Sunday, 26 April 2015

Medúlla and the Human Voice

Medúlla by Björk is an album made of human voices. It would not be wrong to call Medúlla an a capella album, but I think it is a little bit misleading to think about the album in this way. At least in Japan, the term a capella strongly suggests that the human voice is used to mimic the sounds made by other instruments. However, in Medúlla, human voices do not mimic other instruments. Björk does collaborate with beatboxers Rahzel, Shlomo, and Dokaka, but still the beatboxing is very voicy, as if to emphasize that they are not trying to imitate.

The songs are not 100% experimental because they are meant to be pop. I think it is extremely important to make something pop, whether a song or a text. I can imagine how the commitment to pop made it more challenging but also more exciting to make a song out of human voices.

Maybe a better name for the style of Medúlla is not a capella but rather simply voice.

Voice cover of Stonemilker. (Not just Stonemilker, but every cover that DEEP THROAT sings is pure beauty.)

There is something irreducibly rude about the human voice. Without the voice, songs -- and especially pop songs -- tend to turn into polite music. The voice makes a song impolite. The point of doing a voice album is to make impolite music. And music needs to be impolite -- otherwise, it cannot be moving.

Who Is It - Three Voices.

The word "medúlla" means "marrow." I can't quite think of associations between music and the plant marrow. Bone marrow makes a lot more sense. To organize...

(1) Voice is the bone marrow of music. Without the voice, music becomes predictable.
(2) The bone marrow is the music of the body.
(3) The marrow of the bone melts into boiled water and forms the core flavor of soup.

After (3), the voices melt away into the air and the air starts to feel like one big soup for which many different voices form the core taste. With (2), the marrow is where blood is produced and transported for the body. It is thanks to the marrow that the heart can actually pump blood. In English it is common to say "my heart is in it" but perhaps after listening to Medúlla one should also feel comfortable saying "my marrow is in it." And, as for (1), again, the voice is like the place from which the rest of the song receives additional blood. Of course, hands are another unpredictable organ of music, but they are still conditioned by the limits of the instrument, even with the touchpad synthesizer. The voice is something which is really unruly, something which resists being fully controlled by singers and listeners alike.

These thoughts lead me into another conclusion. Medúlla is not about giving any sort of privilege to the voice. Such privileging occurs in, for example, vocal solos in classical music, where the singer alone (and perhaps occasionally the conductor with him or her) stands in the limelight, while the orchestra fades away into the background, at least from the listener's point of view.

Úm Akkeri

Since Medúlla is made of human voices which do not represent instruments, it opens afresh the question: Musically speaking, what is voice?

Tuesday, 21 April 2015

ここ数年感じていることで、色々な人に言ってもいることなのだが、自分はもしかしたら女性的な精神をもっているのではないか、と思う。実際、雄の体にストレートな男性の精神が内臓されていても、雄の体にレズビアンの女性の精神が内臓されていても、どちらの人間も女性に対して性愛を感じるのだろうし、社会的にも区別がつかないだろう。それでも、前者は「普通」だと思われるだろうけれど、後者は「気持ち悪い」と思われてしまうかもしれない。

しかし、とにかく自分は男らしくないといつも思う。それに、男らしくならなければならない、とも思えない。雄の体を持つ人間は男らしくならなければ成熟した個人になりえない、などという偏見は捨てたい。

逆に、雌の体の中に男性の精神が内臓されているような人間もいるだろう。私はこうした人間が実は(かなり個人的に)一番苦手だ。同じくらい苦手なのが、雄の体に100%男性の精神を内臓しているような人。客観的にどうこうというわけではなくて、ただひたすら個人的に、苦手なのだ。

とはいえ、これも単なる毛嫌いではなく、ちゃんと根拠もある。思うに、体と精神の性を統一しなければならない、そして異性のみを性愛の対象とすべきである、などという命令は、それ自体が男性の精神の側から発せられている気がする。性愛やジェンダーに限らず、他の分野でも、男性的な考え方はこういう形をとっていると思う。つまり、「ある一つの形をのぞいて、他のすべてを下に見る」という考え方。逆に、女性的な考え方というのは、「すべてが一番ではない」という形をとるのではないか。

男性や女性になりきれないような人、なりきれないことを悪いとは思っていないけどすばらしいとも思っていないような人が私は好きだ。たぶんそうした人たちに共通するのは、「性については私はまだわからないことがあるから、もっと考えたい」という姿勢だ。

性を生殖機能と混同してしまう考え方はまだまだ根強い。少なくとも、キリスト教的な機関―ロシア正教会やローマカトリック教会など―はこうした立場をとっている。ロシアやアイルランドなどでは同性愛や同性結婚が認められにくい。ただ、新約聖書を読んでみると、イエス・キリスト自身が同性愛を禁じたことは一度もないし、むしろキリストの生き方には、性と生殖機能をしっかり区別せよ、既存の結婚制度に負けるな、という姿勢が含まれている気がする。

性とは体と心のつながりそのもののことではないか。

Thursday, 9 April 2015

オリヴェイラ―『永遠の語らい』

マノエル・デ・オリヴェイラが4月2日に106歳でこの世を去った。

『アブラハム渓谷』を初めて観たのは2011年だった。エマを品定めする二人の老婦人。口を閉じたエマは上品な娘に見えるが、口を開いて笑顔をつくると、大きな歯がむき出しにされ、サメのような表情が現れる。その1シーンだけがやけに「意味」を持っていた。しかし、『アブラハム渓谷』は意味がどうこうという映画ではないように思えた。オリヴェイラは、人が観るべきものを人に観させるためにショットを重ねていたのかもしれない。

