Tuesday, 30 December 2014

History of Negative and Complex Numbers

Textbooks in mathematics tend to contain very sloppy history. For example, one textbook on abstract algebra claims that mathematicians had disputes over negative and complex numbers because "the idea of a system of numeration which included negative numbers was far too abstract" and because "they couldn't find concrete examples or applications" (A Book of Abstract Algebra, 1990, p.2).

It is quite obvious that the disputes over negative and complex numbers were not due to lack of intelligence on the mathematicians' part nor to the lack of "concrete" (whatever that means) examples or applications. In fact, it was the same mathematicians who contributed most to the development of methods using negative and complex numbers, and these same thinkers had no problem finding "concrete" examples, chiefly that of debt and of squares.

Other books deal with the history of negative and complex numbers differently. In Negative Math: How Mathematical Rules Can Be Positively Bent, Martinez presents a much more nuanced history behind these disputes. Martinez shows, for example, that one chief concern with negative numbers is its lack of symmetry with positive numbers. While it is true that part of these problems were due to the types of intuitions which the mathematicians replied upon, it is perhaps more accurate to say that the chief problem was how to integrate and incorporate negative and complex numbers into the system of numbers as it was generally accepted at the time.

The problem, therefore, was not the lack of concrete applications, but rather the lack of a clear and concise way to relate negative and complex numbers to various other operations already accepted in mathematics.

This way of looking at the history of negative and complex numbers allows us to avoid certain prejudices which seem to color certain textbook account of the same history. According to the latter, mathematics prior to the 20th century was a jumble of confusion, and while it may hold some "historical" (meant in a derogative sense) interest for us, it does not present us with anything more interesting or worth grappling with. However, the fact of the matter is that this history is essential in understanding why negative and complex numbers are treated in the way they are today, at least at the university undergraduate algebra course level. As Martinez observes, many of those old problems disappear not because they are simply discarded, but because they are set aside unsolved and then are not taken up by others later on.

Monday, 29 December 2014

理念は出発点を産出する

年末も近付き、まずは自分の身辺のことからと、カーテンなど洗濯をし、狭いアパートだが隅々まで水拭きをし、年越しに備えて買い物をし、そしてヘーゲルの『論理学』についてのメモを完了した。

理念の章は「生命」「認識」「絶対理念」の三部にわかれる。生命では、理念が個体となる。個体は自らの外、環境を自ら産出する。この環境と個体とが対立する。環境の中には、この個体を生成するために必要な物質が存在する。こうした物質を存在せしめているのもこの生命体である。こうして、生命体は繁殖し、死滅する。新しい個体を自らの環境の中から産出する生命は「類」である。

類はしかし、環境の外部にあるものごとを自らの一部としきれていない。ここに「類」の抽象性がある。類として存在する生命は、その外部と関わっている。生命体とその環境との全体としての生命が自らの外部と関わること―これが「認識」である。

認識には二種類ある。まず、真実の理念、理論である。理論では、外界がそのままの状態で類と対立する。類はこの外界をまずは「分析」し、受容する。つづいて、生命はこの外界を自らの内に理念的に再構成する。そのために必要となる手続きは「定義」「区分」「定理」である。理論はこうした手続きを踏んだ上で、外界を「証明」してみせる。しかし、この証明の出発点は「定義」であり、定義は外界から「与えられた」ものごとに依拠している。そのため、理論にはまだ抽象性あるいは偶然性が伴っている。

理論の外界への依拠を解消するのが、認識の二つ目の種類、善の理念、行動である。行動とは、定義を自ら産出することである。例えば、理論においては「平行線は交わらない」といった定義が「平行線そのもの」によって「与えられた」かのように存在するが、行動においては、「平行線は交わらない」という定義によって、平行線そのものがそのような規定をもって存在するようになるのである。

ただし、数学ではこうした「行動」は不可能である。というのも、数学は抽象的な科学であり、実存する理念のもつ具体性をもたないからである。そのため、さきほどの平行線の例はあまり良い例ではないかもしれない。行動の具体例としては、例えば商売における「売買」などの方が優れている。値段というのは売買の過程において決定するが、それはこの過程以前から定まっているわけではない。こうした意味で、行動は理論のもつ偶然性を解消し、理論における出発点が同時に理念によって産出されたものとするのである。

理論と行動とは理念の発展の二つの要素であり、互いに対立してはいるが純粋に区別されることはない。理論の対象となる規定はすでに行動によって産出されており、行動によって産出される規定はすでに理論によって認識されているのである。このような運動が「絶対理念」である。

