Wednesday, 30 October 2013

日常雑記

久しぶりに日常的なことについて書きたいと思った。長い間海の中に潜り続けた後、日光の下に顔を出したような気持ちになる。

いきなり否定的なことを書く。日本には住めない。日本で暮らしたい。世界を旅するなんてしたくない。外国に行くなんてしたくない。でも、日本には住めない。理由は、とても単純で、原発がこの先再稼動していくから。東北へ実際に二度行った。どちらも、息が詰まるような気持ちを抑えつつの滞在だった。今も、そのときのことを思い出すと、どっと疲れが押し寄せてくる。そんな惨事が、また本州のどこかで起こるのか… 可能性があるだけで、本州に住みたくないと思ってしまう。津波がなくても、直下型の地震で空気や水や土地がすぐに放射能で汚染されてしまうだろう。その可能性を、あたかもないもののように忘れることが、できない。その可能性があるのに、責任をもって家族をこの国で養えるのか? 養えない。本当に家族を生存させたいのならば、外国に、それも中国や韓国などではなく、もっと遠くに逃げ、そこで暮らすしかない。日本の政治は当分変わらない。原発を廃炉にしたり、廃棄物や余った燃料を自然災害のリスクがない地方へ輸送する等といった措置も、当分実行されないだろう。選挙での一票、脱原発のデモ、署名。節電。そうした白々しいことを続ける以外に、できることがないのだとすれば、家族を守ることなど現実的に不可能だ。

行くとしたら、やっぱりEU圏内か、あるいはカナダのどちらかになるだろう。大学院生としてそこへ行き、博士課程まで終え、何らかの形で教職に就くだろう。日本でも、もう家庭教師を始めて一年になる。コツは掴んできたし、我ながら、教えるのは下手ではないと思う。結果も出ている。だから、海外に行っても、特に数学と理科の指導ができるので大丈夫だろう。

日本を離れるのはおしいし、今住んでいる町を離れるのも残念だ。たまたま住み始めた町に、思いのほか面白い人たちがたくさんいることを知り、驚いている。パン屋さん。イタリアの人。ダビデ。ドイツの人。ひよこと山羊の人。床屋のおじさん。近くに川があって、月がきれいで、夜は虫の鳴き声や大雨や大嵐を聴いて眠るのが心地良い。

英語には、Voluntary Exileという言葉がある。自主的亡命。本当は、戦争や貧困や差別が原因でそういうことをする。原発のリスクが原因で国から逃れるのは、はたして亡命といえるのか。

哲学を続けていて本当にありがたいと思う。美しいものをつくるということは、美しさとは何かを知ること。善いことをするということは、善さとは何かを知ること。何かを知ることは、何かを知るとは何かを知ること。全て、知ることにかえってくる。自分がどこにいて何をしていても、ものごとを知る自分はそこにいる。何にも依存しないで、どこへ行っても、自分が自分のままで、普遍的なことに触れていられる。

今の日本には住めないけれど、日本語という言葉はとても好きだ。日本語で思想をしたい。

Tuesday, 29 October 2013

自由について 2

前回はヘーゲルの『法権利の哲学』を土台に、人間の自由がどう芽吹くのかを考えました。今回は、自由そのものについて、『論理学』から見えてくることを述べます。

『論理学』では、自由の前に必然性が来ます。必然性とは、何かがまさにそうであるしかない、ということです。例えば、肉体が朽ちることは必然的である、とかいう風に言います。逆に、日本がソチ五輪で一番多く金メダルをとるのは必然的である、とはいえません。とらない可能性もまだ否定できていないからです。

必然性とは、 なにに関しても、ことが起こった後でみえてくるものです。日本が五輪で金メダルをとってからでなければ、「なぜ金メダルがとれたのか」という問いは生まれませんし、そうした問いが生まれなければ、金メダルをとれた原因について考え始めることもできません。つまり、実際に起こったことしか必然的ではないのですし、逆に実際に起こったことならば、全て必然性の中で捉えることができます。

