Thursday, 17 April 2014

『法権利の哲学』を読むにあたって・2

前回からのつづきです。今回は、政治哲学とは何か、ということを説明します。

「政治哲学」って何?
 簡単にいうと、政治哲学というのは、政治関連の概念を言葉で表現する学問です。

それって、政治科学や社会学とはどう違うの?
 これは難しい問いですね。前回にも述べましたが、一つ違いを挙げるとすれば、政治科学はある概念の一部分のみに注目するのに対して、政治哲学はその概念の全体に興味がある、という点でしょうか。例えば、「国家」という概念は、政治科学では科学者のもっているねらいによって色々な風にとらえられていますが、政治哲学ではそれ自体として扱われます。もっと具体的にいうと、例えば政治科学ではよく、「国家とは立法、司法、そして徴税と予算編成、さらに軍隊の保持の権利をもつ機関である」という定義が出てきます。そして、これで事足りることが多いです。対して、政治哲学では、その中で出てくる色々な考察が全てそのまま「国家」の概念の定義の一部となります。なぜこうした権利が国家にあるのか、また国家とはそもそも何なのか、それはどのようにして生じるのか... こうした問いを全て勘定に入れるのが政治哲学なのです。

じゃあ、早速訊くけど、国家ってそもそもなんなの?
率直な良い質問ですね。国家とは、政治哲学の中で最も重要な、最高峰の概念を指します。国家は、人間の精神の一部です。精神の本質は自由であることなので、国家は必然的に、自由の概念の一部分、あるいは一段階となります。

ちょっと待って。「精神の本質は自由であること」っていう意味がわからなかった。
少々ざっくばらんな言い方が過ぎたようですね。説明します。哲学では、ありとあらゆるものごとが三つのものへと区分けされます。「論理的なものごと」「自然なものごと」そして「精神的なものごと」です。この中で、「論理的なものごと」とは、例えば「対立」「区別」「可能性」「因果関係」などです。こうしたものごとは、時空間に直接あらわれるわけでもありませんし、生まれたり死んだりするわけでもありません。非常に抽象的で、それ自体としてはあまり内容もないのですが、その他すべてのものごとが存在するためには欠かせないものごとでもあるのです―実際、「存在」と「不在」も、論理的なものごとですから。次に、「自然」とは、時空間の中でスッチャカメッチャカに存在するものごとです。最後に、「精神」とは、自然の中に論理的なものごとが溶け込んだ結果生まれます。なので、精神とはある意味自然よりも抽象的ですが、また別の意味で、自然よりもさらに現実的で具体的でもあるのです。これ以上詳しいことは、ここでは言えません。論理学や自然哲学や精神哲学の本を読んでみましょう。

さて、あらゆるものごとの中でも最も現実的なものが精神なのですが、精神は自然の支離滅裂な活動に逆らって、安定する傾向があります。簡単にいうと、自然ではとっくに消えてなくなっているものを、精神は自分の中に持ち続け、それがゆえに安定して一つの個で有り続けるのです。例えば、「音」は自然現象ですが、これが「音楽」になるためには、単音では消えてなくなってしまうはずの音を記憶し続け、一つの作品へと統一していく精神が必要となります。あるいは、「色」が「言葉」になったり、「もの」が「道具」になったりするためにも、同じようなことが必要です。自然界では消えてなくなってしまうことを自分の中に保存し、自分の思うような形へと統一していく―そんな働きをもつものこそ精神なのです。こうして、自然界ではなすがままにされているものごとを自分の思うとおりに組み替えているからこそ、精神は自由であるといえるのです。

なるほど。ところで、これと政治哲学とはどういう関係があるの?
 政治哲学は、正確には「法権利の哲学」といって、精神の客観的な自由を追究する学問です。精神は、始めは主観的に、つまり自分の中に閉じこもって、あれこれ思いを巡らし、行動をしているにすぎません。これが精神の主観的な自由です。しかし、他の精神との結びつきのなかで、あるいは自然との結びつきのなかでなおも自分の考えを維持しようとするとき、精神は他者を相手にせねばなりません。こうして他者を相手にしつつ自由であるとき、精神は客観的に自由であるといえるのです。法権利とは、他者を規制したり、他者に何かを求めたりする様々な形式のことです。これを研究することで、精神が客観的に自由であるとはどういうことなのかがわかってきます。

