Friday, 23 November 2012

日本語の不満

言葉で何か表現するとき、私が狙いとしていることはいつも、それを表現する自分が満足を得ることだ。私が満足しても他の読み手には不満が残るかもしれないが、少なくとも、私が満足できないうちは他者に読んでもらおうなどとすら思えない。これは自然なことだ。

昨今、つまらない本が増えている背景には、著者が満足できていない、という現実があるのではないかと私は推測している。「この文章、私はつまらないと思うけど、きっと普通の人はこれくらいが良いのよね」という具合に、「普通の人」のような架空の読み手に向けて当てずっぽうに書く著者が多いのではないか。特に学術書に、こういう傾向は顕著だと思う。「私はこんな文章、書きたくもないし読みたくもないけど、学問ではそういうことになっているから、こう書く」という風に、今度は「学問」という、「神」に近いような概念を持ち出してきて、自分のスタイルを意図的に狭めてしまう。

そうやって架空の何かに向けて書くよりも、とにかく自分のために書くほうが健康にも良いし、書いていて楽しい。

さて、自分の満足のためだけに書く、というと、一見社会や歴史、時代の風潮などとは全く関係ないように思える。実際、私もそう思っていたし、それが理由で、今までは何かと自分の書く文章を素直に信頼することができなかった。しかし、最近ヘーゲルの『美学講義』の英語訳を読んでいて、次のような表現に出会い、考えが変わった。

[I]t is certainly the case that art no longer affords that satisfaction of spiritual needs which earlier ages and nations sought in it, and found in it alone, a satisfaction that, at least on the part of religion, was most intimately linked with art. The beautiful days of Greek art, like the golden age of the later Middle Ages, are gone ... In all these respects art, considered in its highest vocation, is and remains for us a thing of the past. Thereby it has lost for us genuine truth and life, and has rather been transferred into our ideas instead of maintaining its earlier necessity in reality and occupying its higher place.

日本語では、長谷川宏が上記の一節を以下のように訳している。

あらためていえば、芸術はもはや精神の欲求を満たすものではなくなっています。以前の時代と民族が、芸術のうちに求め、見出していた満足―少なくとも宗教の側がこの上なく頼りにしていた芸術上の満足が、いまや物足りなく思われる。ギリシア芸術の美しい日々や、中世後期の黄金時代はすぎさったのです。(中略)芸術の最盛期はわたしたちにとって過去のものとなったといわねばならない。芸術は、わたしたちにとって、もはや純正な真理と生命力をもたず、かつてそうであったように、現実にその必要性が納得されて、高い地位を占めることはもはやなく、むしろわたしたちの観念のうちに生きるといえる。

「満足」というのは英語では「satisfaction」と「enjoyment」の二語が対応している。これらはキーワードだと思う。満足するというのは、それ以上求めないということだ。ヘーゲルのいわんとすることはつまり、ギリシアや中世後期では芸術によって何かが示されればそれでことが済んだのだが、現代においては芸術的に表現されたものをさらに深く突き詰める、あるいは問いただす欲求が自然に生まれてくるかのようだ、ということ。 

そういう欲求の深さの違いは、社会的になんとなく決められてもいるのだろうけど、まずもって個人がそう感じるから社会にも浸透しているわけで、その意味で「自分の満足」の尺度が、そのまま芸術が提供してくれる満足感を計るための尺度にもなりえるのだと思う。

ヘーゲルはこの後、現代では宗教や哲学によってさらに芸術を解釈して初めて満足を得る、と述べていく。その部分を読んで、日本語と英語とでは私の受け取り方が違った。

日本語で読んだのが最初だったが、そのとき私は、日本語で書かれた数多くの優れた小説や、今も日本を席捲し続けているカラオケ用に作曲されたようなポップ・ミュージックを思い浮かべ、自分を含めて多くの人々が、芸術的な表現に出会うだけで満足しているだろうと思った。他方、後から英語で同じパッセージを読み直したときは、驚くほどすんなりと、Yes, art on its own is indeed unsatisfactory、と思ったのだ。

もう一つの違いが、言葉から伝わってくる感覚的なものの差。日本語で読んだとき、私は意識的に単語や言い回しを頭の中で英訳しなければ、文章を全体として現実的なものに感じるのが難しかった。例えば、「精神の欲求」とか「純正な真理と生命力」というような言葉。他方で、英語ではこれらの言葉に対応するフレーズ―「spiritual needs」「genuine truth and life」―が自然な現実味を持ってすんなりそのまま入ってくる。

なんでまたこういうことになってしまうのか。

思うに、まず第一に、英語では自然な哲学的な視点に、日本語ではまだ私が到達できていないというのが、上述の感覚の違いから明らかになっていると思う。そこからさらに思うに、私個人がたまたまそういう視点にたてていないというより、日本語という言語そのものがまだ哲学的な視点まで高められていないのだと思う。どういうことかというと、日本語で交わされる日常会話や、街でみかける様々な言葉、書籍や新聞などに印刷される活字まで、哲学的な言葉を自然に取り入れてはいないのである。何が「哲学的」なのかと聴かれるとまた長々と説明が必要なので省略するが、要するに日本語はまだ「芸術表現」、もっというと「感覚的な表現」に留まっているのだと思う。五感で感じたものを表す言葉や、感情的になんとなく何かを感じさせるに留まるような表現が、今も日本語の中核を成している。そのため、ヘーゲルのような哲学の言葉を日本語にしようとすると、どうしても浮き足立ってしまい、現実から遊離した、なんとも実感の薄い言葉の連なりとなってしまうのだろう。

第二に、そう考えると、日本語しか知らない自我をもった人々は、ギリシアや中世後期と同じように、芸術によって満足感を得ることができているといえる。それが、私が日本語でヘーゲルを読んだときに感じた疑問の原因なのだと思う。英語に意識を移した途端、哲学的な欲求も高まり、もはや日本の小説やポップ・ミュージックでは満足できず、もっと深いものを求め始めてしまうのだ。それは良い悪いというより、以前にも書いたとおり、英語が哲学の洗礼を受けた言語だから、仕方ないことなのだと思う。

日本語の中だけで完結しているような意識をもった人にとっては、もしかしたら哲学的欲求というものがそもそもわからないのかもしれない。でも、英語やドイツ語など、哲学の洗礼を受けた言語に片足をつっこんでいる人からすると、日本語というのはなんとももどかしい、不満の募る言語なのだ。

だから、何かを日本語で表現したいと思うとき、それは「何か」に重点が置かれているのではなく、「日本語で」というところに力を込めている。日本語で、英語のように、あるいはドイツ語のように、哲学や宗教の深みまである対象を突き詰めていけないか… そういうことなのだ。