第一章「ユダヤ教の精神とその運命」
各章への副題は、翻訳者である細谷貞雄氏がつけたらしい。『キリスト教の精神とその運命』自体、ヘーゲル自身は出版に値しないと考えていた作品だ。25歳を少しまわったばかりの若いヘーゲルが取り組んだ試作品。
文体は一見平易なようだが、それは言葉遣いが日常の、あるいは普通の論文のそれに近い、というくらいなもので、実は後期ヘーゲルの仕事と比べるとむしろ全体として何が言いたいのかがわかりにくく、読む方は読みづらさとは違う意味での困難を強いられる。
あるいは、そもそもこれは未完成作品であるので、一貫した思想をそこに見出そうとする読み方自体が間違っているのかもしれない。ちょうど若いヘーゲルがこれを書くことによって当時の自分の立ち位置の限界を見定めることができたように、読者である私たちも、この作品を読むことによって、そこに暗示されている考えの限界を検討する機会を得られれば十分なように気もする。
第一章では、「アブラハムの契約」(神がアブラハムに、後者の子孫が星の数や砂の数ほどにも増えるだろう、と約束する)から始まり、モーゼの民の終焉、そして救い主への渇望が発生するまでの聖書の物語をヘーゲルが解釈している。ユダヤ教は「アブラハムの精神」の移り変わり、いわゆる輪廻転生、変移によって発展し、成熟してきたとヘーゲルはいう。これが、本章の大枠だ。そこで、「アブラハムの精神」とは何かを理解することが、大きなポイントとなる。
「アブラハムの精神」には少なくとも二つの側面がある。
1.自然との絶対的な対立。自然を「支配」することによって一見和解するが、こうした「和解」はすでに人間と自然との対立を容認した上で成り立っている。そのため、これは対立を解消した状態ではなく、「調和状態」でもない。
自然との対立と和解は、アブラハム以前に、特にノアとニムロデによって確立されたとヘーゲルはいう。ノアは自然から逃げる形で、ニムロデは自然を共通の敵として人間を団結させることによって、この精神の確立に至った。アブラハムは、これを背景に登場してくる。
2.積極的、具体的な内容をもつ民族との絶対的な対立。アブラハムは遊牧民であり、借り暮らしの個人であり、自分の場所も所有物ももたなかった。土地を持たない民族、つまり、ある具体的なもの、特定のものへの執着をしない民族をアブラハムは率いた。特定のものの否定によってユダヤ民族は登場した。
全てを否定する民族として、ユダヤ人は普遍的な位置を占めた。ヘーゲルはこの普遍性について細かくは言及していないけれど、それは至る所に暗示されている。アブラハムからヨゼフ、モーゼへと移り変わるにつれて、この普遍性は顕著になっていく。
私としては、ヘーゲルがあまりにも一方的にユダヤ人を中傷している箇所はとばして読みたい。特に、エジプトを脱出したユダヤ人を「卑怯」だと揶揄するヘーゲルはいただけない。たしかに、後にキリストが新たな抵抗の仕方を提示すれば、それと比べるとユダヤ人のこの出エジプトの方法は「卑怯」にもみえるのかもしれない。しかし、「卑怯」というような言葉では、ユダヤ人とキリストとの違いを明確にすることはできていない。むしろ、ヘーゲルがここで問題にしたいのは、ユダヤ人が偶然性や運によって抵抗運動を行った点だろう。これを必然性、普遍性による積極的な抵抗へと成熟させることができず、最終的には「救い主」を待ち望むという徹底した受身にまわるユダヤ民族――ここでの問題点はあくまで概念的なものなのだから、感情的な言葉では表現できない。
概念的な問題が扱われているのだということを意識して読めば、一見すると誹謗中傷のオンパレードでしかないヘーゲルの文章にも筋が通ってくる。
まず、ユダヤ人は、外面的なものごと(つまり、特定的で、絶えず移り変わっているものごと)と、内面的なものごと(自分による全てのものの否定、全てを否定してもなお残り続けるものとしての神や魂)とを和解できていない。なので、例えばモーゼは馬鹿馬鹿しいことが原因で失脚する。また、外面的なものとして「言葉」にも相応の役目が与えられていないので、ユダヤ人たちは言葉に内面性を見出せず、よってかえって好き勝手に色々とおしゃべりできた、というヘーゲルの指摘も面白い。
次に、ユダヤ人の律法の原理が単純に否定的なもの(全ての個人は一人では生きてゆけず、他者に依存しているため、この他者依存において全ての個人は平等である)になってしまっている点が問題だ。個人として積極的に独立しようとする者がいると、その人は他者依存の原理に基づいて、再び低いほうの生活水準や文化水準に引きずりおろされる。ニーチェが「ルサンチマン」と呼んだ現象だ。
最後に、ユダヤ人はそもそも民族としての具体的なまとまりを否定するアブラハムの精神から生まれたのにも関わらず、そうした否定を共有することによって民族としてまとまってしまった、という矛盾を抱えている。それは、ユダヤ人という概念そのものが抱える矛盾で、普遍的なものである。この矛盾を解消しようとすればするほど――つまり、ユダヤ王国をうちたてたり、約束の地に根ざしてみたり、再び放浪の民となる、ということを繰りかえすたびに――かえって矛盾は強烈に明示された。ユダヤ人の概念自体がこうして濃密なものとなってゆき、緊張感が高まり、ユダヤ人は狂信的になっていった。ヘーゲルはこの一連の流れをマクベスになぞらえている。
こうした矛盾の源泉は、自然や特定の共同体といった有限なものを一方的に否定するアブラハムの精神である。しかし、こうした矛盾によって一度人間の無限の否定性とでも呼べるものが全面に出る必要があった。
救い主が必要な状況を作り出したことによって、ユダヤ人はキリストが到来するために必要な精神的、あるいは政治的な土壌を用意した。ユダヤ人のこうした貢献について、ヘーゲルは積極的には語っていないが、しかしながらこれもまた文章中の至る所に暗示されてはいる。
最後に一つ注意したいのは、ヘーゲルがユダヤ人、あるいはユダヤ民族というとき、それは特定の個人を表しているのではなく、概念を表しているという点だ。 そのため、一見するとこれはユダヤ人差別の文章としか読めないかもしれないが、しかし実はこれはユダヤ人という概念をある特定の人々が実際に体現したことによって具体化した道程を表現しているのであって、だとすれば、ユダヤ人は自然や共同体と対立して存在する個人の中に必ず含まれている普遍的な概念なのだ。