日本語を一から考えると銘打って『日本語づくり』なんていう看板を掲げてみたものの、気がついたら日本語の原理的な話にはなかなか至らずにもっぱら書評や思想を書いてしまっている。ただ、言葉というのは一から構築するものではそもそもないかもしれないし、言葉を使って何をしているかを記録することでみえてくる原理もあるかもしれないので、あえてこだわりすぎずに思考の流れを綴ることにしたい。
私的な話になるが、近所の図書館の蔵書が思いのほか豊富で感動した。文学のコーナーにはあらゆる作家の全集が国籍を問わず揃っており、学術書も選書のセンスが良い。『ジェイムス・ジョイス伝』が上下巻揃っている市立図書館をみたのはここが初めて。そして何より、哲学コーナーが充実していた。カント・ヘーゲル・フィヒテ・ハイデガーの全集が全て揃っている! ドイツ近代思想史を掘り下げたい人にはたまらないセレクションだ。
逡巡せずにヘーゲル全集の棚に手を伸ばし、長谷川宏訳ではなく、竹内敏雄訳の『美学』を手にとる。「序論」は貸し出し中だったが、既にある程度読み込んでいた部分だったので問題はなく、「第一章・第一節」を読むことに。一時間以上かけて、みっちり読んだ。
長谷川宏訳は読みやすいことで有名で、ヘーゲルの厳密な思考の流れを多少ゆがめるリスクをとりつつ、あえて日常会話に近い形式の言葉づかいで訳されている。ほとんど意訳であり、長谷川氏の解釈が色濃く反映されてもいる。他方、竹内敏雄訳はわかりやすさや読みやすさなどそっちのけ、とにかくヘーゲルの思想のゴツゴツとした異物感や緻密さを存分に日本語に運び込んでいる。
すでにヘーゲルの思想に触れており、『精神現象学』を読了している程度のレベルの読者には、竹内訳のほうが読み応えがあるように思う。早速ページを開くと、旧字体でゴツゴツとした文章が眼に飛び込んできた。「体」を「體」と書き、「当」を「當」と書き、「実」を「實」と書く、この徹底ぶりには感服するし、また哲学的な言い回しが多様されてもいる。すると、読む側としては今までの言語感覚をとりあえず脇において、丁寧に読むしか読解への道がない。元々、ヘーゲルに限らず哲学とは本来一行一行よく噛んで読むものなので、このようにスローダウンを強要する文体のほうがかえって思想のほうはスムーズに入ってくるものなのだ。
『美学』の本論の最初の一節は、『精神現象学』のサマリーのようなもので、美について直接にヘーゲルが展開する場面はない。
本の内容とか関係がないが、ヘーゲルほど臆面もなく次々と哲学用語を振り回し、本流の「思想」を展開する著者の書いたものに対しての抵抗感は何なのか。それは哲学一般への抵抗感といっても良いと思う。哲学者は、「これはこうだ」と言い切りたい欲求と、そうはいかないという否定の欲求とに振り回され続けており、その振れ幅が本当に大きいので、読んでいるほうも体力を使うし、納得させられた次の行で一気に前述の思考が否定され乗り越えられてしまうと苛立つことだってあるだろう。何よりも、経験的にしかわからないようなことだってあるはずなのに、言葉だけでドンドン進んでいく思想家の営み自体が気にくわない、という人だって多いはず。
ヘーゲルのすごいところは、上記のような心理も含めて思想を展開しているところだ。言葉だけでドンドン進む思考の流れが、経験的な視点からは浅はかにみえることを、ヘーゲルは強調する。ただ、同様に、経験に固執しすぎて、言葉の自由を行使できない意識のあり方も一方的であり、振り回されてばかりでどこにも行き着かず、「不幸な意識」であるのだともヘーゲルは書いている。そのどちらにも偏らずに、しかも両方とも通り抜けることによって経験と言葉とを編み合わせるようにして思考する第三の道をヘーゲルは「絶対精神」と呼び、美学や芸術思想をするにあたってはこの見地からでしかできないとも書いている。
ヘーゲルの書くことは納得できるが、それでも頑固に経験論者で居続けることだって可能だ。結局、言葉と経験の関係を自由に探究する心持ちになろうと思わない限り、ヘーゲルを読むことはできないし、哲学も思想も空虚なだけに思えてしまうだろう。
そうやって食わず嫌いで哲学的なものやヘーゲルを退けたくなる心理はわかる。文学を読んでいたり、旅やスポーツをしているとそういう心理は一層強いものとなってじぶんを捕らえる。でも、ただそれが今威力を発揮しているからといって、正しいわけではなく、今日のように素直にヘーゲルの思想に出会い直す機会に身を任せたことは良かったし、そういう機会を喜んで受け容れるような人でいられたら愉しいはずだとも思う。
Friday, 28 September 2012
Sunday, 23 September 2012
中国の女工たち
レスリー・チャンの『現代中国女工哀史』は、中国製の製品の恩恵を受ける読者にとっては読むのが大変な一冊だ。なぜなら、これを読めば読むほど、「現状は維持できない」という事実に気付かされるから。
東寛という、700万人以上の移民労働者が働く工業都市をドキュメントした作品。チャンは十代で田舎を離れて東寛に来る「女工(factory girls)」たちを取材している。面白いのはまず、この女工たちが上京する理由。 貧困のため、などではなく、「故郷の風習に縛られた生き方に嫌気が差した」というのが圧倒的多数だ。農場も両親も、自分を自由な個人として花開かせてはくれない。本当に自分を個人として確立したければ、自分の手で一から始めなければならない。そういう思いで、田舎の十代の女たちは女工となる。
