先日、某塾のベテラン講師とお話する機会があった。全体としては建設的な時間を過ごせたけれど、一つ、気がかりなことがあった。かれが、「今の日本に暮らす分には、英語はできなくても良い」と言ったのだ。
英語教育に携わる人間としては、「自分は本当に「必要」なことを教えているのだろうか」という問いは常に考えるものだろう。そして、「実際、英語は必要ない」という結論の方が、その逆よりも遥かに容易にたどり着ける。
容易にたどり着けはするのだが、しかし、それはたくさんのことを見落とした結果の答えでもある。要するに、思考停止。これ以上考えるのが面倒だから、曖昧な返事をしておく、というようなもの。
というのも、実際に英語が必要となる理由や場面を想像するとなると、集中力が必要だから。
僕が個人的に一番思うのは、英語を知っておくのは政治的にとても重要だということ。
具体的には、こういう場面を考えている: 自分が、何らかの事情で、1週間を越える長期間、中国やアメリカ、ヨーロッパなどへ行く機会が生まれる。場合によっては、そこに数年居住する可能性もあるとしよう。そうしたとき、英語が話せなくても、お金さえあれば生活はできそうだ。現代は世界中どこへ行っても、グーグルが使えるし、スーパーや薬局もある。ホテルだって、言葉にして伝えなければならないことなんてほとんどない。部屋を借りる場合も似たようなものである。最悪、借りるその日だけ通訳を雇えば良い。英会話を学ぶよりはよっぽど安上がりである。
さて、こうして海外に渡り、とりあえず生存はできるのは事実だ。自分にとってはそれでも良いかもしれない。しかし、地元の人たちはどうか。全くコミュニケーションがとれない相手が、自分の近所に住んでいる。あるいは、自分の店に来る。話したいが、話せない。それどころか、こちらの考え方やものの道理も理解してくれない。あちらはお金さえ払えば良いと考えているのだろうが、そういう考えの人がこの先近所に増えてゆけば、もうこの場所は以前とは違ったものとなってしまう...
こうした懸念は、何も僕がこの場でなんとなく思いついたものなのではない。実際に、例えばカナダのバンクーバーで、こうした事態が起きているのだ。具体的には、一山当てた中国人が近年大量に移住し、全く英語も話せないし地元文化への理解もない状態でバンクーバーに住んでいる。バンクーバーの土地を買占め、およそ町並みに合わないデザインの店や不動産をつくり、英語が話せない人たちの組織をつくってビジネスを運営している。あからさまに地元文化を壊しているのだ。それに、壊した文化に相当するような代わりの文化は、つくる努力をしていない。
こうした中、バンクーバーの地元住民の間では、中国人に対する差別的な意識も広がっている。中国からくるいわゆる拝金主義的な人たちにも非があるため、ことは複雑である。いずれにしても、一番の問題は、地元住民と移民が全くコミュニケーションをとれていない点にある。せめて英語が話せて、お互いの考えがわかれば、「ちょっとこういうことは遠慮してほしい」とそれとなく伝えることもできるし、例えば地元の新聞を読んでもらって地元への理解を深めてもらうこともできるかもしれない。もっとも、中国人が自己保身的でサバイバル重視になってしまうのは、中国の歴史や文化をみる限り仕方がないといえる。そうしたことを、バンクーバーの住民は理解すべきだが、中国からの移民たちも、カナダでは「サバイバル精神」でなりふりかまわず行動しなくても十分生き延びてゆけるのだということを知るべきである。
個人的な経験からこうした例を挙げてみたが、同じようなことは日本人の海外移住においても当然問題となるはずだ。そのときに、はたして英語が話せない人間が、外国の地元文化を理解しつつ生活することができるのだろうか。逆に、日本語が全く話せない移民が日本に来たときに、かれがはたして日本文化を理解し、それを壊さずに生活できるか、と考えてみれば良い。日本語が全く話せないが、金と力だけは持っている、そういう人間が自分の周りに増えてゆく事態を想像してみてほしい。やはり、日本にくる以上、日本語を学ぶ努力くらいはしてほしいと思うだろう。
そういうわけで、言語を知らない状態では自分の国から出ることができない。自分は良くても、相手の国にとって非常に不都合が多い。そして、人種差別や右翼政治のきっかけをつくってしまう可能性も高い。こうした政治的問題は、自分の生存とお金のことだけ考えていては見落としてしまいがちだ。しかし、ちっぽけな「自分」という肉体の存在よりも、こうした政治の問題の方がはるかにリアルだと僕は思う。
なので、英語はぜひ学ぶべきです。