全てを必然的なものとしてみなしたときに、自由が生まれます。これが、ヘーゲルの考えの非常に面白いところです。ものごとの一部が必然的で、別の一部が自由なのではありません。自分の外にあることによって決定されてしまうものは、不自由です。自由なものは、自分の内部に自身の成り行きを決定する力や原因を持ち合わせています。例えば、金メダルをとった私と、金メダルをとる原因となったものごととが切り離されて考えられているうちは、私は自由に金メダルをとったとはいえません。この出来事に向けた一連の因果関係が全て一つにまとめられ、私の考えとしてまとまったとき、私は始めて、自由にこの出来事を起こした、ということができるのです。

この、自分の外で起こっていたようにみえた出来事が、自分の考えへと転化していく動きは、ヘーゲルいわく、存在、あるいは客観的なものが、概念、あるいは主観的なものへと昇華されていく(Aufhebung)ことです。ここにくると、ある出来事は、「私がそうみるからこそ」その出来事である、という風に捉えられ、その出来事を生かすも殺すも主観である私次第となります。そのため、必然性と自由とは二つの別々のものの見方なのではなく、ものの見方として二つを区別できる時点で私はすでに自由なのです。

とにかく、この思考の流れの中で一番大切なのは、自由になる前には、全てのものごとを必然性の名の下に一回まとめる必要がある、という点です。ものごとの因果関係がまだよくわかっていない内は、ある出来事の解釈をどう料理しようがそれは身勝手な偏見にすぎません。これでは、結局自分の外にある、自分ではまだ捉えきれていない原因によって、その出来事が決定されているからです。「これが起こるにはこういう因果関係しかありえない」といえるまで全てを考え抜いて、初めて、その因果関係に自分から関わっていく土台が生まれます。

必然性が自由の条件だとすれば、考えることの大切さが改めてみえてきます。昨今は、「考えている暇があったら行動しろ」とか、「意見をいうならばまずは行動に移せ」といった具合に、行動こそ意味と内容のある尊敬すべきことで、考えや意見、哲学や批評は口だけの薄っぺらい無力なものだと思われがちです。しかし、自分がそもそもどんな状況にいて、今とっている行動はなぜこうでなければならなかったのか、それを把握できないまま、がむしゃらに思いつきを実践に移しても、虚しいだけです。この虚しさと、人は向き合えていないように思えます。 考えることによってでしか、つまりものごとの必然性を把握することによってでしか、この虚しさを乗り越えて、本当に次に進むような行動をとることはできません。「なんとなく良いように思える」ことをやって、かりそめの安心感に浸っていても、全くそれははりぼての城のようなもので、自分の行動を今の世界の大局と結び付けていくためにはやはり学問が必要不可欠なのです。

ヘーゲルは、手つきも鮮やかに、哲学者が哲学によって哲学を正当化していくさまをみせてくれます。かれの打ち出すこうした自由の概念は、また改めて詳しく論じるに値するものです。

Monday, 28 October 2013

External and Reflective Alienations

The naive concept of alienation runs as follows. A person works. The labor is reflected in the value represented by something other than the worker. The worker forgoes this valuable something. In doing so, the worker also lets his or her own time and ability go. Here, alienation has a twofold meaning. On the one hand, there is the structural meaning, where the worker is at a loss as to how his or her labor is connected to the whole. In other words, the worker cannot associate his or her own labor with the whole. On the other hand, the concept is psychological, for the labor appears to the worker as something which is constantly sucked into a vacuum-like Beyond. It is this feeling of hollowness that is particularly problematic about alienation.

