日本ではアカデミズムの枠内にあるものを「哲学」、人間や社会の現実に関与するものを「思想」と称する傾向がある。カントは哲学で、マルクスは思想という具合だ。そしてほとんどの学生が関心を持っていたのは、哲学ではなく思想だった。
しかし、この言語習慣そのものが、日本の哲学への静かなる批判というべきだ。私も本書では、この二つの言葉を厳密に区別することなく併用しているが、個人的にはいつの日か、「哲学」という言葉が両方の意味合いをごく自然にあわせ持ち、外国語への翻訳が困難な「思想」という言葉が次第に死後となっていくことを願っている。
鈴木直『輸入学問の功罪』157ページ
翻訳批判の本はたくさん存在し、その多くはある訳文を選び出して欠点を挙げ連ね、筆者自身が改訳を載せる、といった流れだ。しかし、1ページに数個、一冊の本に数百個の誤訳があるのは当然なので、ごく一部をそこから抜粋して「読みづらい」だの「主格が誤訳されている」だの述べてみてもいまひとつ建設的でない。批判するならば、その翻訳作品全体の流れを一度肯定した上で批判をすべきだ。
そういった意味では、鈴木直氏の『輸入学問の功罪』には典型的な「部分的批判」が多く含まれている。しかし、他方で、とても大切な指摘もこの本には含まれている。まず、鈴木氏はマルクスの和訳の歴史を例に挙げ、1920年代の高畠訳の方が、その後の向坂訳などよりも読みやすく訳されているということを指摘する。これは面白い指摘である。さらに、その後、三木清が高畠訳に対して実に情けない批判をしているところを鈴木氏は引用する。これによって、逐語訳至上主義が三木のような反体制的な書き手によってでさえ奨励されていたと論じる。
その後、鈴木氏は逐語訳至上主義の源泉を当時のエリート高校生の精神状態から説明しようとするが、これも面白いながら、やや説得力に欠ける――たしかに、鈴木氏の引用する学生新聞の文には、高校生エリートたちの淋しさと、それを紛らすために飛び交う虚しい美辞麗句とが含まれている。ただ、実際にカントやヘーゲルなどの和訳にとりかかった特定の翻訳者たちがこうした文体や状況に支配されていたかどうかはわからない。そのため、逐語訳至上主義の背景の一要素としては高校生の精神状態を含めてもよいかもしれないが、ことの核心をここに求めるのは無理がある。
受験戦争によるエリート選別のシステムをもう一つの根拠として鈴木氏は挙げているが、こちらの方が説得力がある。いわゆる「俗な」一般人にはわからないような専門用語を多く知っていればいるほど受験にも有利であるし、選別をする方も、学生の記憶している専門用語の数で学生の能力を測るのは都合が良かったはずだ。そして、こうしたシステムを通して生まれたエリートは、そのシステムを再生産し拡大するために努力をするだろう。その結果、翻訳書は難解な逐語訳が好まれるようになるわけである。
私自身はエリート高校で自己形成を阻まれつつ虚しい生活を送った経験もなければ、受験戦争に加わった経験もない。それでもなお、逐語訳をしてしまいたいという誘惑に駆られることはある。私がそう感じる原因は、その方が手早く確実にミスを回避しつつ訳ができるからである。要するに手抜きだ。これに対して、文意を曲げずにかつ工夫を凝らして翻訳をする方がはるかに手間がかかる。体力も使う。そのため、逐語訳の誘惑に負けないように、いつもその危険を意識していなければいけない。そのことを鈴木氏の著作は再認識させてくれた。
『哲学の方法について』はまだまだ改善の余地があるので、近々推敲したいと思っている。
そういった意味では、鈴木直氏の『輸入学問の功罪』には典型的な「部分的批判」が多く含まれている。しかし、他方で、とても大切な指摘もこの本には含まれている。まず、鈴木氏はマルクスの和訳の歴史を例に挙げ、1920年代の高畠訳の方が、その後の向坂訳などよりも読みやすく訳されているということを指摘する。これは面白い指摘である。さらに、その後、三木清が高畠訳に対して実に情けない批判をしているところを鈴木氏は引用する。これによって、逐語訳至上主義が三木のような反体制的な書き手によってでさえ奨励されていたと論じる。
その後、鈴木氏は逐語訳至上主義の源泉を当時のエリート高校生の精神状態から説明しようとするが、これも面白いながら、やや説得力に欠ける――たしかに、鈴木氏の引用する学生新聞の文には、高校生エリートたちの淋しさと、それを紛らすために飛び交う虚しい美辞麗句とが含まれている。ただ、実際にカントやヘーゲルなどの和訳にとりかかった特定の翻訳者たちがこうした文体や状況に支配されていたかどうかはわからない。そのため、逐語訳至上主義の背景の一要素としては高校生の精神状態を含めてもよいかもしれないが、ことの核心をここに求めるのは無理がある。
受験戦争によるエリート選別のシステムをもう一つの根拠として鈴木氏は挙げているが、こちらの方が説得力がある。いわゆる「俗な」一般人にはわからないような専門用語を多く知っていればいるほど受験にも有利であるし、選別をする方も、学生の記憶している専門用語の数で学生の能力を測るのは都合が良かったはずだ。そして、こうしたシステムを通して生まれたエリートは、そのシステムを再生産し拡大するために努力をするだろう。その結果、翻訳書は難解な逐語訳が好まれるようになるわけである。
私自身はエリート高校で自己形成を阻まれつつ虚しい生活を送った経験もなければ、受験戦争に加わった経験もない。それでもなお、逐語訳をしてしまいたいという誘惑に駆られることはある。私がそう感じる原因は、その方が手早く確実にミスを回避しつつ訳ができるからである。要するに手抜きだ。これに対して、文意を曲げずにかつ工夫を凝らして翻訳をする方がはるかに手間がかかる。体力も使う。そのため、逐語訳の誘惑に負けないように、いつもその危険を意識していなければいけない。そのことを鈴木氏の著作は再認識させてくれた。
『哲学の方法について』はまだまだ改善の余地があるので、近々推敲したいと思っている。