Friday, 31 August 2012

時空間

カントを読みすぎた人が書くような御題が続いているが、決してカントを意識してのことではない。自然にそうなってしまうのは、それだけカントの哲学が何か核心に迫るものがあったのだろう。とにかく、ここは哲学を扱う場所ではない。徹底的に考える場所でもない。思いつきを無責任に書く場所に過ぎない。

今日の思いつきは、物語の文章と時空間の関係。

通信手段や移動手段が高速・長距離・身近となったことで、時空間が縮小されたかのように感じる、というのは別にアカデミックな方々に言われるまでもなく、前世紀と今世紀とを比べれば一発でわかる。でも、日本語の使われ方、特に小説における使われ方は、まだまだその変化に適応できていない。

例えば、携帯電話の普及、それも3Gワイヤレスに接続することによって世界ネットワークがあるような状態においては、会話とか、自然な注意の流れが大きく変わってしまう。以前は、例えば眼の前のものをみてそれについて考えたり、遠くのあの人に思いを「馳せる」のが自然だった。今は違う。遠くのあの人には思いを「馳せる」のではなく伝えれば良いのだし、眼の前のものなど、世界中を写した写真や動画との競争の前に一瞬でつまらないものになってしまいかねない。距離的に近い、遠い、というのはもう意味が無い。眼前のものごとや、今現在のことだけに注意を奪われている人物を描くようなことは話にならない。たとえリアリズムであっても、ただその人物の身近のことをさりげなく書くのでは現実的などころかむしろわざとらしいし、その人物の品位のようなものも落としかねない。時空間的には、拠り所となる地点などない。ここで、例えば風景描写一つとっても、あるいは思考や会話の流れ一つとっても何をどのような順番で並べてゆけば良いかを新しい仕方で決断していかなかればならない。眼の前の人物と話すことは自然ではない。今起きていることにそのまま感情的に反応しているのも、自然ではない。

時空間上のあちこちで起きていることを自由に紡ぎ合わせてゆくのには、書くほうも新しい課題を沢山乗り越えていく必要がありそうだ。

Tuesday, 21 August 2012

もの自体

大江健三郎の『取り替え子』を、終章を除いて読了した。タイトルに関する種明かしはどうやら終章で行われるようなので楽しみなのだが、一つ発見したのは、今までの大江小説の中でおそらく初めて、大江は意識的に繰り返し「もの自体」というフレーズを使っている点。同じく多様される「アレ」という代名詞と並んで、印象的だった。

小説家が意識的に「もの自体」と書くとき、それは言葉側からの、世界の側への敗北宣言とも解釈できてしまう。

これは非常に難しい問題で、要するに言葉と世界との関係、あるいは言葉と、そこから沸き起こる感情や印象などの関係をどう構築していくかということだ。小説の言葉を無味乾燥な、作者の工夫などほとんど感じられないものに設定することで、そこに書かれている内容を引き立てようとするやり方。あるいは、言葉に工夫を凝らし、読者が見覚えのあるはずの景色を改めて新鮮なものとして経験させようとするやり方。迷う選択である。欲をいえば、両者を一度に達成したいところだけど、これは至難の業。偶然によるところも少なくないし、意識的に達成できるようなことではない。

さて、だからといって、一方に偏りすぎてしまうのは問題だと思う。大江はそこのところを自己批評しつつ、「もの自体」というフレーズを導入したのではないか。

だからといって、では「もの自体」を言葉をとおしてみつめなおすのをどうやれば良いのか、といえばそれは容易には説明できない。Tellではなく、showでしか伝えられない。「もの自体」も、あまりにも透明な言葉で表現されてしまっては、それこそ仏教的な解脱の域に達して、万物は無常である、とかなんとかいう抽象的で実感の薄いところへ嵌まり込んでしまうだろう。

以上のことを考慮にいれて、改めて思うこと。一応の結論としては、言葉を考える上での出発点は常に「もの自体」であるべき、ただ、言葉が「もの自体」を変形する瞬間があっても、それが印象的であれば大丈夫。これより先は、tellではなくshow、語るのではなく示す他ないように感じている。

Wednesday, 1 August 2012

つくる

カナダのUBCに在学中に綴った雑想集から移転しました。

ウェブ上での移転の理由は、地理的な移転とも関係しています。カナダでの生活中、生活の中心は英語でした。英語は、音楽的な、ナンセンスな言葉ではありますが、同時に厳密でもあり、また何よりも哲学の洗礼をうけた言語です。そのため、英語の言語感覚には、常に白紙から始めるような気持ちにさせるところがあります。つまり、会話や書簡などに際して、あらかじめ何か了解事項を土台として言葉を綴ることが難しいのです。

日本語はむしろ逆です。どれだけ多くの了解事項を、直接的には言葉にせずに、少ない言葉の中の「味」や「含み」で伝達するか。これが日本語の美の基調であります。例として、「わたしはあいつが嫌い」という文章を考えてみますと、英語では即座に「嫌い」の意味をもっと厳密にしろ、どこがどう嫌いで、それは何故そうなのかをもっと言え、という圧力が言語の側から伝わってくるようでもあります。日本語ではどうかといえば、この一言ですべて言い切っている、これ以上の説明はくどくどしいだけで不要である、となるでしょう。むしろ、この一文すら長すぎる場合もあり、「なんかヤダ」などといった、主語すらかけているフレーズで事足りてしまうことしばしばです。これで伝わることが日本語の快楽とでもいうところで、ちょうど剣術の見習いが一刀両断の快感をおぼえ、味をしめるのと似ています。

さて、最近カナダから日本に移ったことで、言語的な移住も行われたのです。それは、しばらくは日本語の中に住むことを決めた、ということです。 『日本語づくり』という題字は、ちょうどデカルトが数学や哲学を建築にたとえて、一気に建てたものこそ良いのだ、と考えたように、こちらも日本語を建築としてとらえて、一気に建ててみよう、という計画を込めているわけです。ほとんど中身のない、定まらない計画ではありますが。書いた側から消えてゆくようなこのような言葉も必要ですが。