絶対理念は、理論の出発点となっていた「外界」を抹消する力をもつ。具体的には、次のような運動をする。まず、理論は理念の規定として「AはBではない」という判断をくだす。これが第一の否定である。この否定によって、理念は具体的な内容を獲得する。つづいて、行動は「AはAではないものではない」という形で判断を解消する。これが第二の否定、否定の否定である。これによって、Aという規定は単独性を獲得し、あらゆる他者に対して絶対的に安定する。さらに、絶対理念は第三の否定を行う。「AはAではないものではなくない」という具合である。これによって、AはBからの区別による規定を失い、また何かの否定によって規定を得ることそれ自体もなくなるのである。これによって、Aは純粋な「出発点」となる。これが、絶対理念により出発点の産出である。

理念は出発点を産出することによってその役目を遂げる。もちろん、出発点は何度も産出されうるので、理念に適うだけの密度と主観性とを備えたものが登場するたびに新しい出発点が生まれるだろう。つまり、研究の対象となると同時に、この研究によって形成されうるような理念が登場するたびに、出発点は産出されるのである。

ヘーゲルの時代においては、論理学によって純粋理念が産出され、自然哲学によって自然の理念が産出された。また、マルクスは『資本論』によって資本の理念を産出し、新しい出発点を提示した。他にも、芸術の理念、神の理念、学問の理念、歴史の理念などが産出された。こうした理念はそれぞれ具体的な規定を持ちつつ、同時にある特定の過去にはひきずられずに自由に発展する思考形式の全体である。

Sunday, 28 December 2014

思想の科学とひとびとの哲学

鶴見俊輔をはじめとするメンバーによって展開された運動に「思想の科学」および「ひとびとの哲学」がある。今年の7月に、この思想の科学についてNHKでドキュメンタリーが放映された。このドキュメンタリーや『共同研究・転向』からみえてくるこの運動の原理は次のようなものである。

  • 思想は使うものである
  • 日本を戦争に導いた政治体制を批判しなければならない
  • なぜ戦前・戦中の知識人たちは公の場で戦争反対ができなかったのかを解明する
  • 人民の「ふつうの言葉」によって戦争を批判し平和を追求できるようにする
  • 戦後の「芯」となる思想をつくる

こうしてまとめてみると、思想の科学やひとびとの哲学は、政治運動ではあっても哲学ではない。哲学とはいえない理由は主に三つある。

  1. 著作物の内容が「貝殻的人間」などといったいわゆる感覚的な表現と、「転向」といった政治的表現とによって占められている
  2. 戦争のありのままを描くという作業と戦時中の体制や知識人、民衆を問いただすという作業とが混同されている
  3. 平和を築くという政治的な意図が著作物の内容をあらかじめ決定している
NHKのドキュメンタリーを観ると、「~べきだ」「~を感じた」という言い方が頻出する。ここから、規範意識と感覚とが思想の科学の支配的な位置を占めているのがわかる。例えば、「人民が哲学者になるべきだと思った」というような言い方がそれだ。

なぜ感覚や規範意識は哲学の妨げになるのか。

ヘーゲルの言を借りると、哲学とは「ある時代を思想によって表現すること」である。思想とは、比喩や政治や規範などにも暗に含まれてはいるが、そういった形式では純粋には表現されえない。思想とはそうした感覚的・規範的・政治的な側面を排除した言葉によって表現されるからである。

例えば、「あの知識人は転向すべきではなかった」という言い方は、「知識人は思想と行動とが矛盾してはならない」という道徳規範を含む。「民衆は貝殻的人間だった」という言い方は「貝殻」という具体的なイメージを含む。含むだけではなく、そうした規範やイメージを抜きにしては無意味となってしまう。しかし、例えば「知識人は自分の行動がどうであれ真実や理想を説くべきだ」と言ってみることも可能である。ここにも道徳規範が含まれる。そして、この道徳規範からは、「あの知識人は転向してもよかった」という結論が導かれるだけでなく、そもそも「転向」などというものは思想的意味をもつのか、という疑問すら導かれる。また、「貝殻」の代わりに「火の玉」を使えば、戦争を肯定する人間像を容易に描くことができる。いずれの場合でも、あらかじめある規範やイメージに従っている状態でしかその思想を理解することも真実として認めることもできない。しかし、これでは何の証明にも推論にもならない。よって、感覚や規範は哲学にはふさわしくないのである。

