日本の文部科学省は、2015年6月8日付けで、公立大学の人文系学部に対して次のような要請を出した:
「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」
文部科学省は公立大学からあらゆる人文系学問を排除しようとしている。海外メディアもこれには反応している。(たとえばこちら) 60校ある公立大学のうち、すでに17校が新規文系生徒の受け入れを取りやめたらしい。さらに9校は、生徒受け入れを全く行わないわけではなくても、極端に人文系を縮小する方針らしい。また、東京大学と京都大学は今のところこうした再編成に抵抗しているらしい。
日本学術会議の声明にも書いてあるように、いきなり人文系学問を斬り捨ててしまっては、人文系を学ぶ意義を感じている人々や研究者たちにとって大きな打撃になってしまうし、長期的に国の文化の衰退の原因にもなってしまうはず。しかし、現実的には、文科省の要請からわずか2ヶ月足らずで急速に人文系の縮小が進んでいる。
「18歳人口の減少」がタテマエの一つに挙がっているが、ならばすべての学部を並行して見直すべきで、人文系だけを極端に縮小したり斬り捨てたりする理由にはならない。また、「人材需要」のタテマエも、はたして本当に人文系の需要がないのかがはっきりしない。日本全国の企業の人事部にアンケート調査をした上でこの結論に至ったのだろうか。論拠の詳細が気になる。
そもそも、文部科学省はなぜ人文系に対してこれほど攻撃的に動いたのだろうか。「人文系で得られる知識は、基礎教養にはなっても、役には立たない」という紋切り型の意見があるが、これは明らかに間違っている。理系学問の知識には、確かに、例えば文学で得る知識よりも即座に仕事に生かせるものもあるだろう。他方で、自分の分野の外では全く役に立たないという欠点も、理系の知識にはある。例えば、ナノテクノロジーを専攻した人は、コンピュータ関連の仕事に就けない限り、ナノテクノロジーについての知識を生かすことができない。対して、人文系の知識は応用範囲が広い。例えば、日本文学科を卒業した人は、教育や介護、翻訳や文章構成、ジャーナリズムなど、広い一般教養と文章力、分析力、感情を理解する力、柔軟性などを生かして突入できる仕事がたくさんある。見方によっては、狭い理系分野一本で卒業した人よりも「役に立つ人材」である。(これも蛇足だが、私は「人材」という言葉が大嫌い。) よって、人文系が斬られているのは、そこで得られる知識が役に立たないからではない。
ハーヴェイやグレイバー、ジジェクなど、欧米の人文系学者が指摘しているように、政府にとって人文系学問は目の上のたんこぶなのである。資本主義や国家主義などに対して批判を声を挙げたり、今のシステムに代わるより良い社会制度を創造したり、資本の増幅と対立する価値観を肯定したりするのは、人文系の十八番である。もちろん、国民の豊かさを第一に考える政権にとっては、以上のような理由により、人文系はむしろ大いに歓迎すべきである。戦後のドイツが好例だ。人文系を斬り捨てようとする政権は、国家の力の増大を国民の豊かさを対立させようとする傾向がある―これがハーヴェイ他が繰り返し指摘している点だ。
要するに、安倍政権は公立大学の人文系教授が政権に対して批判的な考えを生徒に教えるのが怖いのだ。
では、政府によるこの斬り捨ては嘆くべき事件なのか。一方的にそうとは言い切れない。たしかに、人文系の縮小は、大学教育の理念に反するし、大学教育を重んじる国民にとっては大きな痛手である。他方で、政府のこの攻撃的な態度は、安倍政権が人文系を本当に恐れているのだということを強く示唆してもいる。つまり、人文系学問が本当に何か重要な役割を果たしうるということを示唆している。この役割を果たすことを阻止するためにこそ、政府は今回の要請を出したのだから。
こう考えると、人文系の研究者や教育者、生徒たちは、むしろ楽観的でいた方が良い。大学という場を失う代わりに、自分たちのしていることの意義を明確にすることができたのである。次の課題は二つあるだろう。一つ目は、長期的な課題だ。公立大学全てが再び人文系学問を組み込むことができるように、文科省にプレッシャーをかけていくべきだ。二つ目は、短期的な課題。こちらは、大学の外でできることを探すこと。例えば、長谷川宏氏の「赤門塾」や、中島義道氏の「哲学塾」のような例が浮かぶ。名古屋で流行っている「朝活」もこうした例に入るだろう。重要なのは、こうした活動を単なる「趣味」に終わらせないこと。大学に代わる運動として、大学の講義くらいの真剣さは保ちたい。以上。