女工は、都市で自立するためには避けては通れないステップで、仕事=女工、が常識らしい。ただ、工場での仕事自体は労働環境も劣悪な上に大した収入にもならないので、一つの場所で長く働くなんていうことはほとんどありえない。常に女工たちは動いている。より良い労働条件や収入を求めて、次々に場所を移り、人と会い、色々な賭けをしている。娼婦になる女工もあとをたたないが、他方では運が良くてブルジョア階級の管理職に就く女工もいる。後者は、工場で働いていた頃とは比べ物にならないほどの収入、5倍、10倍、20倍、あるいは50倍もの収入を得るようになり、自分のそうした「成功=金儲け」を「実現する方法」を、「低階級」の女工たちに説いてまわるようになる。このあたりの心理描写は特に面白く、漠然と「自由」を求めて田舎を飛び出した少女がその「自由」の具体的な達成として「金持ちになる」ことを見出し、それを今度は自由のモデルとして他のひとに説くとは、金持ちであること=たくさんの女工に不自由な生き方を強いること、という事実を思ってみればなんとも皮肉な話である。
皮肉なだけではなく、チャンが明確にする上記のような女工の生き方は、中国の製造業に依存している日本や欧米のブルジョア社会への間接的な批判・警鐘を含んでいると思う。
整理すると、女工たちを工場へと駆り立てるモチベーションは二つある。一つ目は、「自分も金持ちになれるかもしれない」という希望だ。二つ目は、「田舎に帰っても、風習に縛られた不自由な一生が待っているだけ」という絶望だ。
この二つのモチベーションは、「成功」してブルジョア的な管理職にのしあがる中国人が増えて行くにつれて変化せざるを得ないだろう。日本や欧米がブルジョア大国となっていく背景には、常にアフリカ系、あるいは中国・インド系の労働者たちの力があった。しかし、中国が同じようにブルジョア化するために必要な新たな労働者人口は残念ながら世界のどこを探しても存在しない。つまり、中国人が皆「金持ちになる」ことは不可能なのだ。
チャンによると、中国の女工たちの間では、大学で人文系の学問を修める人が年々増えているという。政治や経済を学ぶことによって、女工たちは自分たちが世界のためにどのような役割を担っているかに気がつき始めている。恐らく、「成功への道」を声高に説く管理職の女たちが自分たちを必要としていることも。そしてさらに、中国で成功するためには誰かが誰かを蹴落としていかざるをえないということも。自分たちを搾取しながら金を稼ぐ人が、自分たちを成功へと導くためのストーリーをつくり、語って聞かせてくる――この矛盾に気がつけば、都市での「自由な」生活に、女工たちはきっと幻滅していくはずで、女工として生きていくモチベーションから「金持ちになる」が消えることだってあるだろう。
都市のこうした矛盾を意識したときに、田舎に戻って幸せになる道はないのか、と自問する女工たちが出てきてもおかしくない。このときに、「田舎から逃れたい」という単純なモチベーションも消えるだろう。むしろ、田舎にいて、家族や周辺の人々の風習から逃れるための文化闘争が始まっても良いはず。田舎に、都市的な自由の感覚を広めて、女工になる以外にも幸せになる方法を探すことで、「田舎から逃げる」という選択肢もあまり魅力のないものになるかもしれない。
「女工は成功しない」という意識と、「田舎の文化を変えれば幸せもありえる」という意識が熟成するのにどれだけの時間がかかるかはわからないが、そんな変化の先に待っているのは、中国の製造業の形骸化だ。安い中国人労働者が仕事に従事してくれるおかげで、日本や欧米では製造業に一切関わらなくてもなんでも手に入るような仕組みができているが、 その仕組みが壊れ、後者の国々では再び国内製造業を拡大しなければならないという事態になるはず。そのときに、日本に住む人として、中国人の労働力に依存せずに生きるにはどうすれば良いかを考えて少しずつそうしたライフスタイルを実現していくことは急務の課題だし、それができない人は突然中国製造業が破綻したときに愚行に走るほかには選択肢を持たないだろう。
いずれにせよ、中国の女工たちがこれから戦うことになる闘争は製造技術の革新などでは終わらず、文学や政治を通して人の考え方や感情が変わらなければ収束しない。中国人が英語で祖国を舞台にした作品を書き、Amazon.comのKindle Storeなどで販売している現状は、チャンのドキュメンタリーから浮かび上がる女工たちの姿と並置してみると一層政治的な含みを持ち始めるようにもみえる。
東寛という、700万人以上の移民労働者が働く工業都市をドキュメントした作品。チャンは十代で田舎を離れて東寛に来る「女工(factory girls)」たちを取材している。面白いのはまず、この女工たちが上京する理由。 貧困のため、などではなく、「故郷の風習に縛られた生き方に嫌気が差した」というのが圧倒的多数だ。農場も両親も、自分を自由な個人として花開かせてはくれない。本当に自分を個人として確立したければ、自分の手で一から始めなければならない。そういう思いで、田舎の十代の女たちは女工となる。