そうなんだね。それで、法権利の哲学って何を扱うの?
 すでに述べたように、自由の概念を相手にしますが、あくまで「客観的な自由」、つまり精神が他の精神や自然と関わる中での自由に焦点を絞ります。はじめは、客観的な自由がとりうる最も初歩的で単純な段階、つまり「私的所有」という形式から始まり、最終的には「国家」という複雑極まりない究極の形式まで考えを進めます。

なんか、すでに僕らが知ってることをこねくりまわしているだけみたいな学問だね。
 そうともいえますが、そうではない面もあります。たしかに、「私的所有」や「国家」なんていうのは、私たちが日常的に理解して使っている考えです。しかし、例えば「私的所有」と「国家」とのつながりを、はたして私たちはうまく説明できるでしょうか。あるいは、「会社」や「警察」や「貧困層」など、こうした考えの相互の関係を言葉で表現できるでしょうか。恐らく、無理だと思います。あるいは、いくつかの考えの間のつながりならば説明できるけど、全てをつなげるのは無理、という人もいるかと思います。こうしたつながりは、法権利の哲学を通して初めて学ぶことができるものなのです。そして、こうしたつながりが理解できれば、「国家」等の考え自体も影響を受けて豊かになるはずです。

 へえ。とにかく、まずは実際に『法権利の哲学』を読んでみたいね。
 全く同感です。早速読みましょうか。

(おしまい)

Wednesday, 16 April 2014

『法権利の哲学』を読むにあたって・1

『法権利の哲学』を読むにあたって、おさえておきたいことが二つあります。一つ目は、そもそも哲学とはどういう学問なのか。二つ目は、哲学の中でも、「政治哲学」とはどういう学問なのか。 後者の問題は、「政治哲学の位置づけ」と、「政治哲学の主題」とに分かれます。こうして、都合三つの問題があるわけですが、順番におさえていきたいと思います。まずは、「哲学とは何か」という問題から。

哲学ってどんな学問なの?
哲学とは、色々な概念を深める学問です。

...「概念を深める」!? どういう意味?
概念というのは、あるまとまりをもった思考のことです。例えば、「自由の概念」は、自由についての色々な思考をひとまとまりにしたものです。概念にはもっとも単純な段階があります。そこへ色々なことが加わることで、概念はより複雑な、豊かなものへと深まってゆきます。例えば「自由の概念」ならば、「自分のやりたいことをやるのが自由だ」という考えはまだまだ単純で下位のものです。対して、「普遍的な義務を遂行することこそ自由だ」という考えの方が複雑で豊かです。ここで注意したいのは、ある概念を深めていくときに、いきなり高い段階から考え始めることはできないということです。必ず一番低い段階から始め、そこに論理的に色々なことを付け足してゆくべきです。

論理的に、ってどういうこと?
ここが一番難しいところですね。哲学の中での議論の大半は、はたしてある深め方が本当に論理的なのかどうかという点に集中します。例えば、ある概念の最も単純な段階として誰かが提示した考えが、本当に最も単純なのか、という問題があります。さらに、上の段階に行くときにどういう手順を踏んだのかも問題になります。

それでも、概念を論理的に深める方法はおおまかに三種類あるといえます。一つ目は、ある公理を定め、その公理から矛盾なく定理を導く方法。これは数学でよく使われます。例えば、ユークリッドの公理からは、三角形の定義や、合同条件などが矛盾なく導けるようになっています。こういう論理を「演繹論法」と呼びます。二つ目は、色々なものごとを観察して、観察結果と矛盾しない考えを言い、うまくまとめていく方法です。例えば、水が100度に達すると水蒸気に変化する、という考えは、観察と温度の単位のシステムとによって支えられています。この方法は「帰納法」といいます。最後に、弁証法といって、ある考えがもつ二つの側面を比べ、そこから三つ目の新しい考えを導く方法があります。例えば、「有」という考えは、「純粋に有る」という考えですが、そこにはただ「有」が有るだけなので、逆にいえば「何も無い」ともいえます。「有」と「無」とが一つの概念の二側面を成しているのであり、これによって三つ目の概念、この場合は「成り立ち」という概念がみえてきます。

