FUKUSHIMA UPDATE published an entry a few days ago about how the United States is banning the import of food products made in Japan unless they pass physical tests.
Japanese food stores are selling seafood and dairy made in Fukushima (and other surrounding prefectures in the Tohoku area) on a daily basis. People in Japan are buying them. The gap between the U.S.'s and Japan's perception of the situation is quite big and shocking.
Until recently, I had been working as a teacher at an English language school in central Japan. I taught kids under 12 and adult classes. One student from one of the adult classes one day wrote in his English diary that he had cancer. It was a bladder cancer and he had to get an operation. The man was still in his late 30s. The operation succeeded, thank goodness.
Even if I avoided buying food made in Tohoku, it could still enter my diet via processed food. Many Japanese workers have a habit of buying their lunch and dinner at a restaurant or a convenience store. Neither restaurants nor convenience stores have the obligation to show where their food came from.
When I worked at a farm in Ibaraki back in the summers of 2011 and 2012, the farm owner told me many stories of how brokers traveled around the Tohoku area and northern Ibaraki to buy up all the contaminated crops at a ridiculously cheap price.
Why did the farmers choose to sell their contaminated crops? Did they not know that they were putting people at risk?
The tragedy is that they did know, but then they perceived themselves (partly correctly) as victims, and that perception justified, at least in their own eyes, their irrational decisions. Many full-time farmers are farmers by birth, and it is their duty to protect their house and land. A farmer who cannot sell his or her crops is like a writer who cannot sell books, or a songwriter who cannot sell songs. Not because the crops, songs, and books are unpopular, but because of a sudden, totally unreasonable event like the Fukushima accident.
As a person who writes and publishes translated texts, to bring it home, I would imagine the situation as follows. I worked on a book for a year, working like crazy every day for hours and hours. The book is finally ready. Then, suddenly, scientists discover that every time a person looks at the letter "e" that person's life expectancy diminishes by one minute. Therefore, anyone who reads a book written in English risks dying a few months earlier. Reading 10 books per year might then cut your life expectancy to half. That means that people in Japan would die at around 45 years old. Which is pretty shocking. But then, as a translator who worked on something which I believe is worthwhile reading, what should I do? Just let the project go? And since any book will cause people to shorten their lives, I would not be able to translate anything anymore. What should a translator do then?
Something similar happened to the farmers in Tohoku on March 11, 2011.
No wonder, then, that many committed suicide. Just trying to imagine how they must have felt makes me feel slightly nauseous. I honestly cannot understand how exactly they must have been feeling. I don't think the farmer who told me these stories understands how the suicides felt, either.
More than four years have passed since then, and little has changed. Farmers still sell their products to brokers, and brokers sell these privately in shopping malls and to food factories. The brokers do it for the money. The farmers do it out of desperation to keep sane and keep on living.
Right now in Japan, the government is doing a very good job at convincing the people that those who criticize TEPCO and nuclear power plants are simply "paranoid" and "ultra-leftist." Such convenient labels.
Before teaching at an English school, I also taught junior high and high school students privately. I would ask them what they think about Fukushima, and quite a few of them answered that those who worry too much are "paranoid."
The sad truth is that it is really quite impossible to live sanely if you worried about radioactivity every day. And yes, paranoia does exist. When citizens of Fukushima evacuated from their hometowns and moved south, many people in Tokyo, Kyoto, etc. hung banners off their apartment balconies which said something like: "Go Back to Fukushima! Don't Bring In Radioactivity Here!" That is paranoia.
It is not paranoia, however, to wonder whether the food made in Tohoku is safe. And it is not paranoia to try and avoid it, especially to try and avoid feeding it to infants and young children.
Living in Japan, I can feel the constant anxiety in the air ever since the disaster. Something has definitely changed. It's very important not to go into denial. Remember that farmers and fishermen in Tohoku are still struggling to come to terms with what has happened. The way foreign countries react to Fukushima today gives me a much better idea of the reality of the situation than the propaganda that the Japanese media and government are spreading.