また、「人民が哲学者になるべきだ」という規範意識も疑問である。戦争に反対する必要性と、哲学者になる必要性とは結びつかない。もちろん、哲学者の中には戦争反対をするだけの勇気を持っているひともいるだろうし、逆に戦争反対をする個人の中には哲学者もいるかもしれない。しかし、哲学者であることと戦争に反対することとの間には、非常にゆるいつながりしかないのである。

というのも、戦争に賛成か反対かといった問題は、哲学者にとっては大切ではないからである。哲学者にとって重要なのは、天皇制を敷く憲法国家が戦争をするのはなぜかという問いである。戦争は実際に起こった。人々は戦争をした。それはなぜなのか。このことを、全く抽象的な立場から思想によって表現するのが哲学者である。

哲学者になるのは容易ではない。というのも、哲学者とは、科学や常識の自明性を捨てるからである。例えば、戦争の一要因として個人の責任をあげるにしても、哲学者は「もしこの個人が違う決断をしていれば戦争は防げていた」というような個人主義に凝り固まってはいけないのである。逆に、「このような社会制度さえあれば戦争は防げていた」「このような文化的風習のせいで戦争が起こった」というような説明も、それなりに真実ではあっても自明のもの、十分なものとしては認めることができない。「近代国家とは何なのか」「なぜ近代国家は戦争をするのか」という根本的な問題から始めるのが哲学であり、日本の体制や文化、指導者たちをベースに戦争を研究するのは心理学、社会学、あるいは政治科学である。

思うに、人民は哲学者になる必要がない。つまり、あらゆる学問を修め、それによって時代の全容をとらえ、その全容を思想によって表現するという作業をする必要がない。しかし、哲学を一般教養としてある程度修めること、哲学の門戸をより多くの人に開くということは重要だと思う。そのために、なるべくわかりやすい言葉で思想を表現するということは大切である。そうはいっても、感覚的イメージや規範意識などに訴えかける言葉は、哲学にはふさわしくない。そのため、哲学とは必然的に大衆受けしない学問となってしまうのである。あるいは、大衆受けする「哲学」として出回っているものはどこかで美意識や規範意識などに一方的にうったえかけているためいかがわしい。

「思想の科学」の出版物の中には、民俗学や社会学、政治科学と呼ぶにふさわしいテキストがたくさん含まれている一方、論理学や自然哲学、政治哲学といった純粋な哲学思想がほとんど見当たらない。

この運動の政治的な意図は立派なものである。また、ここに投稿した書き手たちは皆それぞれ非常に深く自分の題材を研究し、「お守り言葉」ではない言葉によって研究成果を書き残している。 こうした意味で、思想の科学は非常に有益な運動である。

ただし、哲学とはそうした政治的意図をもっており、イメージや感覚に頼った言葉によって展開しても良いのだ、という立場を暗に表明している点では、思想の科学には問題がある。恐らく、この運動のメンバーたちは、「思想によって時代を表現したい」と感じていたとは思う。しかし、実際にかれらが出版した作品群の中には、この感情が十分に反映されていない。なぜ日本は戦争をし、戦争によって日本はどのような国家となったのか―この問いが哲学的な意味をもつ限り、これはまだ未解決なようである。

Saturday, 27 December 2014

哲学の本の構想と悩み

『論理学』に関するメモがそろそろ完了する。残すところは「概念論」の「理念」の章だけだ。このメモを元に、ヘーゲルの論理学についての本を書きたいと思っている。

思ってはいるのだが、悩みがいくつかある。まず、「ヘーゲル」という名前をあまり本文で使いたくない。例えば、数学をまるっきり知らない人が、「ツェルメロ」や「ゲーデル」といった名前が頻出するテキストを読むかどうか… 書き方にも拠るのだろうけれど、人名を出しすぎると文章の内容に注ぐべき注意力が削がれてしまう可能性がある気がする。

次に、単に『論理学』の要約がしたいのではないが、ではどのような現象を題材にすれば良いのかというところで悩んでいる。日本の憲法改正議論や自然災害を題材にしたいとは思っているが、芸術や科学などの分野ではいまひとつ焦点が絞れずにいる。数学では「計算可能性」を扱いたい。

