引越しが無事終わり、新しい仕事にも馴染み始めた。英語を教える仕事なのだが、とても楽しい。ここまで悩みもなくすんなり良いと感じることのできる仕事は初めてかもしれない。
ただ、だからこそ感じる危機感がある。私の当初の目標は、安全な場所に住みつくことだった。たしかに、今は色々な意味で「安定」している。しかし、「安全」ではない。日本の政治、特にエネルギー政策は、国民の安全を全く度外視している。つい昨夜、愛媛県で震度5ほどの地震があったそうだ。私のアパートでも微震を感じた。このクラスの地震が来ても、もはや誰も驚かなくなっている。しかし、こうした地震が日常化しているという事実の本当の意味を考えてみてほしい。私はゾッとする。地震で家が壊れるくらいならばまだ対処の仕様もあるだろう。しかし、原子力発電所で事故が起こり、被ばくした場合、対処の仕様がない。特に子どもは、被ばくしやすく、体を蝕まれやすい。原子力発電については様々な利権がからんでいるため、正確な情報を得るのがとても難しい。しかし、チェルノブイリやヒロシマに関する論文を読む限り、ある一定量の被ばくとある種類の病気との間にはたしかなつながりがあるようだ。そして、例えば原発作業員が異常な量を被ばくしていても平然としている国会及び国民をみると、危機感が足りていないと感じてしまう。
なぜ危機感が足りないのかというと、変な話だが、今ある生活をなくすことが怖い、つまり恐怖があるから、危機感がもてないのだと思う。客観的にものごとをみることができないのだ。「たしかに、客観的にみれば、日本で子育てをこれからしていこうと思うのは問題だらけだ。でも、今の私の生活は悪くないし、これを捨てたらこの先どうなるかわからないから不安だ。だから、これ以上考えたくないし、大きな決断もしたくない。」 こうした守りの姿勢は、「温泉気分」と「恐怖心」の微妙なバランスがあってこそ成立する。安心と恐怖を両方抱えて生きている人はけっこう多いのだろう。
とにかく、私の今の生活は、正にこうした安心と恐怖の混ぜ合わせなのだ。だからこそ、ここで当初の目標を見失わずに自主的に色々なことを進めてゆけるのかはとても大切なことだ。気持ちの面ではしんどいけれど、なんとかしたいと思う。