Tuesday, 27 August 2013

政治と、日本語

社交の場や仕事の場、あるいは自宅でさえも口にできないような考え、しかし忘れ去るには少しもったいない考えを書き留める場として、このブログは続けてきた。カナダにいたときも、帰国したときもそうだった。

最近、小沢一郎氏の著作を読み漁っている。これまでにも、安倍晋三、小泉純一郎、福田康夫など、首相となった人の書いた著作を拝読する機会はあったが、夢中になって読めるほどの内容が書かれているものはみつからなかった。小沢氏の場合は、違った。『日本改造計画』には、非常に現実的で筋の通った本流の「改革案」が提示されていて、しかもそれらの多くが2013年現在既に実現されている。 また、『小沢主義』では民主主義の原理が日常の泥臭い視点から説かれているが、こちらも読めば目から鱗の内容だ。例えば、小沢氏は、国会議員となるものはまずもって選挙活動に力を入れるべし、それも、一軒一軒家庭をまわって挨拶をするという地道なやり方で勝負すべし、と力説する。これだけ読んでしまってはただの根性論にも聴こえるだろうが、そうではない。机上の空論で政治をしないように自分の感性を鍛える意味もあるだろうが、それだけではなく、実際に国民が政治家に声を届ける機会を作ることで、単に票を入れるだけではない、一歩踏み込んだ民主主義を可能とするだろう。メディアの世論調査や、いわゆる「識者」の述べることが自分の政治的な要求を代弁していると感じられる国民は少数派ではないだろうか。そのため、実際に自分の意見を生で届けることのできる議員の存在は、特に現代のような政治的問題が山積みの時代にあっては貴重で価値のあるものだと思う。ここまで考えると、小沢氏の一言が、決してただの根性論ではないことが明確になる。

他方で、『小沢主義』の中で小沢氏は「国民の民度以上の政治家は生まれない」という趣旨のことも述べている。こちらも、もっともなことだ。どんなに国会議員候補が家庭に足を運び続けても、肝心の国民が政治について無知であり無頓着であるならば、そこで議員に何も言えない、あるいは無知をひけらかすような愚かなことしか言えないなどという羽目になるだろう。挙句の果てには、「また選挙か、どうせ票がほしいだけだろう、うっとうしい」などという風に議員を中傷する人まで出てきかねない。本当は、政治家がわざわざ訪問してきたのに、そのチャンスを逃す国民の方が愚かなのだけれど。

さらに、今は『剛腕維新』を読んでいる途中だが、小泉内閣に対する冷静で強烈な批判が読んでいて痛快だ。特に、イラク問題に対する外交戦略が、小泉元首相と小沢氏との間で全く異なり、小沢氏の方が遥かに日本を自立させようと苦心している様がみてとれる。もちろん、小沢氏からみた現状分析が述べられているので、バイアスも多分にあるだろうが、少なくとも小沢氏の述べることは筋が通っている。小沢氏は、護憲派でいながら世界平和へ積極的に日本が参加していく道を提示していると思う。かれの案は、「自衛隊は護衛に徹する一方、国連待機部隊を新たに編成する」というもの。そして、場合に拠っては自衛隊の兵力を国連部隊へと異動することも視野にいれる。日本国として他国と戦争をすることと、国連の平和維持活動(PKO)に武装集団として参加することとの違いも明確に述べられている。前者は自他国民の中に本当の「被害者」が生まれる(つまり、日本という国の名の下に死ぬのは嫌だと感じている人々)が居るのに対して、後者では国際的な合意が普遍的な人権等の原理の元に必要なため、人間である限り皆賛成するような理想的な形で戦闘行為が行われることとなる。もちろん、これは現時点では理想論だ。というのも、国連は結局アメリカに牛耳られている、といった声も無視できないものだから。それでも、少なくとも戦闘行為の一切を他国に任せつつ、例えがコンゴや中国の政治的な混乱に便乗して利益だけを得ている日本の現状を良い方向に向かわせるためには、小沢氏のいうように国連待機部隊を組織することは良いと思う。そして、かつて自由党と民主党が合併したときに、国連待機部隊の編成について小沢氏と横路氏の間に合意があったということも象徴的だ。これが2003年のことだが、21世紀に入り、以前と比べて人々の政治的意識が希薄なのではないかという感じのする時代にあって、こうした動きを見せる小沢氏の粘り強さには舌を巻く。すごいなあ、と素直に思う。

さて、話は飛んで、さらに長谷川宏訳の『哲学史講義』の序論を読み始めた。長谷川氏自身のまえがきが印象深かったので、引用する。「翻訳は平明達意をもって旨とした。なにより、訳文がドイツ語原文とは独立に、日本語として無理なく読めるように心がけた。」 さらに長谷川氏は続ける。「こんなあたりまえの心がけをあえて口にしなければならないのは、日本の哲学系統の翻訳書の多くが、いまだ、原文にひきずられることの多い、きわめて生硬かつ不自然なものだからである。日本語の文章として何度読みかえしても納得のゆく理解が得られない。しかたなくドイツ語の単語におきかえてみる。あるいは、ドイツ語の文脈を想定してみる。挙句、原書をひっぱりだしてきて対照する ―そんなわずらわしい手つづきを要求する翻訳が少なくない。そのことは、哲学をとっついにくいものにする原因の一つにもなっていると思う。」

よくぞ言った、と相槌をうちたくなる。特に、僕は個人的に翻訳活動をしているので、一層頷ける考えとしてこれを読んだ。もちろん、原文を聖なるテクストのようにあがめ、シミ一つ無くそれを外国語に置き換えたいと欲する純粋志向もわからなくはない。しかし、それは突き詰めて行けば自己満足的な翻訳でしかないと思う。往々にして、原文に多少なりとも慣れ親しんだ人しか読めない作品となってしまうからだ。対して、原文の「字義」を多少変更しても、それによって外国語の作品に自立した活力が宿るならば、作品にとってそれはむしろ幸福なことだと思う。読者も格段に増えるし、なにより原文にはなかった新しい可能性が引き出され、さらに作品自体が奥行きのあるものとなる可能性すらある。

とはいうものの、これだけは譲れないという重要な言葉が哲学に存在することも事実である。例えば、「精神」という語。「心」などという語の方が日本では良く使われるが、英語のheartとmindとの間には決定的な違いがある。前者では感情が支配的なのに対して、後者では理性が大切な役目を果たすからだ。他にも、「理性」や「反省」など、必ずしも日本語では日常的に使われていない言葉でも、そのまま残す必要がある。その代わり、他の言葉は平易な訳をあてるよう心がける。そうすることによって、「これは」という言葉たちが実際に読者の日常生活にまで浸透する可能性もあがる。少なくとも、作品を意味不明な専門用語で埋め尽くすよりはよっぽど建設的なはずだ。そして、文句のある専門家は、自身が「字義通り」の訳を改めて完成させれば良い。「読みやすい」訳と「字義通り」の訳との二種があれば、より多様な読者層に作品が届くし、前者を通して作品の研究に取り組みたいと感じるようになった読者があたることのできる二冊目があるのも良いことだ。