Wednesday, 18 February 2015

「アプリオリ」をどう訳すか

「アプリオリ」という言葉をどう訳すべきか、大いに迷う。

中山元氏は、カントの『純粋理性批判』の新訳においては、そのまま「アプリオリ」とカタカナ表記している。他の候補として、「先験的」という訳し方も見たことがある。

哲学史を通して一貫した意味をもって使われてきた言葉ならば、「アプリオリ」とそのまま訳しても良いのかもしれない。しかし、実際、ライプニッツやカント、現代フランス思想などにおいて、この言葉は全然別の意味を与えられてきた。

また、作品ごとに意味が異なるからといって、アプリオリという語を訳し分ければそれで済むという話でもない。作品によっては、この言葉を使うことによって、哲学史そのものを参照しているかもしれない。

『哲学の方法について』においては、アプリオリという言葉は飾り程度の意味で使われ、カントへのオマージュが込められていた程度だったので、「ただ考えることによってのみ」という訳語をあてることができた。

しかし、『精神の鏡』においては、ギリシア科学からルネッサンス期までの広い哲学史における流れを表すキーワードとして、コリングウッドは「アプリオリ」という語を使っている。

ならば、妥協して「アプリオリ」とカタカナ表記すれば良いではないか、という声がする。そうなのかもしれない。それで済むのならば、それで良い。しかし、それでよいのか。「アプリオリ科学」などと言われて、あるいは「アプリオリなものとしての科学の理想像」などといわれて、読者は理解ができるだろうか。それとも、『精神の鏡』はライプニッツやカントやラッセルを読んでから読め、という本にすべきなのか。いや、そんな本にはしたくない。ライプニッツもカントも知らない人でも読めるようにしたい。それに、現に、コリングウッド自身、そういう一般読者に向けて書いている。著者の意図を汲むのが翻訳の第一前提なのだから、「アプリオリ」というカタカナ表記はいけない。しかし、である。哲学の専門家と、翻訳の専門家の声が両耳に入ってくる。しかし、勝手な訳語をあててしまえば、この作品は哲学史から切り離されてしまうではないか。読みやすさを重視するあまり、お前はそこまでしてしまうつもりか。それは愚行というものだ。おとなしくカタカナ表記をせよ、と。

悩むうちに、「純粋思想」という訳語が浮かんだ。これだ、と思った。というのも、哲学史において「純粋思想」という言葉は、アプリオリ性について何か述べているテキストに参照するには十分具体的だからだ。ライプニッツもカントも、プラトンでさえも、これならば文句はないだろう。しかし、異論はあるかもしれない。例えば、カントにおいては、アプリオリとは「普遍的かつ必然的」という意味で、いわば略語のようなものだから。しかし、略語ならば、略語として解釈されるので、「アプリオリ」とカタカナ表記する必要はあるのか。「純粋思想」は、『精神の鏡』の文脈においては、「普遍的かつ必然的」という意味も十分もちうるフレーズだ。だから、問題ない。よし、決まった。

...と思っていた矢先、「pure or a priori thought」という名詞フレーズにぶつかる。しかも、一度ではなく、何度も何度も。これは、かかる訳語を当てると、「純粋な、あるいは純粋思想的な思想」となってしまい、わけがわからなくなる。結局、「純粋な、あるいはアプリオリな思想」と訳した。

妥協である。しかし、これでおさまったわけではない。悩ましい。悩みは解消されない...

Tuesday, 17 February 2015

芸術と哲学との文の難解さについて

読みやすい=すでに読み手が知っていることしか書いていない、ということならば、読みやすさは哲学の文章にとっては欠かせない。なぜなら、哲学とはすでに人が知っていることについての学問なので、「すでに私が知っていることがこの文章では語られている」と読み手に感じてもらうべきなのだから。

芸術家の行動は遊びである、とコリングウッドはいう。

遊びとは、正しさと誤り、利益と損失などといった問題には一切注意を向けず、ただ無責任に選ばれた目的を持つだけの意志によって何かをする、そんな行動形式(form of action)です。遊びの目的は、正しいものとして、便利なものとして、適切な、常識的な、あるいは規範的なものとして選ばれるのではなく、単にこうだと選ばれるだけなのです。これを望み、求めることが、これをしようとする理由です(Hoc volo, sic iubeo; sit pro ratione voluntas)。(III、§8)

