ヘーゲルの『論理学』の日本語まとめもいよいよ第三部「概念論」に突入した。「本質論」の最後では「因果律」(causality)が描写されている。はじめは「持続体(substance)が自らの一部として同時に自らの全体でもあるような出来事(accident)を提示する」ことがイコール因果律である。このとき、持続体は原因、出来事は結果だ。しかし、この段階においては、同じ内容のものがあるときは持続体=原因として、またあるときは出来事=結果として提示されるにすぎない。例えば、地球の重力とは、地球の運動である。このとき、地球の重力が原因であり、その結果地球は運動をする。しかし、両者の内容は、まだこの段階では地球の運動というひとつの現象である。こうして、同一の内容をもつ因果律から、ヘーゲルは「現実の因果律」(real causality)が生じる過程を描き、さらにこれが「相互作用」(reciprocal action)にまで発展する道のりを描く。
『論理学』の中には、ときどき、理論の本筋から少しそれた考えが登場することがある。「因果律」の部分でも、ヘーゲルは物体における因果律と、精神におけるそれとの違いについて、脱線をしている。ヘーゲルによれば、精神とは機械的な原因によって機械的に動くことがない。あらゆるものごとは、精神に触れることによって、精神と対立する新たな何かへと生まれ変わる。それは電子のようなものであっても、地球のようなものであっても変わらない。精神と全く無関係でありかつ精神と関係できるようなものは存在しないのである。ヘーゲルにとって、自分の外のものごとを自分の否定あるいは自分と対立する何かへと変容させるのは「有機体」である。この意味で、動植物はすでに精神的な側面をもっている。しかし、動植物は自らの限られた環境を創造するだけなのに対して、精神とは思考の力によって全てを創造する。論理学における「概念」は、哲学全体における「精神」に対応する。人間の精神に限らず、精神的なものが全てもつ仕組み、あるいは特性が「概念論」から読み取れたらよい。
私的なことだが、英語を教えていて思うことは、ある教え方がうまくいっているかどうかは少なくとも1年は続けてみないとわからないということだ。色々な生徒たちと触れて思うに、その場の感情で何かを評価する傾向が老若男女問わず広がっている。例えば、一回の授業でわかりづらい内容に出会うと、今までわかりやすい授業が続いてきた(はず)なのにも関わらず、「先生の授業はわかりづらい」という評価をする、などなど。また、「感情的」という点からは、実際には英語力が格段に伸びているのに、授業では常に難しい内容を扱っているために、「自分はできない」と思い込んでしまう、といった生徒さんもいる。
生徒にある程度の自信を持ち続けてもらうのは理想的だが、大したことのない英語をむやみにほめちぎっても駄目だ。こうした嘘は、短期的にはうまくいくのだが、1年、5年、10年と同じようなことを教師が続けると、自信はあるが英語はできないままとなってしまう可能性がある。難しいところだ。
基本的に、私は学びたくない人は学ばなくて良いと思っている。そのため、自分の英語に自信が持てない生徒さんに自信を持ってもらおうとはあまり思わない。私はただ「これだけできればいいですよ」というラインを示し、それに生徒さんがついてきているかどうかをみるだけである。ついてきていれば次に行くし、厳しそうならば立ち止まって復習に時間をかける。場合によっては、足踏みしている単元はすっとばして次に行くかもしれない。とにかく、生徒さんの「自信」や「やる気」などといった心理的な部分については、生徒さんが各自でコントロールしてくれれば良いと思っている。
これと関連して思うのは、私は教師と生徒との関係はそれほど親密にならなくても良いと思っている。親密な関係は、客観的に生徒の能力を評価するときの妨げにもなりうる。「この人はこんなにも積極的に教師と関わろうとしているのだから、すこし甘くみてしまおうか」ということにもなりかねない。生徒たちの中には、当然、明らかに何か家庭や学校でうまくいっていないとわかる人もいる。いじめや家庭内暴力について私は今年だけでも何回か生徒さん本人から相談を受けている。しかし、そういった生徒さんでも、やはり教師としては距離を保つようにしている。私は英語の教師なのであって、かれらのカウンセラーではない。英語を通して自信をつけてほしいという思いはあるが、それは毎週の課題をこなすことで生徒が自分で勝ち取る感情である。教師のお情けで与えられ、一方的に消費されるような感情は安っぽいし意味がない。
ジョイスは24歳のときに英語の先生としてイタリアで働いた。そのときに、かれの上司であるベルリッツ氏を揶揄して以下のようなことを書き残している。明日職場のパートナーに教えてあげるつもりだ。