本の内容や書き方についての悩みに疲れると、表紙についてあれこれ考えるのが気休めになる。ヘーゲルは仕事机に嗅ぎ煙草を常備していたので、年寄りの手が嗅ぎ煙草をつまんでいるところのデッサンみたいな表紙が良いと思った。煙草の煙が、「Ἓν καὶ Πᾶνh」 (en kai pan)の三語となる。



クリスマスカードが何通か届いたが、その一つの差出人が「Santa」となっていた。しかもカードの中のサインも「Santa」。粋なことをする人もいるものだ。

クリスマスや年末年始であるにも関わらず、働いている人たちがたくさんいる。以前は、年末を迎えても時間の経過を感じずに新鮮な気持ちだったのだが、今年は時間の経過をやけに重く感じてしまう年末となりそうだ。自分はクリスマスや年末に働きたくはないが、働いている人たちも大勢いる。 


久しく新しい本を購入していなかったが、『Computability and Logic』『Book of Abstract Algebra』『ヒナギクのお茶の場合』を買った。芸術では多和田葉子さんの小説について何か書きたい。彼女はゲーテくらいすごい書き手だと思う。

Thursday, 18 December 2014

学校に行く理由

学校という概念があるとしたら、それはどのような概念だろうか。

学校を最も簡潔に定義するとしたら、「学校とは学ぶ場所である」となるだろう。しかし、この定義は昨今の学校の実態とかみ合っていない。

思うに、本当に生徒が学ぶ場所は、塾や友人の家や図書館や喫茶店や電車の中などである。学校とは、生徒にとっての職場である。つまり、生徒は学校で「業績」ならぬ「成績」を修めることを求められる。失敗や寄り道は許されてはいるが、その代償として自分の評価が下がり、それが将来の不利益につながることもある。ちょうど職場で職務をこなせない社員が減給になったりクビになったりするのと同じように、学校という場所で結果を残せなかった生徒は低い成績をつけられたり留年したりする。

このように、学校は「自由に学ぶ場所」ではない。学校で学ぶこともあるが、それはあくまで二次的な副産物である。極端な話、学校で何も新しいことを学ぶことができなくても、完璧に生徒としての義務を果たせばそれで良いのである。

自由に学ぶとは、ではどういうことなのか。それは、失敗が忘れられるような環境で学ぶことである。例えば、数学を学ぶときに、三角比が苦手な生徒がいるとする。この生徒は、どんなに頑張っても、三角比の相互関係を使った問題が解けない。学校では、これができないということがテストの結果という形で(大袈裟な話)一生記録に残る。高校の通知表を見れば、「ああ、この生徒はここでつまづいたんだな」と誰でもわかるようになる。生徒もそのことは重々承知しているので、三角比の相互関係を使った問題を解く意欲は無くなるだろう。というのも、そこで足踏みをしたり大失敗をしたりするのは、生徒にとって「不利」に働くからである。

対して、塾では学校の成績表のように生徒の成果が記録に残らない。もちろん、塾の記録には残るが、塾の記録は生徒の将来にほとんど影響を及ぼさない。そのため、生徒はテストであらゆる失敗をすることができるし、全く理解できない単元で足踏みすることが許される。これが、自由に学ぶということの大切な一要素である。

教える側にとっては、この「自由に学ぶ」段階で最も腕が試される。教師は、生徒を単に評価する立場から、生徒の悩みを聴いて生徒にとって必要なことをする立場へと、立場を変える必要がある。これがけっこう難しい。例えば、「この生徒は三角比の相互関係でつまづいている」ことは簡単にわかるし、それを生徒に言うのも簡単だ。しかし、「なぜこの生徒はここでつまづいているのか」「この生徒はどのようにつまづいているのか」という問いに瞬時に答えるのは難しい。この生徒は何かを勘違いしているか、あるいはある「思考の悪癖」を持ってしまっている。この「悪癖」は何なのか、それはどのようにすれば乗り越えられるのか。

昔数学が苦手だった人の方が数学を教えるのが上手、といわれる所以はこのあたりにあるのだろう。

もちろん、これは生徒と「等身大の目線に立つ」などという意味ではない。教師は生徒と等身大になってしまっては良くない。教師は常に生徒よりも上である。よく、「私は生徒から多くのことを教わっている」と口にする教師の姿を眼にするが、生徒たちにはそれを言うなと思ってしまう。教師は実際に生徒よりも上であり、かつ生徒から「自分よりも上」とみられることによってでしか良い仕事ができない。それを、生徒に「僕は君たちから学んでいる、これは学び合いだ」などと言ってしまっては、こうした立場の違いがないもののようになってしまう。

