nationals with regard to the protection of such intellectual property rights."

Comment

Governments would have to apply the same intellectual property right laws and regulations to both domestic and foreign corporations. One question is how these corporations are going to be taxed. For example, if a U.S.-based internet search engine company - call it "G" - outcompetes local search engine companies in Japan - call them "Y" and "L" - then would G still be paying taxes to the U.S., or would it have to pay taxes in Japan?

Article QQ. A. 10.

"[E]ach Party shall endeavor to make available on the Internet its laws, regulations, procedures and administrative rulings of general application concerning the protection and enforcement of intellectual property rights."

"Each Party shall, subject to its national law, endeavor to make available on the Internet information that it makes public concerning applications for trademarks, geographical indications, designs, patents and plant variety rights."

"Each Party shall, subject to its national law, make available on the Internet information that it makes public concerning registered or granted trademarks, geographical indications, designs, patents and plant variety rights, sufficient to enable the public to become acquainted with the registration or granted rights."

Comment

Basically, this allows corporations to look at a "menu" of different nations and see where to go next in order to make the most profit. This article makes it easier for multinationals such as Monsanto to seek out loopholes in intellectual property right laws.

Article QQ. B. 3.

"The Parties recognize the importance of improving quality and efficiency in their patent registration systems and simplifying and streamlining their patent office procedures and processes for the benefit of all users of the system and the public as a whole."

Comment

Nation-states are obliged to make it easier for corporations to obtain patents, and moreover to allow the latter to obtain them faster. Increase in speed and facility is key to increasing profit.

Article QQ. B. 3.

"In order to reduce the complexity and cost of obtaining the grant of a patent, the Parties shall endeavor to cooperate to reduce differences in the procedures and processes of their respective patent offices."

Comment

Again, if patent-related procedures are homogenized around the world, it would make it easier and faster for corporations to apply for and obtain new patents and enter into the markets of foreign countries at a faster pace.

Article QQ. E. 1.

"[E]ach Party confirms that patents are available for inventions claimed as at least one of the following: new uses of a known product, new methods of using a known product, or new processes of using a known product."

Comment

This seems to broaden the scope of patentable intellectual property rights significantly. For example, if a food crop is found to have medicinal properties, then a medical corporation can patent that crop as a medicinal crop, and the patent holder of that crop as a food crop would not be able to sell that crop as a medicinal crop without violating the intellectual property rights of said medical corporation.

(up to p.38)

Thursday, 15 October 2015

Íslenska and Deutsch Mixer

Íslenska er ekki rökrétt. Eða er það? Á þýsku, segja menn að, tíl dæmis, 'das Einzelne ist die Allgemein als solche' u.s.w. Get ég að segja það á íslensku? Hvernig segja menn það?

Vinkona mín sagði mér að á íslensku var enskar orðið "stupid" getur verið þýddur "heimskur." Heimskur þýðir bæði "stupid" og "stay at home" (vera heima). Á Íslandi, þjóð sem fara ekki utan eru heimskur.

Sunday, 11 October 2015

30-Fold Increase in Thyroid Cancer among Youth in Fukushima / 福島の若者の甲状腺癌が通常の30倍

Tsuda, Toshihide; Tokinobu, Akiko; Yamamoto, Eiji; Suzuki, Etsuji. 2015. Thyroid Cancer Detection by Ultrasound Among Residents Ages 18 Years and Younger in Fukushima, Japan: 2011 to 2014. Epidemiology. Online. Accessed October 10, 2015.

"[A}mong those ages 18 years and younger in 2011 in Fukushima Prefecture, approximately 30-fold excesses in external comparisons and variability in internal comparisons on thyroid cancer detection were observed in Fukushima Prefecture within as few as 4 years after the Fukushima power plant accident. The result was unlikely to be fully explained by the screening effect" (2015, p.6).

"[W]e could infer a possibility that exposure doses for residents were higher than the official report or the dose estimation by the World Health Organization, because the number of thyroid cancer cases grew faster than predicted in the World Health Organization’s health assessment report" (2015, p.6).

