Friday, 28 November 2014

概念と精神、その他の雑感

ヘーゲルの『論理学』の日本語まとめもいよいよ第三部「概念論」に突入した。「本質論」の最後では「因果律」(causality)が描写されている。はじめは「持続体(substance)が自らの一部として同時に自らの全体でもあるような出来事(accident)を提示する」ことがイコール因果律である。このとき、持続体は原因、出来事は結果だ。しかし、この段階においては、同じ内容のものがあるときは持続体=原因として、またあるときは出来事=結果として提示されるにすぎない。例えば、地球の重力とは、地球の運動である。このとき、地球の重力が原因であり、その結果地球は運動をする。しかし、両者の内容は、まだこの段階では地球の運動というひとつの現象である。こうして、同一の内容をもつ因果律から、ヘーゲルは「現実の因果律」(real causality)が生じる過程を描き、さらにこれが「相互作用」(reciprocal action)にまで発展する道のりを描く。 

『論理学』の中には、ときどき、理論の本筋から少しそれた考えが登場することがある。「因果律」の部分でも、ヘーゲルは物体における因果律と、精神におけるそれとの違いについて、脱線をしている。ヘーゲルによれば、精神とは機械的な原因によって機械的に動くことがない。あらゆるものごとは、精神に触れることによって、精神と対立する新たな何かへと生まれ変わる。それは電子のようなものであっても、地球のようなものであっても変わらない。精神と全く無関係でありかつ精神と関係できるようなものは存在しないのである。ヘーゲルにとって、自分の外のものごとを自分の否定あるいは自分と対立する何かへと変容させるのは「有機体」である。この意味で、動植物はすでに精神的な側面をもっている。しかし、動植物は自らの限られた環境を創造するだけなのに対して、精神とは思考の力によって全てを創造する。論理学における「概念」は、哲学全体における「精神」に対応する。人間の精神に限らず、精神的なものが全てもつ仕組み、あるいは特性が「概念論」から読み取れたらよい。



私的なことだが、英語を教えていて思うことは、ある教え方がうまくいっているかどうかは少なくとも1年は続けてみないとわからないということだ。色々な生徒たちと触れて思うに、その場の感情で何かを評価する傾向が老若男女問わず広がっている。例えば、一回の授業でわかりづらい内容に出会うと、今までわかりやすい授業が続いてきた(はず)なのにも関わらず、「先生の授業はわかりづらい」という評価をする、などなど。また、「感情的」という点からは、実際には英語力が格段に伸びているのに、授業では常に難しい内容を扱っているために、「自分はできない」と思い込んでしまう、といった生徒さんもいる。

生徒にある程度の自信を持ち続けてもらうのは理想的だが、大したことのない英語をむやみにほめちぎっても駄目だ。こうした嘘は、短期的にはうまくいくのだが、1年、5年、10年と同じようなことを教師が続けると、自信はあるが英語はできないままとなってしまう可能性がある。難しいところだ。

基本的に、私は学びたくない人は学ばなくて良いと思っている。そのため、自分の英語に自信が持てない生徒さんに自信を持ってもらおうとはあまり思わない。私はただ「これだけできればいいですよ」というラインを示し、それに生徒さんがついてきているかどうかをみるだけである。ついてきていれば次に行くし、厳しそうならば立ち止まって復習に時間をかける。場合によっては、足踏みしている単元はすっとばして次に行くかもしれない。とにかく、生徒さんの「自信」や「やる気」などといった心理的な部分については、生徒さんが各自でコントロールしてくれれば良いと思っている。

これと関連して思うのは、私は教師と生徒との関係はそれほど親密にならなくても良いと思っている。親密な関係は、客観的に生徒の能力を評価するときの妨げにもなりうる。「この人はこんなにも積極的に教師と関わろうとしているのだから、すこし甘くみてしまおうか」ということにもなりかねない。生徒たちの中には、当然、明らかに何か家庭や学校でうまくいっていないとわかる人もいる。いじめや家庭内暴力について私は今年だけでも何回か生徒さん本人から相談を受けている。しかし、そういった生徒さんでも、やはり教師としては距離を保つようにしている。私は英語の教師なのであって、かれらのカウンセラーではない。英語を通して自信をつけてほしいという思いはあるが、それは毎週の課題をこなすことで生徒が自分で勝ち取る感情である。教師のお情けで与えられ、一方的に消費されるような感情は安っぽいし意味がない。