そして、遊ぶ芸術家は、自己陶酔に浸るが、それはむしろ芸術の本来のあり方である、とも。

想像の世界は個人的な世界であり、それを作り出した作者のみが生きる世界なのです。

作り手のこのような自己陶酔は、社会奉仕が崇拝の対象となっている昨今、一種のスキャンダルとなっています。そして、功利主義的な現代においての自分の存在意義である「功利」(their utility)を証明するべく、作り手たちは各々の作品の本質が、重要な、あるいは美しいメッセージの発信源であると必死にアピールしています。しかし、このような試みは必ず失敗に終わります。というのも、感性的体験(aesthetic experience)を実際にしたことのある芸術家ならば誰しも、この体験においては俗世間(the world of men and things)を忘れますし、自分の考えを伝えたり、それを受け止めてくれる聴衆を求めたりすることは、二の次のことであり、この体験とは別物であるということを知っています。(III§3)
芸術家は聴衆を求めない。ミハイル・シーシキンは、処女作を執筆していたとき、「理想の読者」を自分の背後に作り出し、この読者の声に従っていたという。彼女が「それは完璧な一文だね」と言えば文はそのままにされ、「削除せよ、削除せよ」と繰り返せば文は消される。そうして出来上がった作品が『書道教室』だった。

芸術家が遊ぶとき、その目的は、目的なく想像を巡らせることだ。だから、聴衆によって想像の行く手が阻まれてはいけない。 かれの目的は、ただより遠くへ行くことだ。まだ誰もみたことのないところへと行くために遊ぶ。芸術は精神の開拓を引き受けている。
哲学の書き手は、こうした自己陶酔に浸ることが許されるのか。

哲学の題材となる「すでに知っていること」とは、まずはどのように知られるのか。それは、芸術によって知られる。しかし、芸術は、ある領域の存在を教えてくれはしても、その存在以上のことは教えてくれない。そして、単に存在しているだけのものは抽象的だ。哲学はこれを具体的なものとして記憶に残すためにある。

芸術を題材としている限り、哲学には自己陶酔は許されない。しかし、では、ヘーゲルの『論理学』は、文体の上では自己陶酔ではないのか。どうなのだろう。

『論理学』は難解だといわれるが、少なくとも翻訳はしやすい。ゲーテの『ファウスト』の方がよっぽど翻訳するのが難しい。まだみぬ場所へ言葉だけで行こうとするのが芸術なので、芸術的な文のほうが、より綿密で繊細な翻訳が要求される。読み手にも、そのような読書が要求される。ヘーゲルの文は、言葉に執着しすぎるとかえって読めなくなるような文だ。その意味では、文体の上ではかれは自己陶酔的ではない。ただ、哲学的には初めて人が足を踏み入れるような場所へと行ってしまったので、かれはそのような文体を用いただけだ。難解にみえる文体でも、芸術と哲学とでは根本的にそのもつ意味や性質が異なる。

Die Prosa des Philosophen ist schwer zu verstehen, während die des Künstler ist unverständlich.

「芸術家は、当り前のことを改めて繰り返してみせる」―こんなことを偶然にも読んでしまい、またわけがわからなくなる。そして、「ま」のところまで読み、『ふえふきおとこ』の主人公はマイケルだったのかと種明かしを受けて、単なるグリムの焼き増しではないということが納得できた。「マイケル病は水疱瘡のようなもので、流行ればほとんどの子がかかるけれども、必ず治るし、治れば免疫ができて、二度とかかることがない。ほんの一握りの例外を除いては。」 芸術は誰でもいっときは魅了されるものだが、そのうち想像の世界から人は足を踏み出すし、一度踏み出せば免疫ができているので、また純粋想像界へと引き込まれてしまうことはない、ただし一部の例外を除いて。

Wednesday, 11 February 2015

読書会と社会的弱者

音の似ている言葉を集めて、頭の中をほぐす遊びを駄洒落だと言って笑い捨ててしまったり、またもう少し高級なところでは、「それは外国人的な発想だ」と言って見下しながら感心するふりをするという矛盾した態度に出る人が多いのはなぜでしょう。そうすることによって、自分自身が母語と安全な関係にとどまろうとしているのでしょうか。ある社会で大人として認められるには、母語を透明にして、母語と自分の間には何の違和感もないのだというふりをし続けなければいけません。でもそれは、言葉と言葉のありきたりなつなげ方しかできないということでもあります。ありきたりでもいい、平凡な幸せならいい、と言う人もいるかもしれません。でも、今の世の中、ありきたりでは不幸になってしまうかもしれないのです。