とにかく、学校は「学ぶ場所」というよりはむしろ「結果を残すべき場所」になっているのが現状だろう。 これが良いのか悪いのかは、学校の概念とは何なのかを考えた先にわかるはず。

Monday, 15 December 2014

リベラリズム・選挙結果・プーチンの右腕

最近、苫野一徳という若い哲学研究者のブログを読む機会があった。1980年生まれと若く、また文章も読みやすい。その上、作家や他の哲学研究者たちと積極的に公開対談などのイベントも行っている。脳科学における茂木健一郎氏のような存在に、哲学の分野においてなってくれるのではないかとすら思ってしまう人物である。

苫野さんは今年の5月に「TED×Tokyo」でスピーチを行った。 このスピーチで、苫野さんは「哲学は役に立つ」という主張をした。具体的には、哲学は「信念の対立」を克服したり、「鬱を治したり」することができるらしい。どのようにそれが可能なのかといえば、苫野さんによると、それは二つの原理から可能になっている。一つ目は「欲望相関性」、二つ目は「相互承認」。

「欲望相関性」によれば、私が何か「信念」をもつとき、その信念をもつ理由は私の欲望によって説明できる。苫野さんの例によると、例えば「いじめ厳罰主義」を信じる人は過去にいじめられた経験があり、それによって「いじめをする人に復讐をしたい」という欲望を持っているかもしれない。対して、「やりなおし主義」を信じる人は、過去に誰かをいじめていた経験があり、いじめっ子である自分にやりなおしの機会を与えてくれた指導者をもっていたかもしれない。そのため、「いじめをする側にもやりなおしの機会を与えたい」という欲望を持っており、このような信念をもつに至ったのだろう。こんな風にして、人のもつ信念は、その人の個人的な体験やそれから生じる個人的な(あるいは主観的な)欲望へと還元される(あるいは、少し悪い言い方をしてしまえば、「すりかえられる」。)

「相互承認」によれば、私たちは信念が対立しあうときでも、まずは自分とは異質な信念をもつ相手を「承認」すべきである、ということになる。ただし、これは条件付きだ。苫野さんはここに、「人を傷つけない限り」とりあえずは認め合う」と付言している。つまり、他の人を「傷つける」可能性のある信念は、そのまま認めてしまってはいけないというわけである。こう言い添えた上で、苫野さんは、「この原理は民主主義の根本にある」と言う。苫野さんのスピーチはこの辺りで完結する。

このスピーチは、リベラリズムの考え方をとてもわかりやすく提示している。あらゆる信念を個人の「欲望」に置き換え、個人同士を「相互承認」させることで実質的に無力にする―リベラリズム的な支配とはこういうものだ。

たしかに、「人を傷つけない」信念に関しては、そのまま「承認」することもできるだろうし、それが無難だろう。しかし、そのような信念はそもそも「承認」される必要もない。承認される必要のある信念とは、必然的に他人を「傷つける」可能性をもっている。例えば、「いじめ厳罰主義」「やりなおし主義」は、どちらも人を傷つける可能性を持っている。具体的には、前者はいじめっ子やそのいじめっ子に厳罰を加える人々を、後者はいじめられっ子ややりなおしの機会をつくる教員たちを。

すると、どちらの主義を「承認」するかは、単なる「欲望」の問題ではなくなる。しかし、リベラルな考え方は、この点から眼をそらすための言い訳としても機能しうる。例えば、「やりなおし主義」を唱える人は、本当に自分の立場が善いと信じており、信じているだけではなく経験的にもそれを感じており、また自分の経験などという狭い尺度ではなく、ちゃんと色々な調査をした上でこの結論に論理的に辿りついたはずなのである。「いじめ厳罰主義」を唱える人も、それは同じだ。すると、それぞれの「信念」を唱える人の個人的な経験や欲望は、この議論には関係がない。この対立はあくまで論理的に解決されるべきであり、議論を行うべきは専門家である。

さて、「いじめ問題」の例では、厳罰主義とやりなおし主義のどちらがいじめを抑制できるのかを実証的に調べることができる。(つまり、全国調査をして統計をとったり、教員や生徒にインタビューをするなどして。) しかし、実証的には解決できない問題もたくさん存在する。