女工は、都市で自立するためには避けては通れないステップで、仕事=女工、が常識らしい。ただ、工場での仕事自体は労働環境も劣悪な上に大した収入にもならないので、一つの場所で長く働くなんていうことはほとんどありえない。常に女工たちは動いている。より良い労働条件や収入を求めて、次々に場所を移り、人と会い、色々な賭けをしている。娼婦になる女工もあとをたたないが、他方では運が良くてブルジョア階級の管理職に就く女工もいる。後者は、工場で働いていた頃とは比べ物にならないほどの収入、5倍、10倍、20倍、あるいは50倍もの収入を得るようになり、自分のそうした「成功=金儲け」を「実現する方法」を、「低階級」の女工たちに説いてまわるようになる。このあたりの心理描写は特に面白く、漠然と「自由」を求めて田舎を飛び出した少女がその「自由」の具体的な達成として「金持ちになる」ことを見出し、それを今度は自由のモデルとして他のひとに説くとは、金持ちであること=たくさんの女工に不自由な生き方を強いること、という事実を思ってみればなんとも皮肉な話である。
皮肉なだけではなく、チャンが明確にする上記のような女工の生き方は、中国の製造業に依存している日本や欧米のブルジョア社会への間接的な批判・警鐘を含んでいると思う。
整理すると、女工たちを工場へと駆り立てるモチベーションは二つある。一つ目は、「自分も金持ちになれるかもしれない」という希望だ。二つ目は、「田舎に帰っても、風習に縛られた不自由な一生が待っているだけ」という絶望だ。
この二つのモチベーションは、「成功」してブルジョア的な管理職にのしあがる中国人が増えて行くにつれて変化せざるを得ないだろう。日本や欧米がブルジョア大国となっていく背景には、常にアフリカ系、あるいは中国・インド系の労働者たちの力があった。しかし、中国が同じようにブルジョア化するために必要な新たな労働者人口は残念ながら世界のどこを探しても存在しない。つまり、中国人が皆「金持ちになる」ことは不可能なのだ。
チャンによると、中国の女工たちの間では、大学で人文系の学問を修める人が年々増えているという。政治や経済を学ぶことによって、女工たちは自分たちが世界のためにどのような役割を担っているかに気がつき始めている。恐らく、「成功への道」を声高に説く管理職の女たちが自分たちを必要としていることも。そしてさらに、中国で成功するためには誰かが誰かを蹴落としていかざるをえないということも。自分たちを搾取しながら金を稼ぐ人が、自分たちを成功へと導くためのストーリーをつくり、語って聞かせてくる――この矛盾に気がつけば、都市での「自由な」生活に、女工たちはきっと幻滅していくはずで、女工として生きていくモチベーションから「金持ちになる」が消えることだってあるだろう。
都市のこうした矛盾を意識したときに、田舎に戻って幸せになる道はないのか、と自問する女工たちが出てきてもおかしくない。このときに、「田舎から逃れたい」という単純なモチベーションも消えるだろう。むしろ、田舎にいて、家族や周辺の人々の風習から逃れるための文化闘争が始まっても良いはず。田舎に、都市的な自由の感覚を広めて、女工になる以外にも幸せになる方法を探すことで、「田舎から逃げる」という選択肢もあまり魅力のないものになるかもしれない。
「女工は成功しない」という意識と、「田舎の文化を変えれば幸せもありえる」という意識が熟成するのにどれだけの時間がかかるかはわからないが、そんな変化の先に待っているのは、中国の製造業の形骸化だ。安い中国人労働者が仕事に従事してくれるおかげで、日本や欧米では製造業に一切関わらなくてもなんでも手に入るような仕組みができているが、 その仕組みが壊れ、後者の国々では再び国内製造業を拡大しなければならないという事態になるはず。そのときに、日本に住む人として、中国人の労働力に依存せずに生きるにはどうすれば良いかを考えて少しずつそうしたライフスタイルを実現していくことは急務の課題だし、それができない人は突然中国製造業が破綻したときに愚行に走るほかには選択肢を持たないだろう。
いずれにせよ、中国の女工たちがこれから戦うことになる闘争は製造技術の革新などでは終わらず、文学や政治を通して人の考え方や感情が変わらなければ収束しない。中国人が英語で祖国を舞台にした作品を書き、Amazon.comのKindle Storeなどで販売している現状は、チャンのドキュメンタリーから浮かび上がる女工たちの姿と並置してみると一層政治的な含みを持ち始めるようにもみえる。
Saturday, 22 September 2012
問題がない場合
ポール・オースターの『シティ・オブ・グラス』(City of Glass)を読了した。ニューヨークを舞台にしたミステリー小説だが、ミステリーとしては破綻している、なぜなら、作中にオースターが張った伏線の数々が結局宙ぶらりんなまま尻すぼみで話が終わるからだ。。元々、ミステリーめいたストーリーは、オースターが本当に書きたいことを一般読者に読んでもらうための装置として使われているにすぎない。
話は主人公クィンが間違い電話を受け取る場面から始まる。そして、探偵「オースター」と間違えられたまま、クィンはある女性に依頼されてスティルマンという男を尾行するよう頼まれる。このスティルマンは人柄も狙いも謎が多く、素性のしれない男だが、クィンは尾行中に様々な文献やアイディアにこそ出会うがスティルマンの正体はわからず、最後はスティルマンが自殺し依頼主の女性が失踪することで決着がつくのだが明らかに苦し紛れの結末である。物語の中で重要なのはそのため、スティルマンという謎の人物に対する好奇心から意欲的になった読者が、作中に登場する文献・アイディアを積極的に読んでくれることだろう。