たとえば「迷惑をかける」という表現が、ものすごい重圧感と圧倒的な罪悪感を持って釘のように日本語人の身体に刺さっているようです。こんな社会ですから生活保護を受けなければ生活できなくなった人はたくさんいると思いますが、役所では生活保護を出すまいとします。拒否するのではなく、自分からもらうのを諦めてもらうには、「それは人に迷惑をかけることだ」とほのめかしてやればいいのだそうです。すると「ああ、そうだ。人に迷惑をかけてはいけない。そのくらいなら自殺しよう」という発想になってしまう人さえいるのです。母語にあるいくつかの言い回しは不幸なことに個人の心に深く打ち込まれているのです。それをほぐして、取り出し、手にとって眺め、投げ上げて、見つめて、したたかに、明るく、生意気に、賢く、自由に思考しようとするひとつの道が言葉遊びだと思っています。

(中略)

生活保護課の窓口でひどい扱いを受けた瞬間にその人が言葉遊びを展開するのは無理かもしれません。弱者として直接被害を受けている瞬間と、言葉をひねって練って鍛えている瞬間とには常に時間的なずれがあるかもしれません。でもずれた時間を大きな風呂敷に包んで背中に背負ったのがわたしたち人間だとしたら、その荷物の中にはやはり、すりきれていない言語感覚が入っていなければ長い旅には耐えられません。これはわたしの移民としてのささやかな体験から言うのですが、社会的に弱い立場にある時こそ、遊び心がなければ生き残れないのです。

いつだったか日本のある町で文学の話をしてほしいと頼まれ、話しているうちにほとんど言葉遊びの話になったことがありますが、講演が終わると、来ていた人の中で、「自分は失業して今大変なのだ、言葉で遊んでいる暇などないのだ」という意見を言った人がいました。これは、言葉遊びなどは生活の心配のない階級の人間が暇だからやっている無駄な遊びで、自分たち労働者はまじめに働いて苦労しているんだ、それをリアリズムで描くのが文学ではないのか、という考え方です。でもわたしはそうではないと思うのです。

遊びが大切だと書きましたが、それは、遊びを通して大人の社会のルールを勉強することもできるから遊びは大切だと言うのではありません。わたしはむしろ、社会での競争を再現したようなゲームが苦手です。ドイツに来たての頃、友達の子供が「モノポリ」というゲームをやりたがって、つきあいながらうんざりしたのを覚えています。これはお金をためて、家を買ったり、投資したりしながら進んでいくサイコロゲームで、他の人の経済活動の邪魔をしたりもするわけです。最終目的は自分が一番儲かることで、そのために大切なのは、他の力が上昇してこないように押さえることです。そのようなことは現実の社会でたくさんの人たちがやっているのに、なぜ自分が自由な時間でわざわざゲームでそういう退屈なことをくりかえさなければならないのか不思議でした。

『ソウル―ベルリン玉突き書簡』62~65

3、4年ほど前に、バンクーバーにいた頃、ジェイムス・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の読書会に参加させていただいていた時期があった。この読書会は5名ほどの中心メンバーと数人の外部者(私も含む)から成っている。参加者は1ヶ月に1回集まって、2ページずつウェイクを読む。

「母語にあるいくつかの言い回し」を「ほぐして、取り出し、手にとって眺め、投げ上げて、見つめて、したたかに、明るく、生意気に、賢く、自由に思考しようとする」―フィネガンズ・ウェイクほどこれを徹底的にさせてくれる本は少ない気がする。

事実、この読書会も、ウェイクを読むという以上のことは何もしない会だった。もちろん、ワインやチーズやオリーブなどは机の上に並ぶ。でも、音楽もかかっていないし、歩き回って世間話をするわけではない。(後述するが、そもそもそのような優雅なパーティーができるほど大きな部屋でこの読書会は行われていない。) ただ、一人一段落を順番に音読し、最初の段落に戻って一行ずつ感想を述べ合うだけだ。

集まって人たちの中には、ドイツ語ができる人もいたし、フランス語やイタリア語、ラテン語に詳しい人もいた。私は唯一日本語ができる参加者として、柳瀬尚紀氏の名訳の文庫版を片手に、文を日本語訳したらどうなるかを英語で他の参加者に説明する役目を担っていた。

この読書会のためだけにバンクーバーに移住する価値があると思う。なにせ、この会はジョイスがウェイクの執筆にかけた歳月と同じだけ続く予定だからである。つまり、少なくとも17年間は続く。

また、ジョイスの作品ほど、「社会的に弱い立場にある時こそ、遊び心がなければ生き残れない」と思っている人にふさわしい作品も少ないだろう。よく、労働者や社会的弱者は、自分たちの姿をリアルに描いて「くれる」作品を必要としている、などと考える人もいるようだ。しかし、これは間違っていると思う。うんざりするような俗っぽい空気を現実世界で吸わされ続けた後で、なぜ文学においても同じ空気を吸わなければならないのだろうか。それこそ「言葉遊びなどは生活の心配のない階級の人間が暇だからやっている無駄な遊び」という偏見を助長してしまうだろう。