If alienation is to be taken in this purely negative sense, then it is something to be criticized and overcome. There cannot be two types of alienation. However, reading The Philosophy of Right, especially the first chapter where the term "alienation" or "conveyance" (depending on the translation) is introduced, gives the reader the idea that perhaps there is a way of "alienating" one's own labor in such a way that is neither structurally nor psychologically taxing. If the experience of having one's labor be sucked into the void of the unknown whole can be called "external alienation," then the experience of letting one's labor go in such a way that allows one to keep a relation to this labor may be called "reflective alienation" - reflective, since the forgoing or externalizing of one's labor is at the same time taken as the extension of one's self. This latter kind of alienation might appear contradictory and thus impossible or unreal, but I do think that there are grounds for supposing that it is indeed something that really occurs. In fact, there even are cases where a worker desires to let go of his or her labor, to disperse it in the world, and to enjoy the unknown and unforeseeable consequences of such an act of alienation. If such a concept is possible, then perhaps it might serve as a key to an ethical form of work which is not dependent upon larger systemic changes.

Wednesday, 16 October 2013

自由について 1

ヘーゲルの『法権利の哲学』は自由についての思考を始めるための土台です。哲学の方法を守っていますし、とても簡潔に書かれています。「土台」というのは、それ自体としては揺るぎないものですが、まだそれ自体として完結してはいないものでもあります。そういう意味で、この作品は精読されるべきです。精読した後で、自分の言いたいことをさらに付け足して行けば良いのです。

自由について述べる前に、まずは哲学の方法とは何かを簡単に書きたいと思います。哲学は概念を扱う学問です。概念は色々な形をとります。これらの形は、互いに別々のものではありません。むしろ、互いに重なり合っています。概念の全体も、概念の形の内の一つです。この形こそ、概念の持ちうる最上級の形なのです。対して、「これを外してしまっては、この概念自体が成り立たない」といった要素があるとします。そしたら、この概念の最下級の形は、この要素のみを含んでいます。哲学は、この最下級の形から出発します。例えば、自由という概念について考える場合、「これがなければ自由は成り立たない」という要素一つから出発します。そして、その要素の中に含まれる矛盾をバネにして、次の形へと考えを進めます。こうして、最上級の形にまで、つまり概念の全体にまで至ろうとします。哲学的な批判や発見は、すでに先人たちが描いた概念のもつ各段階を再び考え直し、途中でなにか飛躍はないか、省略されていたりないがしろにされたりしている段階はないか、あるいは、最上級の形と思われている形よりもさらに先の形はないか、などといったことを考えることで成り立っています。

ヘーゲルは、自由の概念の最小限の形、一つしか要素のない状態を次のように描いています。自由とは、意志の自由です。意志とは、個人に宿るものです。個人とは、思考、あるいは観念としてしか存在しないものです。つまり、必然性しかない自然の世界から逸脱した個人、思考の力によって全てのものごとから距離を置いた「私」こそ、自由の最下級の形です。この「個人」が存在するところから、自由は出発します。しかしながら、この「個人」は全く抽象的な存在です。内容が全くありません。自然界のものごとの一切はこの個人とは別のものですし、この「個人」の肉体や、考えや、感情や才能さえも、自由の形としての「個人」の一部ではないのです。自然も肉体も考えも感情も才能も、全てここでは必然的なもの、つまりすでにそのあり方が「どうしようもなく決まりきっているもの」なのですから。対して、この自由な個人には、あらゆる可能性を夢想する自由があります。

さて、この個人が始めにもつ自由は、否定的な自由です。というのも、この個人は思考によって自然の中のものごとの一切を否定し、そこから自身を切り離すことによって生まれたのですから。当然、自分の外にあるものごとは自分の自由を侵害するものとして目に映ります。こうしたものごとを斥け、破棄し、否定することで、この個人は自由を表現するのです。

ただし、こうした自由の表現は、逆に言えば外の世界にある様々なものごと失くしては成立しません。つまり、否定する対象がなくなってしまうと、この個人もまた潰えてしまうのです。もちろん、この最も貧しい自由の状態にひたり続けることは全く簡単なことです。現実の世界には、否定する材料はいくらでもありますから。自然物を否定できなければ社会制度や人間関係に対して否定的になれば良いですし、それすらもなくなって独りになった後も、自分の中に沸き起こる感情や考えを否定し続けることができます。サミュエル・ベケットの『名づけえぬもの』の主人公こそ、この自由を貫徹している好例といえるでしょう。