引用部の和訳:

「2011年当時18歳以下であり福島県にいた人々の間での甲状腺癌の検知数は、外部との比較で約30倍という値を示し、内部比較においては値の変動が見られた。この検知結果は、福島原発事故からわずか4年後に得られたものである。スクリーニングによる影響のみでこれを説明しきるのは難しい。」

「ここから、福島県民の被ばく量は、世界保健機関の公式の被ばく量予測よりも高かったのではないかと推測できる。なぜなら、世界保健機関の健康評価レポートの予測よりも速く甲状腺癌の検知数が増えているからである。」

Friday, 9 October 2015

匿名性と小説

「匿名性」と聞くと何か特別なことのように思えるかもしれないが、実は私たちは人生の大半を「匿名的」な存在として生きている。「あなたがあなたであることはそれほど大切ではない」という人たちに囲まれて生きることや、一人で生きることは、どちらも匿名性の中で生きることである。「あなたがあなたであるからこそ関係したい」つまり「あなたを愛している」「あなたこそ本当の友である」と言ってくれる人と関係することによってのみ、匿名性から脱することができる。

 これは一方ではとても難しいことだが、他方では容易でもある。要するに、こういう考え方を持っている人と出会えさえできればいいこと。ただ、こういう人と出会うということは、それ自体がすでにそれなりの労力を必要とする。骨の折れる作業であるとも言える。というのも、「あなたがあなたであるからこそ…」という思いは、試される必要があるからである。

口で「あなたを愛している」「あなたこそ本当の友である」という意味の言葉を言うのは簡単だ。しかし、それを常に言い続けることはできるだろうか。相手に対して幻滅しきってしまったかのように感じる瞬間にも、「いや、でも、私はあの人とつながっていたい」と思えるだろうか。こういうことを考えたことのある人にとっては、こうしたコミットメントは難しいことではない。しかし、考えたことのない人にとっては、とても感情的に重いことのようにも感じられるかもしれない。少なくとも、損得で人間関係を把握している内は、まだこういう思いに身を置くことはできないだろう。

優れた小説は、こうした意味で、人物を「その人」として描く。たしかに、小説に描かれる人物は虚構の、架空の人物だが、そうはいっても、書き手や読み手のその人物に対する思い入れには、愛や友情に通ずるものがあるだろう。私個人も、例えばトルストイの描くレーヴィンやジョイスの描くスティーヴンには深い思い入れがある。逆に、実在はしていても、私にとってはほとんどどうでもいいような人たちもたくさん存在する。残念ながら、これもまた事実として認めるしかない。そう考えると、小説とは、人を匿名性から解放する手段でもあるのかもしれない。

Thursday, 8 October 2015

ウィリアムズ―『哲学の限界と倫理学』

バーナード・ウィリアムズは20世紀イギリスの哲学者。『哲学の限界と倫理学』(Ethics and the Limits of Philosophy)は1985年に初版が発行された。和訳は『生き方について哲学は何が言えるか』という邦題で1993年に産業図書より出版されている。(個人的に、これはとても優れた邦題だと思う。)

ウィリアムズはまず、倫理学(ethics)と道徳哲学(moral philosophy)を区別する。後者は前者の一分野である。つまり、倫理学の方がより多くの題材を研究する。そして、ウィリアムズは、道徳哲学は近代になって生み出された「独特の制度」(peculiar institution)であるという。「道徳」の概念を最もはっきりと、丁寧に展開したのはカントであり、カント的な道徳を最も厳しく的確に批判したのはヘーゲルである、とウィリアムズは述べる。

「道徳」とはどういう制度なのか。道徳は、道徳的な生き方こそ人間にとって最高の生き方である、と主張する。では、道徳的な生き方とは何なのか。それは、「責務を果たす」(fulfill one's obligations)生き方である。責務とは、具体的には「約束を守る」「他の人のために労力を惜しまない」「他の人を自分の道具のように扱うことはしない」といったルールである。

道徳の観点からすると、こうした責務のルールを破るためには、さらに別の、より重要度の高いルールに従って行動しなければいけない。例えば、友人との約束を破る必要が生まれたとき、その約束を破る理由として、「苦しんでいる人には手を貸すべきである」というような別のルールを挙げなければいけない、というわけだ。

ウィリアムズいわく、道徳という制度が袋小路に嵌まるのはここである。倫理学は人の生き方について理論を展開する学問だが、人生には責務以上に大切なものごとがたくさんある。道徳という制度は、これらのものごとを全て「二次的」で「どちらでもいいもの」にしてしまう。