ウェイク読書会のメンバーたちのほとんどは、語学の塾教師や家庭教師、あるいは古本屋の店員や深夜シフトで働くメカニックである。ようするに、かれらは労働者であり、裕福層に入ってはおらず、社会的弱者である。この集まりに生活保護受給者やホームレスなどが混ざってきても全く違和感はない。もちろん、やけくそな人物はお断りだろう―たとえば、ジョイスに全く興味がないのに、ワインが無料で飲めるからというだけで、なりふりかまわず入り込んでくる人などだ。そういう人の振る舞いは、しかし、むしろ裕福層の人々の方に顕著にみられるのではないだろうか。富を守るためには、様々な大義名分を掲げつつ、したたかに他の人たちの所有物を「無料で」奪っていく必要があるからだ。高級料亭で幹部会議を行い、飲食代を「経費」で落とす大人たちと、読書会にワイン目当てで割り込んでくるホームレスと、やっていることは本質的に同じなのだから。

読書会の会場は、中心メンバーの家の一室である。どの家も、とても狭い。そして、ボロ屋だ。猫の毛のにおいがする家もあれば、狭すぎて歩き回れない家もある。大家さんが住む大きな家の庭に建てられたはなれを借りている中心メンバーのカップルもいる。

しかし、こうした一見貧相なセッティングは、読書に集中するためにはかえってありがたい。ブルジョア的な快楽や気遣いなどは、読書の邪魔だ。

私は日本に戻ってきてから、新しい住まいの近所にある大学の学生に助けられつつ、一つだけ読書会を立ち上げた。ただし、そこに集まったメンバーたちからは、残念ながら、バンクーバーのウェイク読書会のメンバーから感じられたような真剣さは感じられなかった。具体的には、日本での読書会のメンバーたちからは、テキストへの純粋な興味が感じられなかったのだ。「この部分の意味はなんだろう」という問いを発しても、ありきたりな答えへとこの問いは吸い込まれてしまう。立ち止まって発想を巡らしてはいけないのだ、とでもいうような、早足で。

二つの読書会の本質的な違いはなんだったのだろうか。学生は勉強が仕事だから、大学での読書に加えてさらに読書会に参加する元気などないのだ、という意見はあるかもしれない。しかし、私もバンクーバーにいるときは学生だった。大学で課されるテキストの量も尋常ではなかった。それでも、ウェイク読書会の前には、これに備えて必ず予習をしたものだ。ましてや、他のメンバーたちはさらに厳しい環境で働いて食いつないでいる人たちである。時間のなさなど、さえない言い訳でしかない。

この違いを考えるためには、冒頭で引用した文章の中で多和田さんが紹介している言葉が参考になる―「自分は失業して今大変なのだ、言葉で遊んでいる暇などないのだ」。日本での読書会のメンバーたちは、自分にある役目を課し、その役目を全うするために必要なことはするが、その役目と直接関係のないことには熱中しない、という姿勢を少なからずとっていた気がする。対して、ウェイク読書会のメンバーたちは、個人としての自分に執着しない。つまり、社会的な役割は忘れて、テキスト優先でものを考えるという暗黙の了解がそこにはあった。

誤解のないように付記しておくと、私は日本での読書会での失敗が、日本の学生文化のせいである、と言っているわけではない。バンクーバーにいるときにも、有志で哲学の読書会をしたことがあるが、4ヶ月の読書会を3度行い、全て結局私を含めた2~3人を除いては誰も続けて参加してくれなかった。毎週、2時間ほどの集まりのあとは、近くのパブでビールを飲みつつ対話を継続するのが慣習だったが、このビール目当てにやってくる困った人も何人かいた。(しかし、何時間にも及ぶ哲学談義に耐えてまで数杯のビールを飲むのは損だと判断したのか、かれらは皆、再度現れることはなかったが。)

読書とは娯楽である、だから努力して謙虚に取り組むものではない、などと考える人もいるようだが、以上のような色々な読書会をみてきて思うのは、読書とはむしろ意識的な努力を要求するものだということだ。しかし、努力を要するといっても、それは労働の場合のような、あらかじめ決まった目的を達成するための努力ではない。自分ではなくまずテキストを中心に考える努力だが、考えた結果何か利益が生まれたか、とか、役に立つ能力を手に入れることができたか、とかいうことは問題にならない。ただ、テキストに真剣に向き合うだけである。しかし、これが思いのほか難しいらしい。