しかし、そんなアイディアの数々も、現代の政治的な、あるいは個人的な問題に絡むまで追究されていないため、往々にして何かをほのめかして途切れてしまう。たとえば、クィンが電話帳でオースターの住所を探し当て、オースターの自宅に向かい、ビールを飲みながら話をする場面で、オースターは「『ドン・キホーテ」にはセルヴァンテスの分身が4人登場し、ドン・キホーテ自身は実在する人物である」というテーゼのエッセイを書いている、と話す。そして、『ドン・キホーテ』 は「人は、それが愉快な嘘である限り、どこまでも嘘を受け入れる」ということを説得力をもって証明している、という結論にたどり着くのだが… 「へぇ、面白い」と言う以上に、迫りくるものではない。あるいは、スティルマンの過去の著作に、20世紀後半にバベルの塔が再び完成し、世界は一つの言語によって統一される、という予言を立証するくだりがある。これもまた、恐らく英語が世界を席捲するということを暗にいいたのだろうが、「そうかもしれないけど、だからなんなの?」と思ってしまう。
さらに、終盤でクィンがニューヨーク市街を散歩しながら赤いノートに文章をなんとなく書きつけていく場面があるのだが、その文章が散歩のあとで引用される。そこでクィンは、ホームレスの様子を描写し、本当に技のある大道芸人から、何もなくて純粋に物乞いをしなければならない人たちまでニューヨークにはいる、ということを書いている。たしかにそのとおりだろうし、それは社会問題であるに違いないのだが、ただその様子を描写しただけで、それ以上の政治的なレファレンスもないようでは読んでいるほうとしても痒いところに手が届かない気持ちがしてくる。それにホームレス問題と、バベルの塔の問題と、『ドン・キホーテ』論との繋がりもよくわからない。
一見何かありそうなストーリーを基盤に、色々なアイディアや情景の断片を紡ぎ合わせていくオースターの小説は、なぜこのように尻すぼみで、かつ全体として政治的インパクトを持ち得ない作品となってしまったか? 「オースターはエンターテインメントとしてこの話を書いた」と言ってしまえばそれまでのようだが、さらにそこで「なぜこの話は、政治的な味を含める余地もあったのにエンターテインメント止まりで脱稿したのか?」と問い直してみる。
これは憶測にすぎないが、オースターにとって、この小説はメモ帳のようなもので、まだこれといった問題に偏執的にこだわるほどの準備はできていなかったのではないだろうか。端的にいって、この時点ではオースターは「解決しなければ気が済まない」と切実に思うほどの問題を抱えていない、「問題のない」書き手なのである。
現代の英語の台頭とキリスト教の予言を結びつけてバベルの塔のなんとなく機知に富んだ解釈を披露するなんていうのはどうなのか。20世紀初頭に、アイルランドで起こった「民謡復活運動」を思い出す。あるいは、日本で戦後に起こった「仏教の心の見直し」とか、震災後にしきりに海外に向けて発せられた「日本には仏教的な精神がある」などというメッセージなんかもこれに通じる。要するに懐古主義だが、リアリティーのない趣味的な懐古なのだ。それが問題なのだ。バベルの塔について本気で考えている人だっているだろうが、かれらはオースターの断片的なアイディアなんか折込済みの深い研究をしているだろうし、日本で仏教に本気で興味がある人は経典を読んで修行もしているだろう。アイルランドでだって、結局民謡は大して復活せず、ジョイスやベケットのようなモダニズム作家が人気を集めた。結局、読む人にとって物理的に迫りくるような問題に言及できない小説は淘汰されるのだと思うし、単純な懐古主義が受け容れ難い理由もそこにあると思う。
現代で最も切実な物理的問題は、カネと自由の問題だ。カネを稼ぎつつ、どうやって自由でいられるか。言い換えるならば、都会でどのようにして生存していけば良いか。日本の都会、中国の都市部、アメリカの都市。東京、東莞、ニューヨーク、それぞれに、カネと自由の問題の中でもがいている多くの人々がいる。まずはその人たちの日常に入っていかなければ、具体的な政治的インパクトもないし、単なる現実逃避か、知的な遊戯に終わってしまうだろう。
話は主人公クィンが間違い電話を受け取る場面から始まる。そして、探偵「オースター」と間違えられたまま、クィンはある女性に依頼されてスティルマンという男を尾行するよう頼まれる。このスティルマンは人柄も狙いも謎が多く、素性のしれない男だが、クィンは尾行中に様々な文献やアイディアにこそ出会うがスティルマンの正体はわからず、最後はスティルマンが自殺し依頼主の女性が失踪することで決着がつくのだが明らかに苦し紛れの結末である。物語の中で重要なのはそのため、スティルマンという謎の人物に対する好奇心から意欲的になった読者が、作中に登場する文献・アイディアを積極的に読んでくれることだろう。
しかし、そんなアイディアの数々も、現代の政治的な、あるいは個人的な問題に絡むまで追究されていないため、往々にして何かをほのめかして途切れてしまう。たとえば、クィンが電話帳でオースターの住所を探し当て、オースターの自宅に向かい、ビールを飲みながら話をする場面で、オースターは「『ドン・キホーテ」にはセルヴァンテスの分身が4人登場し、ドン・キホーテ自身は実在する人物である」というテーゼのエッセイを書いている、と話す。そして、『ドン・キホーテ』 は「人は、それが愉快な嘘である限り、どこまでも嘘を受け入れる」ということを説得力をもって証明している、という結論にたどり着くのだが… 「へぇ、面白い」と言う以上に、迫りくるものではない。あるいは、スティルマンの過去の著作に、20世紀後半にバベルの塔が再び完成し、世界は一つの言語によって統一される、という予言を立証するくだりがある。これもまた、恐らく英語が世界を席捲するということを暗にいいたのだろうが、「そうかもしれないけど、だからなんなの?」と思ってしまう。