ジョイスは24歳のときに英語の先生としてイタリアで働いた。そのときに、かれの上司であるベルリッツ氏を揶揄して以下のようなことを書き残している。明日職場のパートナーに教えてあげるつもりだ。

"Signor Berlitz is an insatiable sponge. His teachers have had their brains sopped up. And their flesh? We've been crucified on the pole till we're skin and bones. I present myself to my pupils as an example of the giraffe species in order to teach zoology objectively according to the gospel of my master, Signor Berlitz." (James Joyce: A Biography, R. Ellmann, p.216)

ホント、英語の教師とはこんな感じである。

「ベルリッツ氏は底なしのスポンジだ。かれのために働く教師たちは、みな脳みそを吸い取られてしまった。それでは、かれらの肉体の方はどうか? われわれは、骨と皮になるまで鉄の棒に磔にされている。私はキリンの種族の見本として、生徒たちの前に歩み出る。すべてはわが主人ベルリッツ氏の聖典にもとづいて客観的に動物学を教授するためなのだ。」

日本語訳すると、ユーモアも半減するようだ。

文章を読む意味は二つ。一つは笑うため。もう一つは真剣に考えるため。笑うふりや真剣に考えるふりを強要するような読書は悪い読書だ。そんな読書を生徒に強要したくない。

Monday, 24 November 2014

『子宮に沈める』を観て

『子宮に沈める』とは、緒方貴臣監督作品の映画。大阪2児餓死事件および苫小牧の事件を題材としてつくられている。映画のあらすじは、他の方々がブログに書かれているものがある。例えばココ

映画を観終わった後、知り合いの方と近くの喫茶店でこの作品について2時間弱話をした。

まず、この作品は、ネグレクトに対する偏見を一掃してくれるという点で非常に優れている。例えば、ネグレクトというと「シングルマザーの問題」と考えてしまいがちだが、この作品は主人公の母がシングルマザーになる以前から始まっている。そのため、ここではさらにさかのぼって、そもそもなぜこの母親はシングルマザーになってしまったのかをこの作品は鑑賞者に考えさせる。

さらに、「ネグレクトは育児を怠る怠惰な母親の問題」と、母親個人の感情や性格をネグレクトの原因としてしまう考えもある。しかし、この作品では、母親は勤勉で愛情に溢れる人物である。(実際、大阪の事件の母親も、子どもに手作りの離乳食を与えたり、布おむつを使ってあげたりしていたらしい。) つまり、ネグレクトとは母親の性格の問題ではないのだ。

では、ネグレクトとは何なのか。その原因とは何なのか。こうした問いを新鮮に突きつけてくるのが『子宮に沈める』という作品だ。

自分が思うに、この問いを考える鍵となるシーンは、父親が帰宅したときに、母親がセックスを迫るシーンである。このシーンは非常に短いが、唯一父親が登場するシーンである。母親が真面目な人物であったように、この父親も非常に真面目で、帰宅が遅いのも、恐らく仕事が忙しいからである。そこへ、自分の妻が半ばヒステリックな状態でセックスを迫ってくる。「私のこと、好き?」と訊いてくる。私がもしこのシーンで父親の立場にいたら、恐らくこの父親がとった行動と同じ行動をとったろう。つまり、妻を振り払い、途方に暮れて立ち尽くし、そそくさをその場を去っただろう。この父親には、妻の辛さを受け止めるだけの余裕がないのだから。

なぜこのシーンが鍵になるのか。妻は、久しぶりに会う夫に、セックスを求める。知り合いの方と話していて、お互い一番ひっかかったのはこの点である。というのも、例えば他の言葉をかけたり、あるいは一緒に散歩に行こうと言ったり、いくらでも他に手段はあったのではないか。なぜセックスなのか。

この状況下で、セックスを求めなければいけない、というところに、実はネグレクトの根本的な原因も隠されているような気がする。そもそも、この母親は、ここまでしっかり家庭を守ることができているのに、なぜ深い孤独を感じ続けているのか。そして、その孤独を乗り越える手段として、なぜ夫にセックスを求めるのか。