弁証法ってなんか胡散臭い。そもそも、概念なんて観察できないのになんで「概念の側面」なんていうものがわかるの?
これも、哲学が宿命的にもつ問題ですね。ただし、注意したいのは、数学や科学における概念も、日常的に私たちが真実として受け入れている考えも、五感では感じ取れず、観察の対象にもならない、という点です。それでも、私たちは思考によってこうした概念をとらえ、それについて色々と判断しています。

じゃあ、そうやって毎日私たちがやっていることと、弁証法って、どう違うの?
扱っている対象だけでいえば、実は両者共に同じです。ただし、対象に向かうときのねらいが大きく違います。日常生活や、ある特定の学問分野においては、私たちはそのときに自分が偶然もっている、あるいはその分野がたまたまもっているねらいに則して、都合の良い部分だけを取りだして色々な概念を論じています。例えば、不満がつのる日常生活からの脱却を図りたいと考えている人ならば、「自由の概念」のうち、そうした脱却感を与えてくれそうな部分だけに気持ちを集中させるでしょう。また、社会学者ならば、「政治」という概念の中で、社会機関に関連した部分に集中し、政治と自然、あるいは論理とのつながりについてはあまり考えないかもしれません。対して、弁証法を使って哲学をするときは、ある概念についていえることを全て言い切るのがねらいとなります。そのため、弁証法では、自分やある学問分野のもっているねらいを一回忘れて、概念それ自体に集中し、概念の最も単純で基本的な段階をできるだけはっきりと思い浮かべる必要があるのです。

でも、「概念の最も基本的な段階」なんて、人によって違うんじゃない?
ただ思い浮かべるだけならば、人によって違うものが思い浮かぶでしょう。しかし、だからこそ哲学は学問として必要なのです。つまり、「私はこれこれこういう理由で、これがこの概念の出発点だと思う」と誰かが言ったとして、それに対して他の人が批判をどんどんしていくべきなのです。そして、批判をされたほうは、その批判がどんなに馬鹿馬鹿しいものに感じられたとしても、丁寧にそれに応じる義務があるのです。そうした批判を看破している限りにおいて、その人の思い浮かべた出発点は正しいものとして受け入れられますし、的を得た批判があれば、それを考慮に入れて新しい出発点を提示しなければならないのです。

なんだか、自分で考えるよりも、人の考えを批判しているほうがよっぽど楽そうだね。
そうでもありません。というのも、哲学においては、否定は必ずまた肯定も暗に含んでいるからです。つまり、どこでもない立場から他の立場へ批判を浴びせることなどできないのです。批判があるということは、批判をしている側にもある代案があるということです。なので、批判をする側は、自分の持っている代案を意識すべきですし、それも包み隠さず提示すべきなのです。代案が提示できない人には、批判をする資格がないのです。

なるほど。ちなみに、概念のより高い段階に進むってどういうことなの?
弁証法は、ある概念の単純な段階から複雑な段階へと進みます。 そのときに、各段階には必ず二つの側面、肯定と否定の側面があります。例えば、「自由とは、自分のやりたいことをすることである」という考えには、肯定が当然含まれていますが、否定も含まれています―つまり、「他人のやりたいこと(=自分のやりたくないこと)をするのは自由ではない」という否定です。この例の場合、ここである矛盾が生じます。「では、他人のやりたいことをやりたいと自分が思ってやるときはどうなのさ?」 この矛盾を解消するためには、新しい考えを提示しなければなりません。そして、大切なのは、ここで提示される新しい考えには、「この矛盾を解消する」こと以外のねらいがあってはいけないのです。こうして、必要最低限の変更を加えた上で、新しい自由の概念を再び提示すればよいのです。これが、弁証法によって思考を進める上での基本的な手順となります。

また、新しい考えは、それ以前の考えの持っている矛盾を解決しているので、その概念の中では、実は一番根っこのところにある考えとなります。弁証法では、思考を進めるうえでは単純な考えから複雑な考えへ、という方向で進みますが、その結果みえてくる概念の中でのそれぞれの考えの優先順位は、一番最後にみえた考えが一番高いのです。

わかったような、わからないような... なんにせよ、抽象的だなあ。
まあ、そうですよね。とにかく、弁証法によって概念を深めるのが哲学なんだな、と思ってもらえれば、とりあえずは良いです。次は「政治哲学」について、もう少し具体的な話をするので、今回書いたことももっとそのときにわかりやすくなるかと思います。
(つづく)