ここにきて、この否定的な個人は、自分の自由がその実結局自然物に支配された不自由さである、ということに気がつきます。しかし、同時にまたこの個人は自由です。自由で居続けるための打開策として、個人は自分の自由意志の対象に何か具体的なものを設定しようとします。しかし、あらゆる自然物は、結局偶然的にその場に現れては消えるものなので、自由にそれを実現することは個人にはできません。例えば、私たちは自分の感情を自分の思うように掻きたてたり鎮めたりすることができませんし、さまざまな欲望や物理的な制限などに対しても概して無力なものです。

しかしながら、一つだけ、この個人にとって自由に実現できるものがあります。それは、すでにこの個人が自由に実現しているものでもあるのです。何かといえば、それは他でもない、自由な意志そのものです。この個人は、自由な意志を自らの意志によって選び取ります。「私は自由になろう」と自分で決定するのです。自由な意志は具体的なものですが、それは自然物ではなく、思考によって自然の一切から距離をおいた結果生じたものです。つまり、自由に実現されたものなのです。あるいは、自由の生じるきっかけとなった出来事は必然的に起きたかもしれませんが、その結果生じた自由な意志は、自ら自分自身を実現しようとするこの段階に来たときに、このきっかけとは無縁の自立した存在となる、ともいえます。

こうして、自由な意志を自ら実現しようとするとき、自由は一段上の形へと発展しているのです。この新しい形を、ヘーゲルは「私的所有」(private property)と呼びます。

Wednesday, 2 October 2013

Project Ideas

1. From Nature to Mind

This work will aim to tackle the problems related to the relation between nature and mind. This chiefly includes the so-called "problem of consciousness," although other issues such as the classical mind-body problem, as well as the problems related to the "correspondence theory of truth" and the "limits of our knowledge (of nature)" will also be discussed.

The work will be divided into three parts. First, there will be a discussion of Nature. Nature will be considered as mathematical and organic natures. The second deals with Mind, where concepts dominate the scene. The final part deals with the Transition, in which the logical movements from organic to conceptual beings will be investigated. In particular, the question of how "memory" or "learning by experience" becomes possible, how blind repetition is sublated, will have to be thought out in detail.

The ontological presupposition is that the world is fundamentally logical. In a word, panlogicism. Logic, however, is much more than formal logic. It contains all the essential abstract tensions which, although they do not manifest themselves directly in nature, are nonetheless part of nature, and of mind also. The principle which will guide the entire development is that mind is the reality or full realization of these logical entities, although logical entities condition the existence of mind. Nature mediates the two sides, and the ways in which this mediation happens will be the chief topic of part three, Transition.

Beyond this outline, there is nothing much to be said about the work. And this outline has hardly said anything at all. The reality of the work should lie in the work itself.

Alfred North Whitehead's Process and Reality should be one important reference point, upon which this work will build itself.


2. The Principles of Freedom

We here take the word "freedom" in its most naive sense, and try to build a systematic scale of forms. Freedom is, most naively, a) absence of all predetermination, and b) emergence of something new or other. The latter can be something other either in terms of a specific new quality or a specific quantitative determination such as position in space and time. From this we move forward dialectically by contrasting the positive and negative sides of this starting point in order to move to a higher form.
This work presupposes the work done in From Nature to Mind. Although logic continues to serve a foundational ontological role in the existence of freedom, freedom is not a concept which can be understood prior to the emergence of mind.

Moreover, as with the first work, this work also aims to show that its conclusions are categorically true. It must describe the forms of freedom as they exist regardless of whether or not a mind is hypothesizing about them as things external to itself. One of the reasons why From Nature to Mind needs to be presupposed is precisely located here, that freedom is in a very important sense identical to the mind, and so cannot be detached from the real existence and process of the mind.

Beyond these remarks, what is worth saying about this second project is, once again, only to be found in its actual execution.