それは、「幸福であれ」という命令に妻が従っているから、そして、幸福を実感するための具体的な現象として、「快楽」が必要だから、ではないだろうか。

父親と夫とは、全く異なる。同じように、母親と妻とも全く異なる。妻とは、夫との関係の中で自分自身の幸福を追求する存在である(それは夫の場合も同様だ)。対して、母親とは、子どもとの関係の中において存在するが、子どもが自らに幸福を与えてくれなくても良いと思うのが母親(そして父親)である。あるいは、子どもが健全に生存することに満足をおぼえるのが母親である、ともいえる。

簡単に言うと、親とは、子どものために生きているのだ。そのため、自らの幸福を追求することがもう許されない。

こうした考えは当然反発を生む。「父親にも母親にも、幸福を追求する権利はあるはず。それができないから、ネグレクトは起きるのだ」という具合に。しかし、これは「母親」という役目と、人間として存在する母親とを混同している。人間には幸福を追求する権利があるが、母親という役目の中には、母親自身の幸福の追求という義務は含まれていない。

それにもかかわらず、母親であるこの主人公は、自らが一人の人間として「幸福」であらねばならないと感じている。なぜ彼女がそう感じるのかはまた別の問題だ。しかし、そう感じていることは間違いない。しかし、この感情は、母親の役目と明らかに矛盾する。母親にとって、自らが幸福になるかどうかは偶然が決めることであって、幸福でないからといって母親として失格であるということにはならないからだ。

自分が幸福であるかどうかを計る尺度として「快楽」が用いられるのは、現代の風潮である。

さて、では「幸福であれ」という命令は、どのようにして母親を追い込んでいくのか。すでに何度か述べたように、母親には自らの幸福よりも優先すべきことがあり、また自らの幸福は実現する必要がない。重要なのは、家族が健全に存続していくことなのである。しかし、「幸福であれ」という命令は、「幸福でない人生は生きる意味がない」という考えを生む。つまり、健全に存続していても、母親自身が幸福を感じていなければ、それには意味がない。そこで、母親は、自らが母親としての役目を良く果たしていても、そこに満足を感じることができない。

そこで、母親は「幸福」への道を進むために、夫にすがる。それも、セックスを求めるのである。妻にとって、幸福は快楽によって実感されるのだ。そして、その快楽を与えてくれるのは、セックスなのである。あるいは、夫からの「愛の表現」なのである。しかし、これはこうである必要がない。例えば、家族についての会話から「幸福」を得ることも可能だ。あるいは、「家では全てうまく行っています」「こちらも、仕事は順調です」というやりとりから幸福を感じることもできるだろう。しかし、幸福の尺度は「快楽」なのである。そして、快楽の強さとしては、こうした会話は弱い。また、特に後者の会話は、自分の幸福よりもさらに大切な別の生きがいを持っている人でないと行うことができない。

以上のような理由から、この作品においてはネグレクトの根本的原因が「幸福であれ」という命令だということができるように思う。この作品を観て思うことは他にもたくさんあるのだが、一番重要だと感じた考えはこれだ。

それなので、ネグレクトを失くすということは、「幸福であれ」という命令から自由になるための別の言語環境を整えるということだと思う。例えば、幸福よりも義務を優先しても良い、というような。特に闘うべき相手として、「幸福の追求は人間が自然に行うことである」という考えがある。幸福の追求には何も自然なところがない。これは社会的に、特にある言語環境において構築された考えなのである。

自らが幸福であるかどうか、という問いがあまり重要ではない文化あるいは言語環境も存在する。例えば、『赤毛のアン』のような作品で描かれるカナダ、あるいは『アンナ・カレーニナ』で描かれるロシアがそれである。父親や母親が親として存在できるような言語環境はとても大切だが、残念ながら、「幸福の追求」という命令(義務とすら言ってもよい)は年を重ねるごとに威力を増している。『子宮に沈める』は、この命令に対抗する必要性を強く感じさせてくれる映画でもあった。

追記: 2015年3月にこの映画のDVDが発売された。私はもう一度観たいと思う。が、しかし、すぐには観ることができない。それなりに気持ちに余裕があるときでないと観ることができない映画だ。