ウェイク読書会の参加者は社会的弱者だが、それはあくまで経済的な意味での「弱者」である。ジョイスのテキストについていくことができている、という点では、むしろ強者であると私は思う。多和田さんは、同じ本の18ページで、「日本でも「勝ち組、負け組」という子供言葉を使ってブルジョアジーになれたかなれなかったかを問題にすることが最近流行ったそうですね」と2007年に書いている。図書館と数名の友人さえいれば、誰でも読書はできる。その意味で、読書には、勝ち負けはあるかもしれないが、勝ち「組」や負け「組」は存在しない。読んだが勝ちなのだから。

Monday, 9 February 2015

哲学翻訳における正確さとは

長谷川宏氏と中山元氏は、「先生」と呼びたくなってしまうような、私個人にとっては師のような翻訳者である。「先生」という呼び方には、どこか馴れ馴れしいところがあるので、長谷川氏、中山氏、と書くが、それにしても、この二名の翻訳作品は、群を抜いて活き活きとしている。

ある文体が優れているか否かは、論理的、道徳的、あるいは政治的に決定できることではない。それはただ感性によって審美的に決定される。つまり、文体の優劣はただその美しさによって決まる。そして、美しさとは、純粋に表面的なものである。美は、感性によって受け取られる様々な印象の表面に宿る。

最近、中山氏の『純粋理性批判』和訳を改めて読み直したが、とにかく文章が流れるようで美しい。哲学の文体の優劣を決める要素の一つに、この「流れ」があると思う。つまり、言葉のゴツゴツとした感じに立ち止まりすぎずにいかに考えを進められるか、ということである。

中山氏の訳文の流れは、カントの文章とは思えないほど滑らかだ。例えば、第2巻の冒頭部。

わたしたちの認識は、心のうちにある二つの源泉から生まれる。第一の源泉は、心のうちで像を思い描く[直観する]能力である(これは印象を受容する能力、すなわち受容性である)。第二の源泉は、心に思い描いた像から、対象を認識する能力である(これは概念の自発性である)。第一の能力によってわたしたちに対象が与えられ、第二の能力によってこの対象が、心の中に描かれた像(すなわち心のうちのたんなる規定)との関係において思考されるのである。このように直観と概念が、わたしたちのすべての認識を構成する要素である。このため何らかの方法でそれに対応する直観をもたない概念だけでも、概念のない直感だけでも、認識を作りだすことはできない。

ところで直観も概念も、純粋なものであるか経験的なものであるかのどちらかである。像のうちに感覚を含むものは経験的なものとよばれ、感覚が混在しないものは純粋なものと呼ばれる(感覚が存在するということは、対象が実際に存在していることを想定するものである)。ここで感覚を、感覚器官による認識の<素材>と呼ぶことができる。だから純粋な直観は、何かを直観するために必要な<形式>だけを含むのであり、純粋な概念は、対象一般を思考するための<形式>だけを含む。アプリオリに可能であるのは、純粋な直観か純粋な概念だけである。これにたいして経験的な直観や経験的な概念は、アポステリオリにだけ可能である。 (17-18項、強調点は下線で代替した)

カントの原文はこちら。

Unsere Erkenntnis entspringt aus zwei Grundquellen des Gemüts, deren die erste ist, die Vorstellungen zu empfangen (die Rezeptivität der Eindrücke), die zweite das Vermögen, durch diese Vorstellungen einen Gegenstand zu erkennen (Spontaneität der Begriffe); durch die erstere wird uns ein Gegenstand gegeben, durch die zweite wird dieser im Verhältnis auf jene Vorstellung (als bloße Bestimmung des Gemüts) gedacht. Anschauung und Begriffe machen also die Elemente aller unserer Erkenntnis aus, so daß weder Begriffe, ohne ihnen auf einige Art korrespondierende Anschauung, noch Anschauung ohne Begriffe, ein Erkenntnis abgeben können. Beide sind entweder rein, oder empirisch. Empirisch, wenn Empfindung (die die wirkliche Gegenwart des Gegenstandes voraussetzt) darin enthalten ist: rein aber, wenn der Vorstellung keine Empfindung beigemischt ist. Man kann die letztere die Materie der sinnlichen Erkenntnis nennen. Daher enthält reine Anschauung lediglich die Form, unter welcher etwas angeschaut wird, und reiner Begriff allein die Form des Denkens eines Gegenstandes überhaupt. Nur allein reine Anschauungen oder Begriffe sind a priori möglich, empirische nur a posteriori.