例えば、「今回の衆議院選挙は何だったのか」という疑問に対しては、さまざまな主義主張があるだろう。また、「そもそも衆議院選挙とは何なのか」という疑問に対しても同様である。しかし、こうした疑問は、過去に行われた衆議院選挙を観察しただけでは解決することが到底できない。それでも、こうした疑問は解決されるべきである。では、どうすれば良いのか。

選挙結果をみて、色々な信念を抱く人がいる。かれらの信念を「承認」すれば、それで良いのか。その程度の信念なのであれば、さきほども述べたように、そもそも承認する必要がない。個人的な空想にすぎないからである。承認するに足る信念とは、何の理由もなく承認してしまってはいけない。しかし、選挙に関する哲学的理論は、実証的に裏付けることができない。では、どう裏付ければ良いのか。その理論に使われているカテゴリー(思考形式)が果たして演繹されたものなのか、それとも無根拠なものなのかを問う、という方法がある。ここではしかし、この方法にはこれ以上深入りしない。

リベラルな考え方に対して、ロシアは対立している。プーチンの右腕の理論家に、アレクサンダー・ドゥーギンという人物がいる。ドゥーギンの政治思想がどのようにリベラリズムと対立するのかを、マイケル・ミラーマンが説明している動画がある。

ミラーマンによれば、リベラリズムにおける「相互承認」とは、リベラリズム的な形而上学(あるいは「世界観」)を暗に強要している。具体的には、あらゆる問題を「個人の選択の自由」に置き換え、「資本主義」や「議会民主制」などといった制度への批判は許さないのである。また、「宗教」や「教育」、「家族」などについても、伝統的な価値観をリベラリズムは暗に壊す。これも、「個人の選択の自由」という考えが壊すのである。

これに対して、ドゥーギンはロシアに「ユーラシアニズム」という思想を見出す。これによれば、ロシアは個人ではなく共同体のレベルで人々が信念を持つことができるようにすべきである。例えば、「一夫多妻制」を重んじている共同体は、この信念が持続されるような領土と経済状況とを確保されるべきである。あるいは、「ロシア正教会」も、礼拝などの儀式を行えるような環境(教会や休日など)を保証されるべきである。これらは、単なる「個人の選択の自由」の問題ではないからである。

こうしたロシアをつくるためには、ドゥーギンいわく、現在のロシアの影響力を広め、「ユーラシア」を構想(あるいは奪還)する必要がある。ロシアは元々アジアとヨーロッパとにまたがる広大な領土をもつ国家だった。それが、シノソヴィエト連邦の崩壊後、領土が急速に縮まってしまった。これは、1000年の歴史の中でも初めての事態である。ロシアが「ユーラシア」をどのように実現するつもりなのか(占領によるのか、国連のような形なのか)について、ミラーマンもドゥーギンも具体的なことを言っていない。

さて、「ユーラシアニズム」は、「リベラリズム」とは明らかに対立する考えである。これを「承認」するためには、例えば「自由とは個人の選択の自由である」といったような考えを放棄しなければならない。具体的には、ウクライナのような国家は、リベラルとなるかユーラシアンとなるか決断を迫られるのである。ここでは、「相互承認」といった考えは全く無力なものとなる。

さらに、これはドゥーギンやプーチンの個人的な過去や経験、欲望に置き換えて議論できる問題でもない。極端な話、かれらが皆躁鬱にかかって機能不全に陥ったとしても、リベラリズムかユーラシアニズムかといった議論は続くし、色々な国家に属する数多くの市民がこれに深い影響を受けることになる。(例えば、宗教、家族、仕事をどうするのかといったことだ。)

こうしてみてみると、リベラリズムは、より大きな対立の一項目である。リベラリズムとユーラシアニズムの対立は、その全体もまた二つ存在する。つまり、リベラルな視点からみたこの対立と、ユーラシアンな対立からみたそれとである。全体としても対立しあい、二つの全体像の内部においてもそれぞれ対立している―これが政治思想の対立の構図である。

ヘーゲルはこうした複雑な対立の構図を丁寧に描くことに専念した。現代においても、優れた政治哲学者はそのような仕事をしている。ドゥーギンはその一人である。哲学を学ぶことによって鬱が治るのは素晴らしいことだが、哲学が「役に立つ」かどうかはそうした個人への効力で議論すべき問題ではない。哲学の意義は、信念の対立の構図を描くことである。そして、対立する信念の内、どちらがより優れた信念なのかを論理的に決定することである。「みんなちがってみんないい」という立場は、あくまでリベラリズムの一方的な考えなのであり、哲学の根本原理には到底なりえない。