Sunday, 23 November 2014

プラトンの『饗宴』―「法に対する愛」

プラトンの『饗宴』で、ソクラテスが愛についての理論を語る場面がある。ソクラテスによれば、愛には四つの段階がある。

  1. 肉体に対する愛
  2. 精神に対する愛
  3. 法に対する愛
  4. 善のイデアに対する愛
また、ソクラテスによれば、いきなり善のイデアに対する愛を感じることは人間にはできず、まず肉体、次に精神、次に法、そして最後に善のイデア、という具合に、段階を踏む必要がある。

肉体に対する愛から精神に対する愛へと移る過程は、直感的にとらえやすい。ここでいう「肉体」とは、ある人が周りの人たちに直ちに与える印象も含んでいる。そのため、例えば「この人の雰囲気が好き」というような気持ちも「肉体に対する愛」に属する。

ここから「精神に対する愛」へと移るには、まず、肉体に対する愛が消化される必要がある。肉体や雰囲気がそのままの状態で魅力的な人ほど、精神への愛の対象となりにくい。それでも、付き合いが長ければ、いつかは相手の肉体や印象や雰囲気に対して幻滅するときが訪れる。しかし、その人は単にこの肉体、あるいはこの雰囲気だけではない。その人は精神の持ち主なのだ。精神とは、他者、あるいは自分と対立するものを否定し、この否定によって存在するものである。その人の肉体や雰囲気に対する幻滅は、私がそれを感じる遥か以前から、すでに相手によって感じられているのだ。その幻滅の感情を共有することで、肉体に対する愛は消化される。

精神に対する愛から法に対する愛への移行が、哲学の学生も含めて、多くの人を困惑させる段階だろう。肉体や精神はある一人の個人に属するのに対して、法や善のイデアはそうした個人を超えて存在するものだからだ。愛とは、そもそも個人に対する感情ではなかったのか。

法に対する愛とはそもそも何なのか。それが、僕にはかなり最近まで理解できなかった。最近になってようやくわかってきたのは、次のような考えだ。精神は、目の前に直ちに存在する物質的な現実を絶えず否定し、その否定によって存続する。ある一面では、精神は物質よりも抽象的であるといえるが、別の一面からは、物質よりも精神の方がより具体的であるといえる。というのも、物質的現実はこの一瞬、あるいはある一定の限られた期間存続するのに対して、精神的現実はある意味時間を越えて存在するからである。例えば、気心の知れた友人と久しぶりに会うとき、その友人は物質的には、肉体も雰囲気もずいぶん変わっているだろう。それでもその友人が以前の友人と同一人物である理由は、かれの精神が以前と同じだからである。つまり、私にとって気心の知れた友人とは、この肉体をもった人物ではなく、この肉体がなくても存続するような精神のことなのだ。すると、精神的なものは、肉体を超えて人々の記憶に残り続けることになる。では、精神を消化した先にある「法」とは何なのか。法とは、精神からその個性や偶然性を取り払った結果生じるのだと思う。例えば、さきほどの友人を例に考えてみる。その友人と以前時間を過ごしたことによって、私はある別の法則あるいは法に従って生きるようになっている。例えば、自分の肉体に気を使うようになったり、あるいはものごとをそれほど悩まなくなったり。こうした法則は、まずはその友人の精神がもつ力として存在していた。しかし、その友人の精神がこの場を去った今でも、私の生活の中にはまだこうした法則が残っている。意識してようとしてまいと、こうした法則に従っている限りにおいて、私はこの法則を「愛している」のだ。こういう意味において、法に対する愛は精神に対する愛の先に存在し、後者よりも一層深いのだ。また、肉体と精神の関係においても言えたことだが、精神と法を比べてみても、ある意味後者のほうが抽象的だが、やはり別の意味においては後者のほうがより具体的だ。というのも、私のある個人的な相手への愛が途絶えた後でも、その相手を介して私が愛するようになった法則への愛は到底途絶えないからである。