さらにいえば、道徳は「この私」にとって大切だからこそ大切なものごとを人生に反映させる生き方を擁護できない。なぜなら、「この私」にとって大切だから大切なものごととは、つまり他の人にとってはどうでもいいかもしれないことなので、「責務」とは関係のないことだからである。(日本語では「責務」というと個人的なものごと―「これをしないと私の面子が保てない」というようなものごとだ―も含まれるように聞こえるが、英語のobligationには他者や共同体を自分よりも優先すべきという強い響きがあり、「私個人へのobligation」というような考えは浮かばない。だからこそ、道徳という制度のために「責務」という言葉が選ばれたわけである。)

道徳という制度の他にも、ウィリアムズは各章でそれぞれ個別の倫理学理論を批判する。本を読み終わって感じるのは、「過去の瓦礫が撤去された」という爽快感だ。アリストテレスの「幸福」(eudaimonia)に基づく倫理学、カントの道徳哲学、言語学的転回の後の「倫理的な言葉の意味をはっきりさせよう」というムーヴメント、相対主義、ロールズに代表される契約論、功利主義。これらすべてが、人生で人が通常大切だと感じる何かをそれぞれないがしろにしてしまっている。つまり、理論として限界があるのである。

こうして、ウィリアムズは、何か一つの概念を基礎に置いた倫理学理論というものを否定する。 倫理学のねらいは、ある一つのプログラムに従って生き方を構築することではない。

日本語の文脈では、「皆が一つの原理を守って生きる」というような考え方は流行っていないかもしれない。良くも悪くも「その場しのぎ」的に生きることが暗に善い生き方だという風潮があるように思う。対して、20世紀後半の英米では、一つの原理を皆が守るという考え方はかなり常識的だった。だからこそ、ウィリアムズの本のような作品はインパクトがあったはずだし、ウィリアムズ自身も、様々な倫理学理論を批判するためにはかなりの紙数を費やす必要があった。ちょうど、現代日本で「皆一つの原理を守って生きるべきだ」と本気で説こうとするようなものだ。興味本位で読む人たちは存在するかもしれないが、こうした説教に心から動かされる人はほとんどいないだろう。同じように、英米では、ウィリアムズのような考えへと人の心を動かすのは容易ではない。しかし、『哲学の限界』はそれをやってのけているように思う。

基礎を失っただけでなく、基礎を求めることそのものが倫理学にとってすべきでないこととなってしまった。では、倫理学は何をすべきなのか。ウィリアムズはいくつかの提案を作品中にちりばめている。

一つは、倫理的な知識の問題である。ウィリアムズいわく、倫理的な知識(つまり、生き方についての知識)は、自己反省(self-reflection)によって破壊されてしまう可能性がある。例えば、料理が上手な人でも、自分の料理の仕方を紙に書き出してみようとすれば、自分がどうやって料理をしていたのかがわからなくなってしまい、しまいには料理が以前のようにはできなくなってしまうかもしれない。自分のしていることについて問うことによって、そのことがもうできなくなってしまう、という現象はたくさん存在するだろう。そうはいっても、近代においては自己反省が人の生き方の隅々にまで浸透しているので、近代社会の一部として生きる人は自己反省のもつ破壊力から完全に自由ではありえない。自己反省がどのようにして倫理的な知識を変容させるのかを研究する―これが、ウィリアムズの一つ目の提案だ。

二つ目は、具体的な生き方(concrete forms of life)がどのようにして拡大しうるのかを考えることである。ウィリアムズはヘーゲルを引用しつつ、カントの道徳哲学を批判する。カントの問題点は、道徳的に生きる人の生き方があまりにも抽象的に、観念的に想像されていて、それを具体的に実行している人が存在しないという点である。つまり、道徳的な生き方とは空疎な幻想としての側面ももっているのである。対して、ヘーゲルはすでに存在する様々な「習俗規範」こそが人の生き方を決定するのだと言った。問題は、二つの異なる習俗規範がぶつかり合ったときに、どのようにして人々は自分の生き方を変えたり守ったりするのか、という点だ。ヘーゲルによれば、より自己意識の強い習俗規範が近代社会では生き残ってきたことになっている。これは史実としては概ね正しいが、個別のケースを考えるにはまだまだ詳細事項が足りない。習俗規範は他の共同体へとどのように拡大していくのか。この「拡大」という現象を、単なる侵略として以外に考える方法はあるのか。そうした思考方法の開発が、ウィリアムズが挙げる倫理学の二つ目の課題である。

国際関係がますます身近な問題になっている昨今では、以上のような問いは特に考えて深める価値があると思う。