さらに、ケンブリッジ版の英語訳はこちら。

Our cognition arises from two fundamental sources in the mind, the first of which is the reception of representations (the receptivity of impressions), the second the faculty for cognizing an object by means of these representations (spontaneity of concepts); through the former an object is given to us, through the latter it is thought in relation to that representation (as a mere determination of the mind). Intuition and concepts therefore constitute the elements of all our cognition, so that neither concepts without intuition corresponding to them in some way nor intuition without concepts can yield a cognition. Both are either pure or empirical. Empirical, if sensation (which presupposes the actual presence of the object) is contained therein; but pure if no sensation is mixed into the representation. One can call the latter the matter of sensible cognition. Thus pure intuition contains merely the form under which something is intuited, and pure concept only the form of thinking of an object in general. Only pure intuitions or concepts alone are possible a priori, empirical ones only a posteriori. (A50-51/B74-75)
ケンブリッジ版は逐語訳調であることで有名で、英米のカント学者たちの間ではこれを使用するのが常識となっている。改めて原文と英文とを見比べてみると、たしかにかなり逐語訳であることがわかる。

学者向けに訳すのならば、逐語訳の方が喜ばれるのは当然である。ドイツ語は読めないがカントはおさえておきたい、と考えている哲学者にとって、ドイツ語原文の語感を少しでも追体験することは非常に大切であり、意味不明にならなければ、読みづらくても逐語訳されている文章を読みたいだろう。

対して、一般読者にとっては、読みやすさも大切である。そればかりか、紛らわしい言葉遣いが多すぎると、議論の全体像が掴めなくなり、あるいは何か大変な誤解をしたまま読み進めてしまう可能性もある。こうした危険を回避するためには、流れるような文章が要求される。

中山氏の和訳は正にそのような流れる文章である。原文と見比べてみても、原文の意味を損ねない範囲で中山氏は自由に文章を編集しつつ和訳しているのがわかる。さらに、細かいところだが、例えば「経験的」ではなく「経験的な」というように「な」をつけたり、「もの」という単語をうまく駆使して文の流れをより滑らかにする、というような工夫が随所にみてとれる。これは大いに参考になる。

さて、こうして二つの翻訳を読み比べてみると、果たしてケンブリッジ版の方が中山版よりも本当に「正確」なのかという疑問が湧いてくる。一見すると、逐語訳の方が正確な翻訳であるのは当然のようにも思える。しかし、翻訳の正確さというのは、語数や語順、辞書的な単語や言い回しの訳の頻度によってのみ計れるものなのだろうか。

そもそも、そうした尺度を用いること自体が間違っているとしたらどうだろうか。 つまり、正確さとこれらの尺度との間には、本質的なつながりがなかったとしたら。

この問題を考えるためには、そもそも翻訳とは何のためにされるのか、という原点に立ち返る必要がある。翻訳とは、まずもって原文が読めない人のためにされるのである。つまり、原文が表現しようとしていることを、原文が読めない人へと伝えるのが翻訳文の役目である。

だとするならば、翻訳の「正確さ」は、原文が表現しようとしていることをどれだけ表現できているか、という点で計るべきだろう。すると、これは語数や語順などといった統計的な尺度によってではなく、もっと感性的な、審美的な判断によって決定されることになる。別な言い方をすれば、原文に「忠実な」訳文でも、読者がそれを読んでそれが表現しようとしていることを誤解したり、あるいはそもそも理解できなかったならば、それは訳文としては全く駄目なのである。

すると、正確な文には高い程度の読みやすさが求められることになる。つまり、読みやすい=内容が伝わりやすい、という意味であれば、翻訳文は原文の語数、語順、語彙選択などをそのまま写し取るべきではなく、原文のいわんとすることがわかりやすく伝わる文とならなければならない。

逐語訳は、原文の語彙や語順などをどう入れ替えるべきか、どう工夫して編集すべきかといった問いと向き合う必要がない。そのため、ある意味非常にラクである。ただし、逐語訳された作品は、往々にして非常に読みにくく、生粋の学者肌の読者ならばそれでも良いのだろうが、一般教養として哲学を読もうとする読者にとっては全く不親切なものなのである。むしろ、逐語訳というのは翻訳者の手抜きの言い訳に使われていはしまいか、などとすら思ってしまう。

