Friday, 13 June 2014

自由の森学園について、卒業生の立場から

私は英語を教えている。英語とは、言語である。言語とは、思考の材料である。つまり、英語教育は、同時に英語でものを考える教育である。しかし、私の今働いている現場では、英語教育とは生徒にある決まったことをやらせ、英語検定に合格させる教育なのである。それが私の職場の「実績」となるからである。

しかし、これは効率も悪いし、英語力も育たない教育法だと思う。そう思うが、しかし職場での自分の立場上、これに逆らうことは許されない。さらに、もし本気で納得のいく英語教育がしたいのであれば、自分で学校を立ち上げてそれを実践するべきである。しかし、私にはそのようなことをすることは経済的に難しい。それでも、あえて意見を書きたいのは、こうした思いは、恐らくそのうち消えてしまうか、忘れられてしまうからだ。また、恐らくこうした悩みを抱える教師は多いはずだからだ。さらに、自由の森という場所は、とにかく誤解されているからだ。

ちなみに、私は、自由の森の英語教育が他校と比べて一方的に優れているなどとは思わない。自由の森での英語の授業で、生徒たちは英語を使えるようにはなりにくい。しかし、これは自由の森の問題ではない。そもそも、中学校から英語を学び始めることに無理があるのである。すでに英語を知っている人が他のヨーロッパ言語―例えば、フランス語やスペイン語―を学ぶのと、日本語しか使えない人が英語を学ぶのとでは、全く事情が違う。文法や単語などが、日本語と英語とでは違いすぎるからである。そのため、日本語に一度慣れてしまうと、そこから自分の考え方を英語流に切り替えるのは至難の業なのである。

そのため、自由の森の英語の授業を受けることによって英語が話せるようにならなかったとしても、それは自由の森に落ち度があるというよりは、そうした教育制度自体に落ち度があるのであり、また日本文化にもその原因はある。そもそも、家庭に英語を話せる人がいない状態で、学校の授業だけで英語を学んでも、英語が話せるようになる保証は全くない。数学や理科社会などと同じく、英語は生徒にとって「得意」ともなれば「苦手」ともなる。対して、「私は日本語が苦手だ」と言う生徒は、それを「私は日本語が使いこなせない」という意味では言っていない。家庭で日本語を話してきたからである。

すこし脱線してしまった。さて、そうはいっても、自由の森の英語教育には、公立の学校の教育と決定的に違うところがある。そして、この違いは、英語だけではなく、自由の森における教養科目のすべてにいえる違いである。それは何かと言うと、「自分の言葉」を探すよう教員が生徒に対して毎授業呼びかける、という点である。これはとても大切なことだ。いくら単語を暗記しても、それを自分で使えるようにならなければ宝の持ち腐れであり、さらにいえばそうした単語もすぐに記憶から消されてしまうので、宝すらなくなってしまう。対して、「自分の言葉」として、シンプルな基本表現でもよいので使えば、その経験のおかげで、「もっと英語がうまくなりたい」「英語でも私は自分の考えを伝えることができる」という気持ちが芽生える。文法や単語の暗記量の観点からは、こうした教育は全く劣っているようにみえるだろう。しかし、長い目でみて、生徒の英語力がどれだけ伸びたかに注目してみると、ここで述べたような気持ちを芽生えさせる分だけ、こうした教育のほうが良いと思う。

この「自分の言葉」へのこだわりは、国語や理科や社会においては一層重みを増すように思う。そして、これは大学や社会においても、非常に大切なことである。ある概念について、一つしかそれを表現する方法を持たない人は、その一つの表現が失敗した―つまり、それによって相手にその概念を伝えることができなかった―とき、それ以上その概念を表現することができない。すると、知識の上ではその概念を知っているつもりでも、それは本人の「思い込み」にすぎないものとなってしまう。逆に、自分とは異なる考え方をもった人に対して、自分の考えの大切さやその内容を伝える手段を多く持っている人は、様々な表現ができるので、少なくとも自分の今知っていることについては、しっかり他の人に伝えることができる。すると、いわゆる「知識量」では後者の人が劣っていても、結果的に歴史や社会に影響を及ぼすのは後者なのである。

自由の森学園は、ものの伝え方を磨く場所である。また、同時に、今の自分の持っている表現ではものごとが伝わらない、あるいは他の人の発信しているものごとを受け止められない、そう感じたときに、自由の森では、そうした状態になぜ自分が陥っているのか、考えて、議論することができる。そうした議論に付き合ってくれる教員がいる。それに、そうしたことを真剣に話すことのできる生徒仲間がいる。

自由の森が「詰め込み式の教育」や「点数による序列化」を否定する理由はここにある。ものごとを暗記して、一つの答えがあるテストに正答する、こうした行為の中には、自分と異なる他者と向き合う機会がない。むしろ、そうした他者と向き合うことは全くの無駄であり、ただ目の前の教科書を読むことに時間を使うべきなのである。しかし、こうして得た「知識」は、往々にしてただの「思い込み」なのである。テストでそれを書けば丸がもらえるからといって、それが正しいという保証はどこにもない。そうした保証は、丸をつける先生が与えてくれるのではなく、いわゆる「知識」としてまかり通っているものごとを一度批判的に見直すことによってでしか得られない。しかし、その「知識」を批判するような他者を想定しないことには、そもそもそうした批判は始まらない。つまり、詰め込み式の教育が教える「知識」とは、その程度のものなのである。