さらに、終盤でクィンがニューヨーク市街を散歩しながら赤いノートに文章をなんとなく書きつけていく場面があるのだが、その文章が散歩のあとで引用される。そこでクィンは、ホームレスの様子を描写し、本当に技のある大道芸人から、何もなくて純粋に物乞いをしなければならない人たちまでニューヨークにはいる、ということを書いている。たしかにそのとおりだろうし、それは社会問題であるに違いないのだが、ただその様子を描写しただけで、それ以上の政治的なレファレンスもないようでは読んでいるほうとしても痒いところに手が届かない気持ちがしてくる。それにホームレス問題と、バベルの塔の問題と、『ドン・キホーテ』論との繋がりもよくわからない。
一見何かありそうなストーリーを基盤に、色々なアイディアや情景の断片を紡ぎ合わせていくオースターの小説は、なぜこのように尻すぼみで、かつ全体として政治的インパクトを持ち得ない作品となってしまったか? 「オースターはエンターテインメントとしてこの話を書いた」と言ってしまえばそれまでのようだが、さらにそこで「なぜこの話は、政治的な味を含める余地もあったのにエンターテインメント止まりで脱稿したのか?」と問い直してみる。
これは憶測にすぎないが、オースターにとって、この小説はメモ帳のようなもので、まだこれといった問題に偏執的にこだわるほどの準備はできていなかったのではないだろうか。端的にいって、この時点ではオースターは「解決しなければ気が済まない」と切実に思うほどの問題を抱えていない、「問題のない」書き手なのである。
現代の英語の台頭とキリスト教の予言を結びつけてバベルの塔のなんとなく機知に富んだ解釈を披露するなんていうのはどうなのか。20世紀初頭に、アイルランドで起こった「民謡復活運動」を思い出す。あるいは、日本で戦後に起こった「仏教の心の見直し」とか、震災後にしきりに海外に向けて発せられた「日本には仏教的な精神がある」などというメッセージなんかもこれに通じる。要するに懐古主義だが、リアリティーのない趣味的な懐古なのだ。それが問題なのだ。バベルの塔について本気で考えている人だっているだろうが、かれらはオースターの断片的なアイディアなんか折込済みの深い研究をしているだろうし、日本で仏教に本気で興味がある人は経典を読んで修行もしているだろう。アイルランドでだって、結局民謡は大して復活せず、ジョイスやベケットのようなモダニズム作家が人気を集めた。結局、読む人にとって物理的に迫りくるような問題に言及できない小説は淘汰されるのだと思うし、単純な懐古主義が受け容れ難い理由もそこにあると思う。
現代で最も切実な物理的問題は、カネと自由の問題だ。カネを稼ぎつつ、どうやって自由でいられるか。言い換えるならば、都会でどのようにして生存していけば良いか。日本の都会、中国の都市部、アメリカの都市。東京、東莞、ニューヨーク、それぞれに、カネと自由の問題の中でもがいている多くの人々がいる。まずはその人たちの日常に入っていかなければ、具体的な政治的インパクトもないし、単なる現実逃避か、知的な遊戯に終わってしまうだろう。
Wednesday, 19 September 2012
ふるい分けとしての文体
文体とは何かといえば、書き手が世界をふるいにかけるための容器である。
余華の『活きる』を読み終えた。まだ映画の方はみていないのだけれど、少なくとも小説はとても良かった。舞台はおそらく20世紀末の中国のとある田舎町であり、語り手は「中国を旅して民謡を集める仕事をしている」人だという。その語り手が、フグイという男に偶然この田舎町で出会い、話を聴くところから物語りは始まる。斜体で書かれたテキストが語り手の一人称の部分で、そこから自然に話はフグイの一人称で語られ、また折に触れて斜体へと戻り、またフグイへ… を繰り返す。現在と過去のこのリズムが、そのまま中国の20世紀の前半と後半の関係を映し出して鮮烈だった。たとえば、十代では金持ちのボンボンとして娼婦館や賭博場で金を湯水のように使い、ついには家族の財産を全て消してしまった話をフグイはするが、語り手としてのフグイの老いの境地からの声と、語られている側のフグイの唯我独尊な振る舞いの比較が、そのまま近代化以前と以後の中国の姿の象徴になっているようにも感じた。「中国の象徴」といっても、国家としての中国、というよりは、中国という政治的な環境で生きる人のモデル、という意味において。
さらに、余華の文体には、繰り返し「?」記号が登場し、フグイが主人公の語り手に向かって「まさかこうなるとは誰が予想しただろう?」という風に自分の人生の転機を語る部分が頻繁にある。その転機の内容自体は、物語の筋書きとしてはよくあるもの――親族の死、財産の入手、戦争――ばかりなのだが、男やもめとなった農夫の語りで語られると独特の緊張感があり、新鮮だった。物語の後半では中国の赤軍がフグイのコミューンの総長を捕らえて三日間拷問する場面があるが、そこでのフグイの独白:「おれたち農夫に、大きな政治の話などわからない。わからないから、ただお上の言うとおりにするしかない。そしておれたちが総長の言うとおりにするしかないように、総長もまた赤軍のリーダーのいいなりになるしかないのだ。」大きな物語の一部として意識的に政治に関わることができないからこそ、フグイの人生の転機となるイベントはどれも突然の出来事として訪れる。字もろくに読めないし、新聞を買う余裕もない人にとって、これは本当に切実な問題なのだ。ここも含めて、余華の「?」記号の多様はフグイを中国の革命期を生き延びなければならなかった人のモデルとして完成させるのに一役買っていると思う。