それから4年後、ふとしたことで『永遠の語らい』を観ようと思った。そのときはまだオリヴェイラの死は知らなかった。映画を観た今日、初めて知った。

『永遠の語らい』のラストはびっくりする。オリヴェイラの死のニュースがもたらした感情と似ている。語られる歴史は残るが、歴史を語る人はいなくなる―そのことのショックを二度味わった。

ドストエフスキーやトルストイも真っ青になるような見事な対話シーンが『永遠の語らい』の後半部に登場する。そして、ローザ=マリアが会話の輪に加わり、多言語空間が英語一色になるが、この移り変わりが作り出す緊張感がこれ以上ありえないのではないかという程に綿密に、厳密に表現される。

この映画でもまた、観るべきものを観たという満足感が残る。

映画のラストと監督の訃報の二つのショックとはまた別の種類のショックも感じた。それは、映画のラスト近くで、ローザ=マリアが次のように言うとき―「今まで本でしか知らなかった場所に実際に行ってみたいと思ったので。」 それまでのシーンでは、ローザ=マリアがマリア・ジョアンに向けて語り、死んだ風景が教授の言葉によって蘇生されていく。「本でしか知らない」とは本当はどういう意味なのか、俗説や俗っぽい感覚が一掃させられるような台詞だ。

コンスタンティンノープルが中世ではキリスト教の聖堂からイスラム教のモスクへと変わり、現代においては博物館に変わり、「もうここでは祈ることができない」と話が終わる。そして、ローザ=マリアは床につけられた丸天井建造に際しての十字の傷跡をマリア・ジョアンに繰り返しみせてゆく。

まだ映画を自分の一部にできていないうちの、時期尚早なメモ。

Monday, 6 April 2015

恋愛と結婚

恋愛とは何か、結婚とは何かを考えるとき、私はいつもジェイムス・ジョイスとノラ・ジョイスの関係を思い浮かべてしまう。二人の関係の詳細は、ジョイスの書簡集や、リチャード・エルマンの『ジェイムス・ジョイス伝』を読むとわかる。

どれほどのロマンチストでも、恋愛の始まりはフェティシズムだと認めるしかないだろう。つまり、恋愛とはその人「自身」ではなくて、その人の「一部」に惹かれるところからしか始まらない。その人の話す言葉、匂い、動き方、顔立ち、趣味、性格、行動力、等々、色々とあるだろう。

恋愛が深まる転換点はどこかといえば、始めに惹かれる原因となった「一部」が突然なくなってしまうか、あるいはどうでもよくなってしまう瞬間だ。気がつくと、この人の話す言葉は耳障りなだけで、匂いも嫌なだけ、動き方もイライラさせるようなものだし、顔立ちも汚くみえる、趣味も悪いし性格も悪い、行動力があるようにみえて今はもう自分の殻に閉じこもっているようにしかみえない… このようにして、魅力は欠点へとみるみるうちに変貌していく。

しかし、「それでもなぜか、私はこの人と一緒にいるしかないと感じる」とき、恋愛関係は一歩深まる。というより、本当の恋愛の出発点はここである。これ以前はすべて幻想の中の個人的なお遊びにすぎない。相手の「部分」がすべて嫌になったとき、その人「自身」がみえるようになる。それは他の人に「ほら」と言って示せるようなものでもないし、自分でもうまく言葉にできないようなものだろう。恐らく、その人の名前でしか表せないような何かなはずだ。この「何か」とどこまでつながっていけるか―これが恋愛だと思う。

結婚とは、「私はもう人の「一部」に惹かれても、この人の「何か」の方に忠実でいます」と宣言することだ。恋愛の中では自分の中の気持ちでしかなかったものが、結婚によって一種の強制力をもつようになる。しかし、本気で学問を研究したい人が大学という機関へと進まなければいけないように、本気で相手を愛したい人はその人と結婚しなければいけない。結婚とは、「気持ちの上ではもう完全に嫌になっても、なおこの人と一緒にい続けます」という宣言である。

いうまでもなく、結婚はある種の快楽とは無縁だ。ある種の幸せとも無縁である。結婚をしたからといって、何か保障があるわけではない。現代においては、簡単に「離婚」ができてしまうし、離婚をおおごとだとも思わない風潮がある。そのため、結婚することは一層難しい。恋愛の出発点にすら立たないで結婚してしまう人もいるだろう。しかしながら、逆に、初対面に近い相手と、上で述べたような(おそろしいまでに)自由な関係をもつことを決意する人たちもいる。

ノラとジェイムスは、ここまで意識していたかどうかはわからないが、結婚のもつ問題や苦痛を味わい続けながらも最後まで一緒にい続けた。二人は、結婚した夫婦が皆そうするように、互いの最もつまらない部分、嫌な部分、汚い部分を、互いにさらけ出した。

汚い部分、弱い部分、嫌な部分を隠すのは簡単である。しかし、隠してもそれはその場しのぎにすぎない。その分、二人は夫婦としては関わり合えなくなる。「これをみせてしまったら、もう相手は私のところから離れてしまうのではないか」―怖くて隠し、距離ができる。相手を信頼できない印だ。結婚とは何かをわかっている人と一緒ならば、そこまで怖がる必要はないはず。

Thursday, 2 April 2015

ベーシックインカムの基本がわかる動画二つ

ベーシックインカムと統治通貨はセットである―白崎一裕氏と田中康夫氏







「生存」が最優先事項になってしまう社会はもう卒業すべき―波頭亮氏と宮台真司氏