自由の森学園に対する偏見のひとつに、「自由の森学園の生徒や卒業生は、口は達者だがものを知らない。やはり、テストがないから、常識的な知識が欠けている」という批判の声がある。まず、この批判は、中学生や高校生、および高校を卒業したばかりの十代に向けられている、という点を覚えておきたい。その上で、ではそうした若い世代に求められる「常識的な知識」とは、どの程度のものなのか。そう考えてみると、どんなに若い世代を過大評価したとしても、この「常識的な知識」はたかが知れているのである。例えば、数学で微分積分の問題が解けたからといって、数学者の間で「常識」として通用するレベルの知識には到底届かない。また、日本語で安部公房や内田樹、徒然草の一部を読んだからといって、日本文学者の持っている知識量には全く及ばない。それは、公立高校の数学や国語の教科書に載っているものごとを全て暗記した人についても同じように言える。高校で得られる「知識」の量とは、その程度のものなのである。ということは、そもそも、自由の森の卒業生を「常識的な知識がない」として批判すること自体、おかしいのである。そんなことを言ってしまえば、公立の高校を卒業した人たちも、同じくらい無知なのであり、正にそれはどんぐりの背比べと言うべきだ。高校教育における知識量とはその程度のものなのだ。そのため、高校教育の質を評価するためには、単なる「知識量」以外の尺度が必要となる。

ドイツの近代哲学者ヘーゲルは、『精神哲学』の中で、スポーツや芸術などの分野においては早熟は良いことだが、学問においては早熟か大器晩成かは関係がない、と述べている。少しヘーゲルの議論に私の解釈を加えると、肉体を使い直感的に行うことは若いうちに、理性を使って筋道立てて行う抽象的な活動は大人になってからも少しずつ、身につけるべきなのだと思う。この考え方にのっとると、高校教育までで最も大切なのは、まずもって肉体を健康に保ち、五感と思考力、想像力とを様々な活動によってひらいていくことなのである。いわゆる「知識」の習得は、急ぐ必要がない。それは、各人が納得のいく時期に、それぞれ大学に入学して行えば良いのであり、あるいは大学の外で行えば良い。この文脈では、教育の質は、その教育を経た人がどれだけ五感・思考力・想像力をひらくことができたか、という尺度によって評価されるべきだといえる。そして、いうまでもなく、そうした尺度で評価した場合、自由の森学園の教育は、ほとんどの公立校のそれよりも勝っているのである。

他にも、自由の森学園に対する偏見は沢山ある。それらのほとんどは、とりあげることすら馬鹿馬鹿しいものである。例えば、「自由の森では、生徒は何をしても許される」という考え。ある一線を越えることをすれば、自由の森の中だろうと外だろうと、生徒がとるべき責任は変わらない。「自由の森にいるから俺はもうやりたい放題だ」と思い込む生徒は、たしかに存在する。しかし、こうした生徒は、自由の森で堂々と自分勝手なことをするわけではない。そうできない雰囲気が学校にあるからである。というのも、そこには、その生徒以外にも、同じように「なんでもしても良い」他の生徒たちがいる。そうした生徒たちの存在は、何をするにしても、常に意識せざるをえない。すると、すでに生徒たちは「何をしても許される」などという愚かな思い込みは乗り越えるのである。逆に、学校生活の一から十まで(あるいは、九くらいまで)をすべて学校側のルールによって決められてしまっている生徒こそ、「なんでも自分勝手にできる場所」などというものが存在するという幻想にひたり、夢を見るのである。むしろ、一見まさにそうした場所のようにしかみえない自由の森学園に来ることによって、こうした生徒たちはそうした幻想や夢から解放されるのである。そして、生徒たちは、より現実的な駆け引きに身を投じる。校内でおおっぴらにはできないことをしたい生徒たちは、自分がそれをあくまですべきなのか―例えば、煙草を吸ったり、ものを盗む等―、あるいはむしろそうしたことを欲している自分を変えるべきなのか、岐路に立たされるのである。逆に、そうした欲望を抱かない生徒たちは、そうした欲望をもつ生徒を無視すべきなのか、それともかれらと関わっていくべきなのか、また関わるとしたらどう関わればよいのか、考えざるを得ないのである。教員の権力にことを委ねれば解決する、などという非現実的な環境ではないのである。

さて、しかし、実社会では、こうした問題を解決してくれる権力というものが存在する。それは、国家であり、司法の場であり、警察であり、企業であり、家族である。では、なぜわざわざ自由の森学園などという無法地帯に身を投じて、そうした権力を前提にできない状態で生徒同士は関係すべきなのか。それは、他でもない、そうした権力の正しいあり方について、そうした機会に身をもって考えることができるからである。まず、自由の森学園で考えることによって、生徒たちは、「なぜ権力は必要なのか」「なぜ権力は不当でありえるのか」ということを考えるための材料を、つまり経験を手に入れる。また、そうした日々の経験を元に、話し合う場を得る。そうした具体的な問題意識を持ちつつ、図書館で本を読んだり、教室や野外で様々な活動をしたりするのである。国家とは何か、正当な権力とは何か、他者と向き合うとはどういうことなのか―こうした問いは、まさに日々身近にある問いであり、自由の森学園では避けては通れない問いなのである。

自由の森を卒業したからといって、こうした問いに対して満足のいく答えが得られるわけではない。しかし、そうした問いについて考えるための材料は、自由の森の卒業生たちの方が、他の公立の高校生たちよりも、はるかに豊かに持っているはずである。これこそ、自由の森の「自由」である。つまり、権力や他者といったことについて、建設的に、具体的に考えるための経験をもつことこそ、自由への条件だと思う。これも、壮大な話ではなく、自由の森にとっては非常に身近なことなのである。これを壮大なことだと感じてしまう人は、それを身近に感じられないような教育を受けてきたからそう感じるだけなのである。私は、自由の森を卒業しなければ、権力や他者について考えることもできない、などと言いたいのではない。ただ、そうしたことを自分のこととして考えるチャンスを、自由の森学園は確実に与えてくれる、ということが言いたいのである。