"Signor Berlitz is an insatiable sponge. His teachers have had their brains sopped up. And their flesh? We've been crucified on the pole till we're skin and bones. I present myself to my pupils as an example of the giraffe species in order to teach zoology objectively according to the gospel of my master, Signor Berlitz." (James Joyce: A Biography, R. Ellmann, p.216)
ホント、英語の教師とはこんな感じである。
「ベルリッツ氏は底なしのスポンジだ。かれのために働く教師たちは、みな脳みそを吸い取られてしまった。それでは、かれらの肉体の方はどうか? われわれは、骨と皮になるまで鉄の棒に磔にされている。私はキリンの種族の見本として、生徒たちの前に歩み出る。すべてはわが主人ベルリッツ氏の聖典にもとづいて客観的に動物学を教授するためなのだ。」
日本語訳すると、ユーモアも半減するようだ。
生徒にある程度の自信を持ち続けてもらうのは理想的だが、大したことのない英語をむやみにほめちぎっても駄目だ。こうした嘘は、短期的にはうまくいくのだが、1年、5年、10年と同じようなことを教師が続けると、自信はあるが英語はできないままとなってしまう可能性がある。難しいところだ。
基本的に、私は学びたくない人は学ばなくて良いと思っている。そのため、自分の英語に自信が持てない生徒さんに自信を持ってもらおうとはあまり思わない。私はただ「これだけできればいいですよ」というラインを示し、それに生徒さんがついてきているかどうかをみるだけである。ついてきていれば次に行くし、厳しそうならば立ち止まって復習に時間をかける。場合によっては、足踏みしている単元はすっとばして次に行くかもしれない。とにかく、生徒さんの「自信」や「やる気」などといった心理的な部分については、生徒さんが各自でコントロールしてくれれば良いと思っている。
これと関連して思うのは、私は教師と生徒との関係はそれほど親密にならなくても良いと思っている。親密な関係は、客観的に生徒の能力を評価するときの妨げにもなりうる。「この人はこんなにも積極的に教師と関わろうとしているのだから、すこし甘くみてしまおうか」ということにもなりかねない。生徒たちの中には、当然、明らかに何か家庭や学校でうまくいっていないとわかる人もいる。いじめや家庭内暴力について私は今年だけでも何回か生徒さん本人から相談を受けている。しかし、そういった生徒さんでも、やはり教師としては距離を保つようにしている。私は英語の教師なのであって、かれらのカウンセラーではない。英語を通して自信をつけてほしいという思いはあるが、それは毎週の課題をこなすことで生徒が自分で勝ち取る感情である。教師のお情けで与えられ、一方的に消費されるような感情は安っぽいし意味がない。
ジョイスは24歳のときに英語の先生としてイタリアで働いた。そのときに、かれの上司であるベルリッツ氏を揶揄して以下のようなことを書き残している。明日職場のパートナーに教えてあげるつもりだ。
"Signor Berlitz is an insatiable sponge. His teachers have had their brains sopped up. And their flesh? We've been crucified on the pole till we're skin and bones. I present myself to my pupils as an example of the giraffe species in order to teach zoology objectively according to the gospel of my master, Signor Berlitz." (James Joyce: A Biography, R. Ellmann, p.216)
ホント、英語の教師とはこんな感じである。
「ベルリッツ氏は底なしのスポンジだ。かれのために働く教師たちは、みな脳みそを吸い取られてしまった。それでは、かれらの肉体の方はどうか? われわれは、骨と皮になるまで鉄の棒に磔にされている。私はキリンの種族の見本として、生徒たちの前に歩み出る。すべてはわが主人ベルリッツ氏の聖典にもとづいて客観的に動物学を教授するためなのだ。」
日本語訳すると、ユーモアも半減するようだ。
文章を読む意味は二つ。一つは笑うため。もう一つは真剣に考えるため。笑うふりや真剣に考えるふりを強要するような読書は悪い読書だ。そんな読書を生徒に強要したくない。