また、フグイの語ることの内容のほとんどは、家族に関連したものである。本を読まない人であるフグイなので、例えばゲーテの『若きウェルテルの悩み』の主人公のように高尚な言葉で物思いにふけることもなければ、ジョイスの『若き芸術家の肖像』のスティーヴンのような内面的・孤立した苦しみもほとんどない。あるのは、土地と、家族だけである。その簡素さの裏には、何か新しい切り口で、新しい内面が生まれるような予感もあるけれど、それよりもまずはこの時代に中国に生きていた農夫のリアリティーを考えるための物語をフグイが語っているという点が大切だろう。
一人の農夫の純粋な語りをそのまま書き取ったかのような文体を用いることで、余華は中国の思想や政治の多くをふるい落とすことを選んだ。今存在する一人の人間の統一感を保つために、あえて先人の教えや政治的な大きい言葉を排除して書いた『活きる』は、そういう意味でモダンであり、英語に訳されたものを外国人の読者が読んでも十分に共感できるような普遍的な作品になっているのではないか。
余華の『活きる』を読み終えた。まだ映画の方はみていないのだけれど、少なくとも小説はとても良かった。舞台はおそらく20世紀末の中国のとある田舎町であり、語り手は「中国を旅して民謡を集める仕事をしている」人だという。その語り手が、フグイという男に偶然この田舎町で出会い、話を聴くところから物語りは始まる。斜体で書かれたテキストが語り手の一人称の部分で、そこから自然に話はフグイの一人称で語られ、また折に触れて斜体へと戻り、またフグイへ… を繰り返す。現在と過去のこのリズムが、そのまま中国の20世紀の前半と後半の関係を映し出して鮮烈だった。たとえば、十代では金持ちのボンボンとして娼婦館や賭博場で金を湯水のように使い、ついには家族の財産を全て消してしまった話をフグイはするが、語り手としてのフグイの老いの境地からの声と、語られている側のフグイの唯我独尊な振る舞いの比較が、そのまま近代化以前と以後の中国の姿の象徴になっているようにも感じた。「中国の象徴」といっても、国家としての中国、というよりは、中国という政治的な環境で生きる人のモデル、という意味において。
さらに、余華の文体には、繰り返し「?」記号が登場し、フグイが主人公の語り手に向かって「まさかこうなるとは誰が予想しただろう?」という風に自分の人生の転機を語る部分が頻繁にある。その転機の内容自体は、物語の筋書きとしてはよくあるもの――親族の死、財産の入手、戦争――ばかりなのだが、男やもめとなった農夫の語りで語られると独特の緊張感があり、新鮮だった。物語の後半では中国の赤軍がフグイのコミューンの総長を捕らえて三日間拷問する場面があるが、そこでのフグイの独白:「おれたち農夫に、大きな政治の話などわからない。わからないから、ただお上の言うとおりにするしかない。そしておれたちが総長の言うとおりにするしかないように、総長もまた赤軍のリーダーのいいなりになるしかないのだ。」大きな物語の一部として意識的に政治に関わることができないからこそ、フグイの人生の転機となるイベントはどれも突然の出来事として訪れる。字もろくに読めないし、新聞を買う余裕もない人にとって、これは本当に切実な問題なのだ。ここも含めて、余華の「?」記号の多様はフグイを中国の革命期を生き延びなければならなかった人のモデルとして完成させるのに一役買っていると思う。
また、フグイの語ることの内容のほとんどは、家族に関連したものである。本を読まない人であるフグイなので、例えばゲーテの『若きウェルテルの悩み』の主人公のように高尚な言葉で物思いにふけることもなければ、ジョイスの『若き芸術家の肖像』のスティーヴンのような内面的・孤立した苦しみもほとんどない。あるのは、土地と、家族だけである。その簡素さの裏には、何か新しい切り口で、新しい内面が生まれるような予感もあるけれど、それよりもまずはこの時代に中国に生きていた農夫のリアリティーを考えるための物語をフグイが語っているという点が大切だろう。
一人の農夫の純粋な語りをそのまま書き取ったかのような文体を用いることで、余華は中国の思想や政治の多くをふるい落とすことを選んだ。今存在する一人の人間の統一感を保つために、あえて先人の教えや政治的な大きい言葉を排除して書いた『活きる』は、そういう意味でモダンであり、英語に訳されたものを外国人の読者が読んでも十分に共感できるような普遍的な作品になっているのではないか。
Tuesday, 11 September 2012
普遍語としての英語
一つの言語表現をつくる上で避けては通れないのが、その言葉に特定の意味を与える『背景』だ。文脈、といってもいい。当然過ぎることで、わかりきっていることのようだけど、あまりにも当然すぎるためにかえって理解されていないようにも思える。というのも、言葉を発する際に、その言葉を受け取る側の文化的背景を意識の片隅において、自由に言語表現を選び取って行っている人が果たしてそんなにいるだろうか? むしろ、往々にしてそういった『背景』の存在はなんとなく前提とされているだけではないか?