プラトンの愛の理論の各段階の具体性については、次のようなこともいえる。肉体に対する愛は、直接的であるだけに一番刺激が強いが、同時に最も手放すのが容易な感情であるといえる。精神に対する愛は、肉体よりも具体的で持続的なものへの感情であるだけに、手放すのがより難しい。しかしまた、精神への愛は肉体に対する愛が消化された先に芽生えるので、比較的穏やかで落ち着いた感情でもある。三つ目に、法に対する愛は、抽象的な穏やかさあるいは平穏だけではなく、私の生活の具体的な骨格を形作っている。そのため、法に対する愛は、よっぽどのことがない限り、そもそも意識にのぼることすらない。これほど具体的な感情は、手放すのもまた容易ではない。法則に対する愛を手放すということは、単にある個人とのつながりを断ち切るということではなく、ある普遍的なものと決別することだからである。往々にして、私の生活を形成する法則は、そこから意識的に逃れようとするさまざまな逃げ道をあらかじめ自分の一部として折り込み済みであることが多い。例えば、お金持ちになろうと思う感情と決別しようとしても、「代わり」の指針を決めるときに、ほぼ無意識のうちに「損得勘定」が働くだろう。お金というものに対する執着は手放したつもりでも、ものごとを損得でみるという法則は残る上、その法則に対する自分の愛も残る。法に対する愛とはそういうものなのだと思う。

では、最後の善のイデアに対する愛とはどういう感情なのか。これはまだ理解できないが、法に対する愛についての解釈は思いがけないタイミングでできたので、これについてもいつかは腑に落ちるときが来るだろう。

Wednesday, 12 November 2014

加藤尚武

『ヘーゲルを学ぶ人のために』という著作を読んだ。加藤尚武が編集している論文集だ。その序章で、加藤は次のように書いている。
いまなお、ヘーゲルを偉大な文字を書き残した思想家であると錯覚している人がいる。そして、せめて完成度の高い『大論理学』を完全に解明したなら、その思想の結晶があきらかになると期待している。そのような期待を満たす著作はヘーゲルには一冊もない。ヘーゲル哲学を学ぶ人は、恐ろしく抽象度が高いが、同時に文章としての完成度の恐ろしく低い文章の密林に入り込んで、その地図作りに参加しなくてはならない。(7項)
異論をはさむ余地のない主張だと思う。同じ序章の終わりの方で、加藤はヘーゲル(の和訳文)を引用した後、「翻訳すると―」という書き出しでその引用部の内容を説明している。「翻訳」という言葉も、的を得ている。ヘーゲルを読むということは、ヘーゲルの文章を現代の言葉へと「翻訳」することなのだ。

さらに、加藤はヘーゲルの思想の全体、あるいは戦略を、これまた非常にシンプルで的を得た言葉でこう要約している。
自然のなかにも精神のなかにも論理が自己展開する構造になっていて、自然よりも高い段階に精神が位置づけられるという体系構造で、ヘーゲルは難局を乗り切っていく。(12項)
このすぐ後で、加藤はこう続ける。
つまり、「論理学」、「自然哲学」、「精神哲学」という三部構成の哲学体系を立てる。そのなかに、時代のあらゆる知や芸術や政治を盛り込んでみせる。さまざまな素材を盛り込みすぎて、体系の枠組みからこぼれ出してしまってもお構いなしで、ヘーゲルは時代の文化の全体を吸収消化し続けた。(12‐13項)
なぜヘーゲルが体系をつくったのか―加藤はこの問いに上記のようなわかりやすい答えを与えている。ヘーゲルが体系をつくった理由を説明できないと、哲学が体系的であるべき理由もはっきりしない。「ヘーゲルの時代には体系が流行していたから」などというチープな歴史主義では駄目なのだ。加藤はフィヒテも引き合いに出しつつ、次のように説明している。
[当時のドイツでは]時代状況に対する国民的な主体性の確立が大きな課題となっていた。その課題を担う中心にあるのは学問であって、あらゆる知識に生きた総合をもたらすことが、国民的な自立の達成に寄与すると信じられていた。国家からも教会からも自立した大学の哲学知の体系が国家の自立を支えるというのである。(8項)
事実、若いヘーゲルは、国民の教養=Bildungを高めるような人になるという目標を持っていた。(テリー・ピンカードの『ヘーゲル伝』に、Bildungをめぐるヘーゲルの悩みが詳しく書かれている。) そして、知識を国民生活の一部とするための手段として、ヘーゲルは体系を選んだのだ。