対して、中山氏がつくるような訳文は、前述した問題と常に向き合い続けた結果生み出されるものなので、翻訳者にとっては大変な挑戦である。特に、意訳が行き過ぎた結果、原文の議論が捻じ曲げられてしまう危険があるが、訳者は常にこのリスクを念頭において慎重に編集をしていかなければいけない。他方で、逐語訳に「逃げる」誘惑とも戦い続け、常に翻訳語のほうでより自然に響くような言い回しを探し続けなければいけない。

こうしたギリギリの線をあえて貫こうとする中山氏のような翻訳者は、残念ながら日本の哲学翻訳の世界においてはまだまだ少数派である。それでも、中山氏のような存在が近年広く読まれ始めていることは、一読者として、非常に嬉しい。「読みやすさ」というような審美的な尺度が、哲学翻訳文の正確さを計る上での中心的尺度として通用するようになってほしいと思う。

Thursday, 5 February 2015

The Unfreedom of Suicide - A Hegelian Argument

I possess the members of my body, my life, only so long as I will to possess them. An animal cannot maim or destroy itself, but a human being can.

In so far as the body is an immediate existent, it is not in conformity with spirit. If it is to be the willing organ and soul-endowed instrument of spirit, it must first be taken into possession by spirit. But from the point of view of others, I am in essence a free entity in my body while my possession of it is still immediate.

But may a human take his own life? Suicide may at a first glance be regarded as an act of courage, but only the false courage of tailors and servant girls. Or again it may be looked upon as a misfortune, since it is inward distraction which leads to it. But the fundamental question is: Have I a right to take my life? The answer will be that I, as this individual, am not master of my life, because life, as the comprehensive totality of my activity, is nothing external to personality, which itself is immediately this personality. Thus when a person is said to have a right over his life, the words are a contradiction, because they mean that a person has a right over himself. But he has no such right, since he does not stand over himself and he cannot pass judgement on himself. When Hercules destroyed himself by fire and when Brutus fell on his sword, this was the conduct of a hero against his personality. But as for the simple right to suicide, this may be denied even to heroes.

Suicide is not rightful, because a body is not a property. A body is not a property, because it is the real existence of personality, and personality, as the real existence of free will, cannot become dependent upon something other than itself. This is Hegel's argument against the right to suicide in a nutshell.

There are two key premises in this argument: 1) Personality is the real existence of free will. 2) The body is the real existence of personality. Let us consider their meaning one at a time.

First, personality is the real existence of free will. Free will is the will that is free. To be free, in its most abstract, is to not depend upon other things, i.e. to be independent. This means that a desire is not a free will, since the former is a desire of something, and is thus bound to this something. In so far as the immediate relation between nature and freedom is concerned, the will is not free, for it is related to something external to itself, namely nature. The will becomes free when it related only to something that is not external to itself. This only means that the free will relates to itself. Therefore, the free will is the will that will freedom. It is this self-relating will which Hegel names "personality." Personality is real in the sense that it is consistent. Whereas non-personal forms of the will, such as desire, impulse, inclination, and so on, are concerned, they cannot qualify as the real existence of the free will, for they all contain an element of unfreedom.

Secondly, the body is the real existence of personality. Personality is the will that relates to itself, free will. This self-relation had a negative moment, namely the negation of external nature. In so far as the will is to be free will, it must necessarily stand in a negative relation to nature. This negative relation is at first abstract, for personality as such negates nature as a whole without distinction. In a Kierkegaardian manner, Hegel here argues that this negation, precisely because it is a negation of all nature, fails to negate anything, or rather, the will fails to exist concretely because it does not have a determination. It is simple negativity. But the will also is a negation of this or that external nature, for nature as such contains determination. In order to negate determinate nature, therefore, the will must itself be determinate. But personality as such lacks determination; hence, personality must become corporeal through the body. The body is personality in its particular, determinate existence. The body endowed with spirit, or the free body, carries out the determinate negation of nature that is required but not realized by the concept of the free will. In this sense, the body is the real existence of personality. A mere body, which is not penetrated by the free will, is not the real existence of personality, since it does not carry the purpose of negating natural things in their naturalness.

Based on these two premises, Hegel interprets suicide as the act of alienating my own body as if it were my private property. Hegel does not say much as to why suicide should come under the sub-section of alienation of property, but I think that this gap can be filled in the following manner. The act of suicide, in so far as it is a free act, requires two things to exist, namely the free will and the object of this will. The term "suicide" suggests that the will kills not an external other but itself, sui. However, in suicide, the agent does not literally believe that he or she is killing him or her self. Rather, the agent believes that the killer and the killed are distinct, and that by destroying him or her own body, he or she (i.e. the pure personality) is relieving him or her self of the problems associated with his or her bodily existence. In this sense, the suicidal agent is treating his or her own body as a thing, a property. Hence, the act of suicide is the act of alienating one's own body, or to voluntarily give up possessing it.

