Tuesday, 19 February 2013

『フィネガンズ・ウェイク』から学ぶこと

正直、どうやってこの本を読めば良いのかわからない。知ったようなことを書けば、すぐに斜線で消したくなる。それくらい、この本は豊かで、捕えどころが無い。でも、本日、一つだけ、大切なことをこの本を通して得た。

「自分の言葉で語る」ということである。あまりにも平凡すぎる? いや、それは、自分の言葉とは何かを本気で悩んだことのない人が外から言う文句に過ぎない。言葉ほど、個性を表現しづらい媒体は無いと思う。すぐに「わけがわからない、もっと噛み砕いていってくれ」と文句を言われる。他の人に、それまでになかった言葉で、あることを伝えるのは難しい。ましてや、ユニークな言葉の連続によって何かを「語る」ことは余計に難しい。どこかで、「常識」を基盤に持ってくる必要に駆られるから。

『フィネガンズ・ウェイク』は、その意味では最後まで「逃げ切った」作品である。ここには、カタルシスもなければ、モラルもなく、要約できるようなこともない。テキストそのものが生物である。そこにはジョイスが確かに居る。

さて、この本の怪物、怪物的な本とにらめっこしている内に、日本語訳を手がけた天才翻訳者、柳瀬尚紀氏の著作『フィネガン辛航紀』をなんとなく読んでいた。タイトルからして、すでに才能溢れている。「進行」を辛い航海に例えつつ、「紀」を「記」とダブらせて、旅っぽさを強調しながら、同時に自分の名前へのアリュージョンも含め、あたかも自分は日本のフィネガン氏であると宣言しているかのようだ。そんな遊び心たっぷりの日本のジョイスの書く言葉は、お洒落だ。読んでいて、陽気な気分になってくるし、「あなたも遊びましょうよ」と誘われている気持ちになる。

そこで、気がついたのだ。

何かをただ書き、ただ語るということは、常識や過去との決別(break away)し、その先に自分の領域を見出して、その痕跡を記録することなのだ。題材は何でも良い。問題は言葉だ。そして、その言葉は、トコトン反抗的で、逃走=闘争を続けなければならない。それはそのまま、遊び心の発露にもなっているはず。

「もっと遊べ」と『フィネガンズ・ウェイク』は暗に読者に言っている。これは本だが、常識的な意味で「読まれる」(つまり「内容」を「理解」する、あるいは「読んだこと」を「自分のものにする」)ことがない。書き手が過激すぎる。本を全て理解したいと感じる人にとっては苦痛でしかない。でも、言葉遊び、それも単なるつまらない駄洒落ではなくて、「自分の言葉で語る」という難しい課題を実際にやっていく方法としての言葉遊びを、奨励している本なのだ。『フィネガンズ・ウェイク』を読むということは、この本の豊かさの虜になってこれとずっと付き合い続けていくのと同時に、その誘いに乗って自分の言葉で語り続けることでもある、というわけだ。それを実践している柳瀬氏は天才的だし、僕も明日からまた漢字字典を開いて、遊び心を取り戻そうと決めたのが今日だった。