以下は加藤の論旨を発展させた考え。思うに、ヘーゲルは一個人としての国民が、同時に国家という全体像に積極的に関わるようになるにはどうすれば良いかと考えたのである。そのためには、個体でありながら、同時に全体でもありえるような何かが国民の中に存在しなければならない。それは、知識の体系である。宗教の文脈では、それは父なる神(全)、神の子キリスト(個)、そして精霊(全にして個)という三位一体である。

哲学は体系である―この見方に対して、「私は体系の構築には興味がない。私は、ある特定の問題のさらにある特定の部分に、非常に緻密に練りこまれた答えを出す」と反発する人もいる。学問の分業化である。

学問の分業化は、専門用語の量産につながる。誰も考えたことのないような細かい問題について、自分一人で悩むわけだから、新しいことを言うためにはどうしても造語が必要になるだろう。こうした細部へのこだわりは、100%悪いわけではないが、大きな問題を抱えている。こうした専門家中の専門家の残した仕事が、その他大勢の国民にとって全く読まれえないのである。

これが工学や医学における技術知ならば問題はない。技術知は、知られることに価値があるのではなく、応用されることに価値があるからである。対して、人文知は、知られることに価値がある。つまり、人文知は、それが広く知れ渡ることによってのみ、具体的な成果へとつながるのである。

もしこうした見方が適当だとすれば、人文知の中でも最も古い哲学こそ、「誰にでも読める」「全体的な」学問であるべきだ。この点を、フィヒテやヘーゲルはよく理解し、実践したのである。

ヘーゲルについて書かれた本は、ほぼ読解不能の悪文か、あるいは単純すぎて何が面白いのかわからないようなものが多い。特に前者は、ヘーゲル自身の悪文癖につられて(あるいは甘えて)、研究者自身も同じ間違いを犯しているふしがある。加藤尚武は、ヘーゲルの悪文を率直に「悪文」として批判し、ヘーゲルののこしたテキストを「密林」に喩えることによって、新鮮な指針を提示してくれた。

久しぶりに良い解説書に出会うことができた。

Wednesday, 5 November 2014

The Absoluteあるいはdas Absoluteをどう和訳すべきか

ヘーゲルの『論理学』の日本語メモを書き進めていると、私は和訳が非常に難しい言葉にしばしば遭遇する。『論理学』の英訳を読みつつ私はメモをとっている。英文はヘーゲルの思考の流れをしっかり捕まえているので、集中して読めば流れるように一気に読み進めることができる。ところが、メモをとっている途中でふと和訳に悩む箇所が登場すると、せっかくの滑らかな英文の流れが私の中で一時停止してしまう。このとき、直訳をあててメモを書くことも私にはできる。実際、最近はそのようにすることが多い。しかし、これには問題がいくつかある。まず、英語から日本語へと思考を移し変える作業が中途半端となってしまう。つまり、英語ではドンピシャの言葉で表現されている思考が、日本語では全くかみ合わない造語によって複製されてしまっているだけとなってしまう。次に、後でこのメモを読み返したとき、日本語にこだわらなかった箇所は私にはわかりにくいものとなってしまっている。最後に、直訳をしてしまうと、日本語の言葉のもつ広がりがその言葉に宿らない。

というわけで、和訳にこだわりたいのだが、それでは『論理学』を読む作業も一時停止してしまう。一つの言葉に30分くらい悩むこともザラで、これでは私は先へ進めない。 そこで、実際には妥協をする。ただ、どうしても妥協できないような言葉もいくつかある。「Das Absolute」はその内の一つだ。(他にも、setzenやReflexionやScheinやSeinやExistenzなどもある。) ヘーゲル翻訳家の間では、この語は「絶対者」と和訳するのが通例である。しかし、この和訳は、原語を忠実に汲みとれていないだけではなく、ヘーゲルのいわんとすることに対しても不適切な訳となってしまっている。

まず、Das Absoluteには人と物との区別がない。対して、「絶対者」と「者」をつけてしまうと、あたかも「物」とは異なる何かが「絶対」であるかのようになってしまう。さらに、ヘーゲルはDas Absoluteを思考形式、つまりカテゴリーとして提示している。(setzenは英語ではpositだが、日本語では「提示」でもいいかもしれない!) そのため、和訳の方にも、それ相応の抽象性が備わっていなければならない。しかし、「絶対者」という言葉には、誰か具体的な人物、あるいは神を指しているような具体性がある。これは、ヘーゲルの思考の内容と照らし合わせてみると、不適切な連想であると私は思う。

