Tuesday, 4 December 2012

詩と散文と思考の自由

「散文」という言葉の意味がわからなかった。「文」はわかる。今ここに載っているこれがそうである。わからないのは「散」の方だ。「散る」というと、まとまりがなくて、言葉を適当に「散らして」つくったテキトーな文、というようなイメージが沸いてしまう。詩や俳句から散文を区別したいのならば、もっと良い名前があったのでないの? と思っていた。

「詩」と「散文」を明確にわけて考える人に出会っていなかったからこう思ってきた、というところもある。ところが、最近読み進めているヘーゲルの『美学講義』には、詩と散文の違いが明確に載っていた。

詩も散文も、ある思考を含んでいる。でも、詩ではその思考が直接的に表現されていない。暗示によって思考を表現するのが詩だ。詩は始めて言葉を発した赤ん坊のその言葉に似ている。思考を察するのは聴き手の役目となる。

散文では、思考がそのまま広がっていく。詩の中身を全部床に「ちりばめる」イメージだ。詩は、一行を覚えて、何度も頭の中で反復するうちに世界が変わる、というようなものだけれど、散文はそれを読んだ経験が頭の中に凝縮されていくだけで、言葉自体は残らない。その分だけ、散文は純粋な思考に近い。

詩の内容を「散らす」のが散文だというヘーゲルの考え方はとてもスッキリする。恐らく、ドイツ語の「Prosa」を日本語に「散文」と最初に訳した人は、ヘーゲルを知っていたか、ヘーゲル派の思想家に影響を受けていたのではないか。

そんなわけで、元々散文というのは詩のをいく表現形式だった。そして、散文が詩に勝っている理由は、読んだあとで言葉が消えるからだ。言葉が消え、思考や読書体験だけが残る、というのが散文の世界だ。

私は最近まで、特に大江健三郎に影響を受けて、散文でも「モノの実感」を言葉から感じるようにするのが良いのだと思い込んでいた。でも、実は「モノの実感」があるのは詩であって散文ではない。詩が書きたい人が散文を書くから「モノの実感」を求めるのだ。でもそれは詩だ。

読者を自由にするのは、詩か、散文か? よく日本語で「言葉の力」などというフレーズを耳にするが、本当に「力」をもつのは、読者の記憶に残る言葉か、あるいは言葉自体は記憶から消えるけど、読書体験が確かに新たな思考の領域を解き放ったような言葉か?

書き手のプライドを満たすのは詩の方だろう。自分の書いた言葉が他人にそのまま記憶され、引用されるのをみることで、詩人はプライドを満たすかもしれない。散文によって人に与えた影響は、散文の定義からして言葉で表現するのが難しい。しかし、読み手を満足させるのは、実は散文ではないかと思う。詩は、読み手を詩人に従属させる側面がある。それに、詩の「含み」を考えるだけでは内容にも限界があるし、視野も狭くなる。でも、散文を読んで得るのはそういった狭い視野においての「内容」ではなくて、思考の形式だ。読み手は、散文の書き手に従属しない。ただ、何かを学び、今自分の目の前にある世界をその「何か」を通してより広く理解できるようになるだけだ。こちらの方が、読み手を自由にする。

ヘーゲルが散文を詩よりも高いところに置く理由は、この「自由」の度合いの差によるのだと思う。

最近の小説家や批評家の中には、小説を評して「この小説では言葉がモノの実感を伴っていない」というようなことを、「考え抜いていない」とか「中途半端だ」とか色々な言い方で言い換えているケースが多い。そして、こういう小説に対して、「文学の言葉」というようなことを言い、この人たちは結局「詩の言葉」で小説を書くのが良いのだ、といって批評を締めくくる。

でも、ヘーゲルの『美学講義』を読んだ後で、本当に「詩の言葉」で小説を書くのが良いのか? と私は疑問に思ってしまう。確かに、世界を実感のあるものとしてとらえなおすためには、詩の言葉は小説世界でも有効だったのかもしれない。それは特に日本では、戦後という大きな変わり目に人間の意識が順応するために必要だったのだろう。でも、私の世代のように、すでにある程度新しい世界が日常化している人々にとっては、そのような実感を呼び覚ます言葉はあまり必要ではない。むしろ、今度は人間が主体となって、世界を自分の思考の流れで変えていくことのできるほうが重要なのだ。

パソコンやプログラミングがこれだけ流行っている背景には、前述した意識の違いがあると思う。プログラミング言語も、人間の思考をそのまま世界に反映させる「散文」のモデルに近いものがあるし、詩とプログラミングとどちらを学びたいかを問われて「プログラミング」を選ぶ人の多いことは、詩の言葉よりも散文的なものが求められている状況を反映しているのではないか。

散文では、言葉の一つ一つは読んだそばから消えていくが、読書体験だけは確実に残っていく。そういう微妙な、言葉のレベルではなく思考や体験のレベルで本を批評したり、書いたりすることが現代では必要なのだろうと思う。そしてやっぱりヘーゲルはそういう意識を先取りして論じている辺りさすがだなあと改めて思うのでした。