伝えたいことが辞書的な意味で伝えきれるのならば良いが、小説の言葉は、言外の何かを伝えようとする場合が多いためより一層、言葉を支える背景と、言葉それ自体との関係、弁証法ともいっていいけど、それを意識して綴らなければならないだろう。
少し話しは個人的、具体的になり、本筋から多少それるが、最近高行健(ガオ・シンジャン)の短篇集の英訳を読む機会があった。英語で「Temple」「Buying a Fishing Rod for My Grandfather」と題された二編を読んだが、あまり印象的ではなかった。作者が本当に言いたいことに到達する前に話しが終わってしまっているような気がしたし、文体も作文か日記を読んでいるような気持ちにさせるようなものに思えたのだ。自分の読み方が悪いのか、何か見落としているところがあるのではないかと思い、後日Amazon.comでこの短篇集のレビューを読んでみた。すると、あるレビュアーが、高の作品は中国語ではその文体の独特さや言葉選びの絶妙さによって支持されているのに、この英訳では全くそれが伝わってこない、なぜこのような英訳を出版しようと思ったのかが理解できない、という趣旨の、割と辛らつなレビューを書いているのを発見して納得してしまった。
これに比較して、やはり最近冒頭部を読む機会があった、余華(ユイ・ホア)の長篇小説『To Live』(邦題は『活きる』)は、フォークナーを思わせるようなフォント分けや、かなり緻密な描写などで纏められていて、読み終わるのが楽しみだし、読んでいて作者の言葉が様々な領域を染めていくような心地にさせるものだった。この場合、英語の訳が高行健の場合とくらべて明らかに勝っている、ということもあるだろうが、それに加えて、あるいはそれ以上に大きい要因として、余華の場合、原作が英語訳を意識して書かれている、ということも考えられる。そのため、英語はわかるけど中国語はできない、という、決して小さくない読者層にとっては、高よりも余の作品に惹かれるのではないか。実際に、Amazon.comにおけるレビューの数や購入者数も、後者の方が圧倒的に多い。
これらの読書体験を通して、もう一つ思い出すのは、数年前に読んだ対談集『存在の耐えがたきサルサ』の中で柄谷行人が「韓国の作家の中には、もう英語で書くしかないと思っている人もかなり出てきている」と言っていたことだった。実際にどれだけの書き手が韓国でそう考えていたかは定かではないし、現状をみる限りやはりそこまで単純に英語志向になっているわけではないと思う。 それでも、これからは英語で書かなければならない、と考える姿勢には、どういう読者層を開拓したいか、あるいは言葉によってどのようなコミュニティーや政治闘争を基礎付けたいか、作者の選択が表れるようにも思う。つまり、英語を意識して書くことによって、作者は暗黙の内に「国境を越えて、英語でつながりましょう」と言っているのだ。また、「英語は元々ある特定の国の言葉であり、それが世界を制覇してしまうのは文学の衰退につながるのではないか」というような反論に対しては、「英語を普遍語として拡げることによって、英語が元々、英米人によって限定されていたのを変革していけばよい」と応じれば良い。
大江健三郎の文学、欧米言語を日本語にぶち込むことによって、馴染み深い概念や経験を「異化」していく文学は、英語を世界言語として積極的に引き受けていく作家たちによってこれから乗り越えられていくだろう。それは、日本語から日本語的な部分を全て削りとって、英語と日本語の共通点だけを残して細々とやっていく、ということではない。逆に、日本語しかわからない読者が邦訳を読んでもその作品の本質が伝わるように、英語で作品を書かなければならないということだ。
話を元に戻すと、日本語で書いた文章を「面白い」とか「わかるわかる」とかいう風に受け取ってもらう背景として、日常生活のちょっとしたことの積み重ねがある。そのほとんどは極めて物理的であり、経済的だ。アパートの一室とか、安い家具、安い食材、安いあれこれ、消費物たち、そしてどこに行っても大抵あるコンビニ、駅、銀行。何も能力がなくても、お金さえあれば行ける旅行。セックス、テレビ、パソコン、そして1ページ未満の哲学。レンタルDVDで観る映画、レンタルCDで聴く音楽、携帯電話、少しの自然。そういう環境、「どこに行っても同じ」という言葉が痛々しいほどよく当て嵌まる環境で、「個性」を叫ぶ言葉は特に受けが良いし、それを越えようとあえて匿名的な、冷えた書き方で発せられるちょっとしたメッセージなんていうのも好まれる。結局、それらは一様化された毎日へ、平常心でまた戻っていくための一時的な麻酔薬にすぎない場合が多いのだが、そういう言葉を求めている人は多いし、ウケも良い。
一様化された環境、という背景から逃げられないどころか、ますますみずからの手で一様化をエスカレートさせていく人が読者であることは、英語を普遍語として開拓していこうと考える書き手にとっては良くも悪くもある。一方では、すでにそれ自体として流れるように機能し、人間の誕生から死まですべての側面があらかじめ管理されている環境では、「ここにしかないもの」をみつけるのがほとんど不可能だ。個性や単独性は、あってもなくてもどっちでも良いものとなってしまうばかり。それに対応して、言葉のレベルでも、そういった個性を表現する作業はかつてほどスリリングな、あるいは必要とされるような作業ではなくなっている。これは悪い点。ただし、英語的なものが受け容れてもらえる基盤は、生活の一様化によってむしろ強固になったともいえる。実際、日本では、大抵の場所では英語だけわかればある程度生活していくことができるようになっている。店の名前、企業の名前から、小説のタイトルまで、カタカナ言葉が溢れている。そういう環境は英語によって捕らえ易いものだし、それだけ他の面で英語が自由になる、という良い点はあるだろう。
そういった言語の状況や、言葉を支える背景を考慮にいれて、あらためて日本語を英語的にしていく、あるいは英語を日本語的にしていく作業は、実り多いものになるはず。それは長文を書いて集中的にやっていくこともできるし、毎日の中で自分が発する言葉を意識的に改めていくことで進めていくこともできる作業だ。