そのため、「絶対者」という通例の和訳は、見直される必要があると私は思う。では、どのような代替案がありえるか。まず、単純に「者」を取っ払ってしまい「絶対」と訳すのはどうか。これの問題点は、「絶対」は名詞ではないのに対して、das Absoluteは冠詞のおかげで明確に名詞であるということだ。そもそも、「者」がつけられた原因は、「絶対」という語を名詞形にせよという要請だろう。何も工夫せずに「絶対」と言ってしまっては、「絶対者」という和訳が解決しようとした問題と向き合わないことになる。

もう一つ、「絶対性」という訳し方はどうだろうか。こちらの方が、「絶対」そのものが名詞形で際立つので、余計な連想を生まないという点では「絶対者」という一語よりも優れているだろう。これの問題点は二点。まず、(そしてこれはこの一語に限らず、名詞を和訳するときの宿命的な問題点なのだが)the Absoluteは複数形にもできるのに対して、「絶対性」は複数ありえるようなものではない。少なくとも、私にはそのような気がする。(しかし、もしかしたら「~性」で終わる名詞にも、「~性ら」と複数にしても不自然ではないものもあるのかもしれない。) 二つ目に、das Absoluteは性質ではない。こちらの方が深刻な問題点である。というのも、「絶対性」というと、あたかもdas Absoluteの外に何か具体的なものが存在していて、そこに「絶対性」という性質が後付けされるような響きがある。あるいは、まず始めに具体的なものが存在していて、「絶対性」はそうしたものたちから抽出されたいわば二次的な観念である、という響きもある。いずれにしても問題なのは、「性」をつけることによって、一種の二次性がdas Absoluteに含まれてしまう点である。

「絶対者」「絶対性」「絶対」の三つのどれもうまくいかない。ではどうすれば良いのか。今のところ、アイデアが思い浮かばない。

Monday, 3 November 2014

私事

今日は久しぶりにいい風が吹いている。最近、仕事に追われて私事がおろそかになっていた。仕事で忙しいことの良さももちろんあると思う。単にお金が貯まるというだけでなく、公共の場で他の人の眼にも触れることができるから。ただ、先日久しぶりに自由に本を読んだときは気持ちが軽くなった。外で色々するのも良いが、やはり今は自分の「私事」を大切にしたいと感じた。

部屋の掃除や洗濯をさぼっていたので、今日久しぶりにそれらをした。特にマスクの手洗いをさぼっていたので、12枚くらいさきほど手洗いした。さぼっていたというよりは、本当に時間がなかったのだが。おまけに、天気はずっと雨だった。雨は仕事日和なのかもしれない。

風が強くて晴れの今日は、遠くまで山の景色が見える。山は、普段は霞がかかったようにしか見えない。 風が雲や微粒子を吹き飛ばしてくれるのだろうか。布団を干したいのだが、それも吹き飛んでしまいそうで、干せない。

昨日は、名古屋で開催された「哲学カフェ」に参加させていただいた。思っていた以上に良い雰囲気だった。運営の中心メンバーの方々の力のおかげだろう。こうした企画を持続させることはかなり大変だ。人が集まらない場合も多いだろうし、集まったとしても、普段は話しなれていないことについて話すので、感情的に高揚したり、逆に冷えきってしまったりする人も出てくるだろう。

「哲学」というと「難しい言葉でどうでもいいことを真剣に話す」学問だというイメージを持つ人も多い。実際、これは半分くらい当たっている。「どうでもいい」=「出世などにつながらない」という意味ならば、哲学はたしかにどうでもいい。それに、日常の場ではなかなか話せないことについて自由に話すので、言葉もどうしても見慣れないものが出てくる。他方で、別に難しい言葉をあえて使う必要はない。それに、どうでもいいことを真剣に話すことの何が悪いのだ。私たちが公共の場では「どうでもいい」と言い、あるいは「人それぞれだ」と言ってそれ以上考えることをやめる物事は沢山ある。しかし、だからといって、それらのものごとが本当にどうでもいいとは限らない。そういうことに興味を持つ人だっているはずだ。そういう人たちが集まって話す場が「哲学カフェ」なのだろう。そういう場は貴重だと思う。また行きたい。