Suicide is not rightful because it is based on a false understanding of what it is actually doing. The suicidal agent believes two things. First, that the body is a property at his or her disposal. Second, that the act of suicide is a free act. The first point is false, because the body is ultimately the real existence of the agent's own free will, and so is not a property. The falsity of the second point follows from the falsity of the first point, for if the body is the real existence of the free will, then to will to destroy the body means to will to not will, which is tantamount to saying that the agent wills unfreedom. But free will is the will which wills to will. Therefore, the will to not will, i.e. the act of suicide, is not an act grounded in or following from the free will. Since suicide is not an act of free will, it is not the objective existence of the free will; hence, it is not rightful, since right is the objective existence of the free will.

The Hegelian argument against the right to commit suicide is based on the claim that suicide is not an act following from the free will. This is an interesting strategy. Usually, when confronted with the question "Is committing suicide rightful, moral, or justifiable?" one tends to think of the reasons for and against the act of committing suicide. However, by starting to think in this way, one already assumes that suicide is a free act. If suicide is not a free act, then there is no longer the question of its rightfulness, morality, justice, etc., for these questions only make sense for acts which are grounded in the free will. The above question assumes the freedom of suicide without proof, and it is this assumption that the Hegelian argument attacks.

Sunday, 1 February 2015

ISIL事件―いい加減なブログ記事と、冷静な新聞・雑誌記事

ISILによって日本人二名が殺害された。この事件について読み、まず思い浮かべたのが、13年前の小泉首相のときに起きたイラク日本人人質事件だ。今回、後藤さんも、「自己責任です」と述べていた。

この事件に対しては色々な人がブログ記事を書いており、ニュース記事を検索しようとするとブログ記事ばかり出てきてしまう。これほど素早く執筆されてしまうブログ記事は(これも含めて)個人的なリアクションにすぎない場合が多い。それなので、今回の事件が一体どんな事件だったのかを理解するための助けにはほとんどならない。

それでも、このような事件が起きたときに、ブロガーの人たちがどういう反応をするのか、それを観察するための資料にはなる。そして、かれらの多くは(例えば、BLOGOSのトップ記事に名を連ねる人たちは)実にいい加減なことを、それがさも事実であるかのように述べている。

例えば、この記事は次のような調子だ。

「私たちはこれまで中東に対して無関心すぎた。」「何故、ISILだけでなく多くのムスリムがアメリカを敵視しているのか。何人の日本人が答えられるだろうか?」「まず、私たちに出来ることは、中東情勢をよく知ることだ。」「イスラーム世界を異質なものとして忌避するのではなく、理解をすることからすべては始まると思う。」「日本人は海外においてあまりに無防備だ。」「残念なことだが日本だけ「われ関せず」、という立場を貫き続けることはもはや不可能になった。」
書き手個人の無知が、「日本人」の無知とすり替えられている。そして、あたかもこれまで日本が中東に「我関せず」の態度をとってきたかのようにも書いている。すでに小泉政権時代から、中東と日本との関係は続いてきたにも関わらずだ。また、「多くのムスリムがアメリカを敵視している」という言い方も単純すぎる。

これは一例にすぎず、このような調子で、いい加減な質問や意見が並ぶ記事は多い。
 
他方で、役に立つ記事もたくさんある。新聞や一部のオンライン雑誌などは、歴史的事実を色々と教えてくれる上、実在するムスリムの声も取り上げている。例えば、毎日新聞の記事には、「彼らはイスラム教徒ではなくテロリスト。彼らの行動によって、これまでイスラム教徒が日本国内で積み上げてきた日本人との友好的な関係が崩れてしまいかねない」という教徒学生の声を紹介している。あるいは、LITERAの記事には、「いま問題とされるイスラム過激派組織の“生みの親”“育ての親”は、実はアメリカだったというわけだ」という説を、史実を紹介しつつ展開している。

何年か前に、中東の政治について大学で討論を行ったことがある。そのときは、1990年8月のフセインによるクウェート侵攻へとさかのぼり、そこからイラク戦争までの流れを読んだ。討論の際には、「We」を主語にして自分の意見を述べる学生と、「I」や「They」を主語にして述べる人とが対照を成した。We派の人たちの意見は、それを聴いてしまっただけでそれに自動的に自分も賛成しているかのような錯覚を起こさせる。ブログ記事の場合も、「私たち」「日本」「日本人」といった言葉が主語になっていると、同じような錯覚が読み手の精神に起きる。