(今回の衆議院選挙は、小泉純一郎の劇場政治よろしく茶番であった。具体的な論点がないのである。安倍首相は、「消費税増税を先送りするという決断をしたが、それが公約違反なので、国民に改めて信を問う」という大義名分を掲げてはいるが、実際は自分の内閣や自民党の政治を延命しつつ改めて正当化するために選挙をしたのである。私は、一部で声高に叫ばれているほどに今の政権に危機感を持っていない。持つ必要がないからである。安倍内閣は小泉内閣と同じ「劇場政治」であり、実質がない。たしかに、雇用率の問題やワーキングプアの問題、過労の問題、家族崩壊の問題や教育の問題など、山積している問題は全く解決・解消されずにいるだろう。しかし、それは野党が政権をとったとしても同じなのである。重要なのは、「今の政治がそのような問題を解決してくれる」という考えを幻想として捨てることである。政治には、こうした問題を解決する力はないし、その力がないということを批判するのも筋違いである。そのため、自民党・公明党の圧勝という選挙結果は、むしろ反動的な野党政治が出てくる可能性をつぶしてくれたという意味では良かったと思う。もちろん、これが「私たちが日本の経済を立て直します」「私たちが教育を再生します」といった動きに本格的になってしまっては一大事なのだが。劇場政治は、あくまで劇場にとどまるべきなのである。)


Sunday, 14 December 2014

偽の自由と真の自由

カントは哲学史において初めて人間の自由を哲学の中心的主題に添えた。フィヒテ、シェリング、ヘーゲルをはじめ、カントに反応した思想家たちもまた、同じ主題と闘った。かれらの仕事を読むと、人間にとっての真の自由と、私たちが今この社会に生きることによってたまたま思い込んでいる偽の自由との違いをみてとることができる。

偽の自由とは...
  • 「趣味の自由」―私は自分のやりたいことを趣味としてやってもよい。
  • 「職業選択の自由」―私は自分の職業を選ぶことができる。
  • 「住まいの選択の自由」―私は自分の住みたい場所を選ぶことができる。
  • 「性的自由」―私は異性あるいは同性の相手と自由に性的な関係を結ぶことができる。
  • 「投票の自由」―私は自分の選ぶ政党に投票することができる。

真の自由とは...
  • 「義務の自由」―私は私がすべきことを自分で自分に命令することができる。
  • 「考える自由」―私は私の理性を最大限行使することができる。
  • 「判断の自由」―私はあらゆるものごとを自分の理性に照らし合わせて判断してよい。

偽の自由に共通していることは、個人をその人の外にある何かに依存させる自由であるという点だ。例えば、「趣味の自由」の元には、お酒を飲む自由や、習い事をする自由などが含まれるだろう。すると、「この習い事をしたい」「お酒を飲みたい」などといった欲望を肯定することになり、「もうこの習い事ができない」「もうお酒が飲めない」などといった状態が受け容れ難いものになりえる。しかし、習い事やお酒などといったものは、主体である私にとって外的なものである。同様に、「住まい」「職業」「性」「投票」も、それぞれが私の外にある何かによって決定されているため、真の自由とはいえない。

対して、真の自由においては、私の外にあるものごとは私を支配したり限定したりすることがない。例えば、「義務」とは、ここではカント的な意味を持つ。そのため、例えば「結婚する」という義務は、私が私自身に課す義務であり、それは私の外にあるものごとには影響を受けない。あるいは、もっと抽象的なレベルで、「私は義務を果たす」という義務も、やはりその義務の内容が何かが関係ないので、私の意志以外によっては影響を受けない。

もっと厳密に言うならば、真の自由においては、自由の内容が意志されている時点においてその人は自由である。もちろん、例えば「結婚する」という意志は結婚相手がいなければ実現されえないし、「自分の義務を遂行する」という意志も、自分の義務がそもそも何なのかはっきりしていない個人にとっては実現不可能である。他方で、しかし「結婚する」とは結婚相手がいる状態を保つということであり、「義務」についても、ある義務を持ち続けるということである。そのため、たとえ有限な意志であっても、こうした意志をもつか否かは正に自由な個人としての「私」にかかっている。その意味で、こうした意志は「意志した時点で私を自由にする」のである。