伝えたいことが辞書的な意味で伝えきれるのならば良いが、小説の言葉は、言外の何かを伝えようとする場合が多いためより一層、言葉を支える背景と、言葉それ自体との関係、弁証法ともいっていいけど、それを意識して綴らなければならないだろう。
少し話しは個人的、具体的になり、本筋から多少それるが、最近高行健(ガオ・シンジャン)の短篇集の英訳を読む機会があった。英語で「Temple」「Buying a Fishing Rod for My Grandfather」と題された二編を読んだが、あまり印象的ではなかった。作者が本当に言いたいことに到達する前に話しが終わってしまっているような気がしたし、文体も作文か日記を読んでいるような気持ちにさせるようなものに思えたのだ。自分の読み方が悪いのか、何か見落としているところがあるのではないかと思い、後日Amazon.comでこの短篇集のレビューを読んでみた。すると、あるレビュアーが、高の作品は中国語ではその文体の独特さや言葉選びの絶妙さによって支持されているのに、この英訳では全くそれが伝わってこない、なぜこのような英訳を出版しようと思ったのかが理解できない、という趣旨の、割と辛らつなレビューを書いているのを発見して納得してしまった。
これに比較して、やはり最近冒頭部を読む機会があった、余華(ユイ・ホア)の長篇小説『To Live』(邦題は『活きる』)は、フォークナーを思わせるようなフォント分けや、かなり緻密な描写などで纏められていて、読み終わるのが楽しみだし、読んでいて作者の言葉が様々な領域を染めていくような心地にさせるものだった。この場合、英語の訳が高行健の場合とくらべて明らかに勝っている、ということもあるだろうが、それに加えて、あるいはそれ以上に大きい要因として、余華の場合、原作が英語訳を意識して書かれている、ということも考えられる。そのため、英語はわかるけど中国語はできない、という、決して小さくない読者層にとっては、高よりも余の作品に惹かれるのではないか。実際に、Amazon.comにおけるレビューの数や購入者数も、後者の方が圧倒的に多い。
これらの読書体験を通して、もう一つ思い出すのは、数年前に読んだ対談集『存在の耐えがたきサルサ』の中で柄谷行人が「韓国の作家の中には、もう英語で書くしかないと思っている人もかなり出てきている」と言っていたことだった。実際にどれだけの書き手が韓国でそう考えていたかは定かではないし、現状をみる限りやはりそこまで単純に英語志向になっているわけではないと思う。 それでも、これからは英語で書かなければならない、と考える姿勢には、どういう読者層を開拓したいか、あるいは言葉によってどのようなコミュニティーや政治闘争を基礎付けたいか、作者の選択が表れるようにも思う。つまり、英語を意識して書くことによって、作者は暗黙の内に「国境を越えて、英語でつながりましょう」と言っているのだ。また、「英語は元々ある特定の国の言葉であり、それが世界を制覇してしまうのは文学の衰退につながるのではないか」というような反論に対しては、「英語を普遍語として拡げることによって、英語が元々、英米人によって限定されていたのを変革していけばよい」と応じれば良い。
大江健三郎の文学、欧米言語を日本語にぶち込むことによって、馴染み深い概念や経験を「異化」していく文学は、英語を世界言語として積極的に引き受けていく作家たちによってこれから乗り越えられていくだろう。それは、日本語から日本語的な部分を全て削りとって、英語と日本語の共通点だけを残して細々とやっていく、ということではない。逆に、日本語しかわからない読者が邦訳を読んでもその作品の本質が伝わるように、英語で作品を書かなければならないということだ。
話を元に戻すと、日本語で書いた文章を「面白い」とか「わかるわかる」とかいう風に受け取ってもらう背景として、日常生活のちょっとしたことの積み重ねがある。そのほとんどは極めて物理的であり、経済的だ。アパートの一室とか、安い家具、安い食材、安いあれこれ、消費物たち、そしてどこに行っても大抵あるコンビニ、駅、銀行。何も能力がなくても、お金さえあれば行ける旅行。セックス、テレビ、パソコン、そして1ページ未満の哲学。レンタルDVDで観る映画、レンタルCDで聴く音楽、携帯電話、少しの自然。そういう環境、「どこに行っても同じ」という言葉が痛々しいほどよく当て嵌まる環境で、「個性」を叫ぶ言葉は特に受けが良いし、それを越えようとあえて匿名的な、冷えた書き方で発せられるちょっとしたメッセージなんていうのも好まれる。結局、それらは一様化された毎日へ、平常心でまた戻っていくための一時的な麻酔薬にすぎない場合が多いのだが、そういう言葉を求めている人は多いし、ウケも良い。
一様化された環境、という背景から逃げられないどころか、ますますみずからの手で一様化をエスカレートさせていく人が読者であることは、英語を普遍語として開拓していこうと考える書き手にとっては良くも悪くもある。一方では、すでにそれ自体として流れるように機能し、人間の誕生から死まですべての側面があらかじめ管理されている環境では、「ここにしかないもの」をみつけるのがほとんど不可能だ。個性や単独性は、あってもなくてもどっちでも良いものとなってしまうばかり。それに対応して、言葉のレベルでも、そういった個性を表現する作業はかつてほどスリリングな、あるいは必要とされるような作業ではなくなっている。これは悪い点。ただし、英語的なものが受け容れてもらえる基盤は、生活の一様化によってむしろ強固になったともいえる。実際、日本では、大抵の場所では英語だけわかればある程度生活していくことができるようになっている。店の名前、企業の名前から、小説のタイトルまで、カタカナ言葉が溢れている。そういう環境は英語によって捕らえ易いものだし、それだけ他の面で英語が自由になる、という良い点はあるだろう。
そういった言語の状況や、言葉を支える背景を考慮にいれて、あらためて日本語を英語的にしていく、あるいは英語を日本語的にしていく作業は、実り多いものになるはず。それは長文を書いて集中的にやっていくこともできるし、毎日の中で自分が発する言葉を意識的に改めていくことで進めていくこともできる作業だ。
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