Wednesday, 23 January 2013

哲学というより、思想

自分の言葉で哲学をせよ、というヘーゲルの流儀を継いで、日本語で、それも自分の日本語、つまり英語やスペイン語を介した日本語で哲学を模索中。まさに模索中だ。


「哲学」と「Philosophy」は意味がすでに違う。日本語には「知を愛する」意味での哲学は似合わないのだろう。「思想」のほうがしっくりくる。「思う」という言葉が、身近だから。「思う」という、小学生も使える言葉の意味を注意深く考えてみるのは、日本語で思想をするにあたって鍵だと思う(と、ここでも出ました。)

言葉の中に思想のカテゴリーが含まれている、とヘーゲルならば言うだろう。日本語に含まれているカテゴリーは何か。それは言葉全体に染み渡っている思想の特質だ。例えば「流儀」という言葉。あるいは「もったいない」「しょうがない」というときの「ない」という部分。「で、」と話を切り替えるときに起こる思考の動き、転換。「でもさ」という、近代的な切り替えしに比べて何が違うのか。「まあまあ」という具合に、音で直接「思い」を伝えること。そういうようなことに気がついていきたい。それを、単なる思い付きではなく、体系的にまとめる。

これをするにあたって、John R. Bentley氏の書いたA Descriptive Grammar of Early Old Japanese Proseは大いに役立つことになるだろう。



In the wake of Hegel's philosophical maxim to "think in one's own language," I am in search of a way of philosophizing in Japanese, or more precisely in my own Japanese, that is, a Japanese which is also mediated by English and Spanish. Indeed, I am searching.

The Japanese word "tetsugaku" already has a different connotation and meaning from its English counterpart, "philosophy." Perhaps philosophy as the "love of knowledge" is not well-suited to Japanese. "Shiso" - "thought-imagination," if I were to forcefully render the characters into English - is a much better way of putting it. Because the word "thought" (omou, another pronunciation of the shi in shiso) is much more familiar to us. To carefully reflect upon this word, which even elementary school students are good at using, seems to be key for the construction of a Japanese shiso.

Hegel would state that a language contains its own categories of thought. What are the categories included in Japanese? They are the unique qualities which permeate the entirety of a language. For example, the word "ryugi." Or the "nai" in "shouganai" or "mottainai." The turn of thought which occurs when one changes the topic of conversation with a "de," which is not as modern as the other way, "demosa" - and what are the differences between the two? And to communicate a thought through pure sound like "maa, maa." I hope to be more attentive to these and many other such details. And not haphazardly, but in a systematic manner.

In order to do this, John R. Bentley's A Descriptive Grammar of Early Old Japanese will undoubtedly be of great help.

Thursday, 17 January 2013

コリングウッドの仕事に添える言葉

ロビン・G・コリングウッドという人が書いた『哲学の方法についての考察』(An Essay on Philosophical Method)という作品があります。まだ日本語訳はないため、和訳に挑戦してみようと思い、早速作業開始しました。多くの時間を費やす作業となるでしょうが、それだけの価値がこの作品にはあると感じています。

推薦文のような形で、この本に言葉を添えるとしたら…

『哲学の方法についての考察』に添える言葉

伝統的な日本語は哲学には適さない、という説は根強いです。根拠もあります。日本語では「私(I)」を付けなくても文章 の組みたてができますし、言葉を厳密に配置しなくても意味が通じてしまいます。そのため、西洋で発祥した哲学の要求には応じにくい言語なのです。「私」と いう観念は哲学の出発点である上に、それ以後認識の世界を体系的に整理していく作業も、「是か非か」を明確に二分するような言語でないと難しいからです。

例えば、新渡戸稲造の『武士道』のような著作は哲学とは呼べないでしょう。むしろ、プラトンが『ユーテフロ』でいう意味でのPolemicsに近 く、武神に捧げるPolemicsです。『徒然草』などの古典にしても、近代の哲学と呼ぶには及びません。日本に近代哲学の作品がほぼ皆無なことは、認め なければならない事実でしょう。そのため、哲学を日本語で生み出すためには、日本語にすでに含まれている様々な思考の動きやカテゴリーを抽出し、純化する 作業が必要です。その作業に使われる言語こそ、哲学的な言語であり、そのような言語によって書かれた著作こそ近代哲学の作品といえるものなのです。

伝統的な・近代的な日本語に内臓されているものを抽出する新たな言語こそ哲学的な言語です。この言語の創出に尽力することが、現時点での日本での哲学の課題です。日本語では、20世 紀に「文学」の嵐が吹き荒れました。これは、日本語を変革して、読み手の思考そのものを純化したり複雑化したりする運動でした。言葉を使って新しいことを している限りにおいて、何でも「文学作品」と呼びえるわけですが、その中でも哲学的に意味のある仕事は、言葉そのものに注目して書かれたものでしょう。こ れらの仕事は、大きく三つの潮流に分けることができます。

一つ目は、西洋の言語感覚をどう日本語に移植しようかという試みです。「私」「関係」「思考・感情・感覚」などの西洋哲学のカテゴリーを、日本語で どう実感のあるものとして読み手に伝えるか。この問題に挑んだ作品群は、例えば「私小説」の形をとって日本語で様々な実験を繰りかえしました。

二つ目は、近代以前の日本語に含まれていた思考や認識のカテゴリーを純化してプレゼンテーションする仕事です。こちらは、「私」等の言葉を使うときでも、西洋的な「私」とは一線を画しています。例えば、主体(subject)と客体(object)に世界を分けずに、別の仕方で世界を区分しています。弱いものと強いもの、美しいものと凡庸なもの、という具合です。そして、それらの区分がはっきりと読み手に伝わってくるような極端な書き方がこれらの作品中には採用されています。

三つ目は、こららの仕事を解釈し、体系化した批評です。優れた批評家たちは、ある方針をもって批評にあたる場合でも、必ず作品中に書いてあることを 第一に尊重し、作品に対して最大の敬意を払って解釈を行います。そして、その解釈によって、作品のエッセンスを引き出し、数学でいえば定理のようなコンパ クトな言葉にまとめます。それは、作品を読んだことのない読者にとっては死んだ抜け殻のような一言ですが、作品を読了済みの読者にとっては作品の本質を胸 に留める上で大変に便利な詩のような一言です。そして、そのような一言一言を、今度は哲学的な体系として関係づけて行きます。

これらの文学的な仕事たちは、哲学の土壌を着々と準備してきました。もちろん、たかだか一世紀の内に行われた作業でしたので、まだまだ哲学と呼べる ほどの精度には達していません。日本には、自分に偶発的に起こったことをそのまま書き連ねていく文化的な習慣があります。この習慣から脱せずに、やや怠慢 なテキストが書かれることが本当に多いです。『徒然草』にしても、例えば『方丈記』や『枕草子』にしても、そのようなテキストです。その上、これらの作品 は歴史的な興味をひくことこそあれ、現代の切実な問題や欲求に直に訴えかけてくるほどの力はもっていません。いわゆる「文物」なのです。

哲学的な大著を日本語で書く作家が現れるのがいつになるのかはわかりません。ただ、プラトンやヘーゲルの書いた作品に匹敵するものが日本語でも登場 しない限り、文学から哲学への転換は完了しません。コリングウッドの『哲学の方法についての考察』は、この転換のための方針を示す良書です。