...ということを、カントやヘーゲルはかなり具体的な文脈で論じた。

Friday, 12 December 2014

無垢な概念から判断へ

『論理学』の「概念論」は「概念それ自体」と題された章で始まり、「絶対理念」の章で終わる。

概念それ自体とは、まだ概念のもつ諸規定が差別化されていない状態である。例えば、「国家」という概念があったとして、まだこの概念は「法律」「市民」「階級」などといった形式へと細分化されていない。そのため、この段階における概念は「無垢」と呼ぶことができると思う。

無垢な概念は、しかし、生成された思考形式であるという過去をもつ。その過去とは、「有」と「本質」の各思考形式である。「有」は、それ自体としては他者へと移行する単純態だった。例えば、「ある国」は「別の国」とは排他的に区別される。そのため、ひとつの国の領土や法律などが有効な限り、別の国のそれらは無効である。「本質」の思考形式は、逆に、他者に「投影」される、あるいは他者から「反映」されることによってのみ存在する「投影体」である。例えば、文化としての「その国らしさ」は、国民の活動―食事のとりかた、子どもの育て方など―に「投影」され、それらによって「反映」されている。「これがこの国の文化だ」と、ある存在(つまり「有」の形式)をとりあげて名指しすることはできない。概念とは、本質の各思考形式が同時に有としても成立している状態のことである。例えば、国家の概念は、「国らしさ」 であると同時に「ある国」でもある。国家の概念は単純にある国を取り出してみただけでは成立しない。例えば、アメリカを国家の概念そのものだと言うことはできない。同時に、国家とは、単なる投影としてのみ存在することもできない。「これが国だ」と直接名指しできる何かがなければ、「国らしさ」もまた存在しない。国家とは、「ある国」が同時に「国らしさ」の投影体でもあるような、そんな概念なのである。

こうした意味において、ヘーゲルは次のように述べている:「概念は、同時に普遍性、特定性、そして単独性をあわせもつ。概念においては、これら三つの規定が順を追って提示されることはなく、一つが提示されると、直ちに他の二つもまた提示される。」

普遍性とは、「国らしさ」のことである。しかし、概念における「国らしさ」は、もろもろの存在の中に投影されている場合のみ現実的である。そのため、普遍的な「国らしさ」は、同時に特定の「国らしさ」でもある。例えば、日本における人間関係のフォーマリズムなどは「日本らしさ」であり、これは特定の国らしさである。この「日本らしさ」が同時に「国らしさ」でもある。さらに、「日本らしさ」はそれ自体としてまた他の存在や本質を提示することができる。例えば、日本の学校教育における諸活動は、「日本らしさ」から派生したものとしてのみ成立している。そのため、 特定の国らしさは、それ自体が自立した普遍体として存在する。これがヘーゲルのいう「単独性」である。

概念において、普遍性と単独性とは激しく対立する。一方で、「国らしさ」は特定の国とは別の純粋な概念であろうとする。しかし、他方で、「日本」のような単独の国を通してでしか、「国らしさ」は現実を獲得することができない。「日本は国である」というような考えを通してのみ、「国らしさ」もまた現実に存在する概念となるのである。また、単独体である「日本」も、「国らしさ」をもつことによってでしか単独体でありえない。こうした意味において、「国らしさ」と「日本」とは同じ概念(国家の概念)の内部において対立する二つの規定である。一方は普遍性、他方は単独性であり、どちらも概念の全体たろうとする。つまり、国らしさの側からは、「日本らしさ」とは「国らしさ」を基準として定められるべきであるが、日本らしさの側からは、「国らしさ」が「日本」を通じて規定されるべきである。この緊張関係が、ヘーゲルのいう「判断」(Urteil)である。

判断においては、無垢な概念に潜在していた諸規定が現実の世界においてそれぞれ区別された状態で提示され、対立しあう。それでも、判断によって生じたこれらの諸規定は、もともと一つの概念がもつ諸規定なので、いずれはこの概念の内へと統一される。現実へとこうしてバラバラに拡散しつつ、概念へと収斂されていくわけだ。こうして、概念は現実化され、「理念」となる... という筋書きをヘーゲルは用意しているらしい。しかし、ことはこれほど単純ではなさそうだ。概念はダイナミックな思考形式で、「有」のもつ単純さや「本質」のもつ一方的な繊細さをあわせもってさらに複雑だ。

外はとても寒い。乾いた風が強く吹いている。少し窓を開けた。不思議とこの冬の風が暖かくすら感じる。風の音は好きだ。今夜はよく眠れそう。