Wednesday, 12 August 2015

Personal Note

This was the best week of the year. Þakk to A., F., D., W., S., C., E., A., K., M., F., K., C., D., and J.

Monday, 10 August 2015

Vancouver - A Diagnostic

What is the major conflict represented by Vancouver?

Class struggle between the financiers, industrial capitalists, and the working class.


Why is Vancouver an "inverted world"?

The parts that appear beautiful to the senses are intellectually and morally rotten, while the remainder which is dirty, smelly, feeble, and ugly are intellectually and morally sublime.


What is higher education in Vancouver, especially that embodied by the University of British Columbia?

Jargon, sex, and consumerism.


And that embodied by the downtown eastside?

Participation in universal history. Pleasure with an even more pleasant aftertaste.


Explain why Vancouver is "Asian."

Because those who do not understand Asian culture blindly multiply and worship Asian signifiers and symbols, while others who do not understand Western culture blindly multiply and worship Western signifiers and symbols.


Explain why Vancouver is European.

There is a non-alienated remainder of freedom and solidarity in action, and it is not becoming feebler but is rather growing stronger.


What would be an act of resistance?

Destroy physical mirrors and looking glasses across the city, so that one may come to find one's true reflection in the other.


Saturday, 1 August 2015

高等教育とロゴ―ナオミ・クライン『ブランドなんか、いらない』

英語版はNo Logoという題。他のクライン本と同様、和訳はよりはっきりとした言明をしている。

『ブランドなんか、いらない』は、ナイキやスタバなどのロゴが資本主義社会でどのように台頭し、反資本主義運動をどう定義付けてきたかを詳しく追っている。ものすごく参考になる。

チャールズ・ファーガソンの『強欲の帝国』にしても、クラインの『ブランドなんか、いらない』にしてもそうなのだが、私が個人的に一番ショックを受けるのは、大学がこうした社会問題に対してどう加担しているかを知ってしまうときだ。カナダのブリティッシュ・コロンビア大学にいた頃、キャンパス内の食べもののほとんどが大手企業によるフランチャイズであることに息苦しさを感じた。ヨーロッパの大学も、少なくともイギリスやアイルランドなどの英語圏では、企業が同じようにキャンパス内を支配しつつある。アメリカではもはや当然のこととして生徒たちも受け入れているのだろうか。日本では、特に私立大学でこの傾向が悪化している気がする。

クラインがインタビューした教授の一人は、大学が「ショッピング・モール化」あるいは「遊園地化」したことによって、学生たちの態度も激変したと言う。この教授は学期末に講義についてのアンケートを学生に書かせるらしいのだが、学生たちはちょうど不良品にクレームをつける客のような調子でクレームを述べるのだと言う。この傾向もまた、カナダやアメリカ、イギリスやアイルランド、日本などの大学で顕著にみられるように思う。

本来、学生にとって何が有益かを決めるのは教授の責任である。講義が「面白くなかった」「つまらなかった」のは、教授のせいではなく、授業についていく努力を怠った学生の責任である。「簡単すぎてつまらない」のならばまだしも、「何が面白いのかわからない」だの、「難しすぎてわからない」だの、挙句の果てには「男性の教授がジェンダー理論を教えているのはおかしい」というような変な意見まで書かれてしまうこともある(これは私が友人から聴いた話だ)。

簡単に言えば、教養ではなくある種の「体験」を求めることが主流になりつつあるということ。

これもブリティッシュ・コロンビア大学の学部生の頃に感じたことだが、私の周りの学生たちの中には、成績を気にする人こそ多かったが、自分の無教養に本気で悩んでいる人はほぼいなかった。(そして、そうした悩みを抱える少数派は、大学全体が何かひどく歪んだ空間であるように感じていた。) ほとんどの友人たちにとって、大学での悩みは、例えば恋愛だったり、セックスだったり、買い物(安く良いものを自分は買えているのかどうか)だったり、旅だったり、ライヴだったり、ビールだったりする。そして、一応学生の本分を全く忘れてはいないのだというように、一ヶ月に一冊くらいは自主的に本も読もうとするが、それもフェイスブックに読書完了を報告し、友達から良く思われたいからだったりする。

大学とはそもそもそういう空間なのだと、少し冷めた眼で見ていた部分も、私や友人らにはあった。しかし、私はクラインの本を読み、ことはそう単純ではないのだということを学んだ。たしかに、己の無教養を恥じて学問に打ち込み、人のためになる研究をしたり、人のためになる仕事をしたいと思う人は、戦後の大学では常に少数派だったのかもしれない。チョムスキーが何度も言っているように、ハーヴァードはすでに当時から「ジェントルマンズ・クラブ」だったわけで、教養だけでいえば労働者階級の方がよっぽど良かったのかもしれない。大学は常に階級差の維持に役立ってきたわけだ。

しかし、企業のロゴが自由に侵入してくる現代の大学においては、学生たちの「お客」としての態度が以前よりもはるかに許容されてきている。クラインの本はこの点を指摘している。教養のためでもなければ、ある階級に属したいからでもない。ただ、大学という「体験」を求めて、生徒たちは大学に行くわけである。大学の側も、修士号や博士号をとりにくる学生に対してでさえ、こうした「体験」を強調し続ける。新しい学生の到着に際しては、いかに自分の大学が「快適」で、いかに大学のキャンパスライフが「楽しい」かを、メールやPDFでこれでもかというほどに強調する。これでは、完全に商品の売り込みである。もしかしたら、大学の広報の多くは、マーケティング会社に業務委託をしているのかもしれない。

ここで、学生の短絡さを責めるのは筋違いだ。「最近の学生は…」といった調子でえらそうなことを言う教授に何度か会ったことがあるが、本当に行動を起こすべきは教授の方だろう。とはいえ、大学内の政治は猛烈に厳しい。本気で教授になり、権力を手にしたいと考えている個人がいる。他方で、授業の質を上げたり、学部や学科の運営方針を改善したいと考えている教職員も大勢いる。無垢な学生や、気の合う同僚を捕まえて、愚痴をたれていても仕方がない。

カナダには、夜な夜な街中の看板広告を塗りつぶして歩く抗議活動家がいるそうだ。ヨーロッパや日本、アメリカでも、このような抗議活動がより活発にならないだろうか。手始めに、例えばブリティッシュ・コロンビア大学のキャンパス中の広告を絵の具で塗りつぶしてやるのはどうだろうか。