Sunday, 6 July 2014

平凡なものに対する嫌悪はそれ自体平凡だ

哲学は近代に入ってから、否定性を本気で考えるようになった。否定性とは、今目の前に現存しないもの、人々が「ない」と思っているものごと、その「ない」感じのことだ。ないはずだけど、それは「ある」ものごとにたしかに影響を与えている。というより、なにが「ある」のかを決めるのは、「ない」ものごとだから。

この考え方は、芸術や宗教や思想にも応用できるし、応用しないといけない。よく、芸術は平凡なものを拒むという。一面では、これは正しい。極端なことをできない人は芸術家ではない。極端ではない作品は芸術作品ではない。極端でありながら意味がわかり、抵抗し難い魅力を持っており、ある種の強烈な磁力を持っている作品こそ、芸術作品だ。しかし、そこで否定されている「平凡なものごと」は、単に忘れ去られていてはいけない。平凡なものごとをどう否定するかが芸術作品の命だ。否定の仕方は色々あると思う。上から塗りつぶすもよし、真っ向から対立するもよし、そのまま表象するもよし、拒絶する素振りをみせるもよし、作品中で少しずつ破壊するもよし、または気がついたら消えていた、という風に作品を構成するもよし... 平凡なものをどう否定するかによって、作品のレベルが決まる。

平凡なものごとを単に拒絶することはそれ自体平凡だ。しかし、そういう芸術作品、そういう宗教、そういう思想が、ちまたには溢れている。溢れすぎている。誰もこんなものには満足していない。ただ、こうした作品や宗教や思想を創るほうからしてみれば、これ以上楽なものはない。教養もエネルギーも必要がないから。もちろん、良いものがたくさん出回っている世の中においては、こうした凡作、つまらない宗教、虚しい思想はすぐに廃れる。しかし、こうしたつまらないものごとしかない世の中においては、相対的に輝くこともできる。増えれば増えるほど、人々にそれは受け入れられていく。

これはとても残念だ。ただ、ことの元凶は、かつての素晴らしい芸術作品や宗教や思想にあるのかもしれない。そうしたものがあまりにも素晴らしすぎて、新しいものを創る人々はやる気がなくなってしまったのかも。あるいは、ただ何か異なることをするだけでも大変なこととなってしまったので、何か異なることができた時点で満足してしまい、消費するほうも、ただ今までと異なることができたというだけで満足してしまったのかもしれない。そのもの自体の質を真摯に評価すれば、それがつまらないものだとわかったかもしれないが、それだと、ここまできて結局過去を越えることができていない、という辛い現実と向き合わなければいけないから、人々はそれから眼を背けるのかもしれない。

だったら、まだ過去の芸術作品や宗教や思想を学んで、それを反復するほうが、よっぽど新しいだろう。というか、それより他に道はないようにすら思える。だから、個人的には、ジョイスを読み、キリスト教の聖書を読み、ヘーゲルの哲学をまだまだ考え抜きたいと考えている。もしかしたら、この三つを越えるものもあるのかもしれないけど。