さらにもう一つショッキングな事実がある。震災から4年も経過しているのに、いまだに福島県で25,000人以上、宮城県で30,000人以上が仮設住宅に住んでいる。そもそも仮設住宅は「仮設」なわけで、老朽化の進みが速い。私は現地にはもうしばらく行っていないので、地元の方々の声を把握できていない。それなので、具体的に何が理由で55,000人以上もの人たちが仮設から出ることができていないのかもわからない。
2012年夏に宮城県を訪れた際にみたのは、経済的な理由に加え、地元への愛着があって移住ができない人たちだった。土地への愛着は老若男女問わずある―例えば、14歳の男子が「将来市役所に勤めてこの市を回復させたい」と話していた。しかし、汚染水の管理も不安定では、宮城県の海沿いの地域や、福島県の東側などは、到底帰郷できるような状態ではない。
政府がいかに手段を尽くしたところで、特に福島県の原発半径20キロ圏内にはもう人は住めないだろう。この現実を地元の人たちに伝えるのは容易ではない。震災から4年が経つが、4年でこの現実を呑みこめるものだろうか。
しかし、こうした現実を伝えようとするどころか、日本政府は2017年までにすべての福島県民が帰郷できるようにする、などと公言している。辛い状況にある被災者たちならばまだしも、東京で以前とほとんど変わらない生活を送っている人たちが現実逃避をしている。ただ、これは単なる現実逃避ではなく、TEPCOや日本政府、原子力安全委員会などの責任を軽くするための現実逃避であると考えた方がよいかもしれない。
復興庁によれば、原発周辺の町の住人の内、帰郷したいと考える人の割合は約10%らしい。これは先日多和田葉子さんの朗読会で印象深かったことの一つなのだが、多和田さんは福島のあるお年よりからこういう話を聞いたと言った―「地元には帰りたい。家にも戻りたい。しかし、孫のいない家には戻りたくない。孫たちが遊びに来てくれるような家でないといけない。しかし、自分の故郷は、孫を安心して呼べるようなところではもはやない。だから、帰りたくない。」 ―汚染された土を土嚢のようにして積み上げる計画があるらしいが、これに対して、多和田さんは、この土嚢を烏や鼠が破り、土が静かに漏れ出すイメージを短い詩で表現した。このお年寄りが「帰郷」という言葉を思い浮かべるときに、同時に感じていることをイメージにするとしたらこういうイメージになるのかもしれない。
予算についても、当初の19兆円に、2013年にはさらに6兆円上乗せし、またさらに増額する動きもあり、結局30兆円近くなっている。田中康夫さんが指摘しているように、避難民に単純に分配すれば一人5000万円以上受け取れる。新しい家を建てることは必ずしもできなくても、5000万円あれば、お年寄りならば100歳まで生きることはできるだろうし、若者でも、新しいビジネスを始めたり、大学や大学院に行ったり、あるいは就職活動をしたりする余裕が得られる。仮設住宅に閉じ込められ、「いつか帰れるから、それまで我慢してくれ」などと政府に言われ続けるよりはよっぽど良いはずだ。
しかし、このような分配が行われない理由は二つありそうだ。一つ目は、単純なばらまきは納税者の支持を得づらい。税金というのは本当は国家の所有物であって、納めた時点でもう個人はこのお金と何のつながりも持たないはずなのだが、納税者の中には、「私のお金」という意識を捨てきれない人が案外多い。自分の利益や快楽のために大金を使うよりも、国家を通して国民の福祉に貢献する方が遥かに名誉なことだと思うが、そういう意識は現代のリベラルなイデオロギーの中では少数派なのだろう。二つ目は、ナオミ・クラインが「惨事便乗型資本主義」と呼ぶ現象が福島でも起きようとしているのではないか、ということ。投資家や外国の大企業にとって、福島のような惨事は未解決であった方が都合が良い―なぜそうなのかは『ショック・ドクトリン』に詳しく書いてある。そのため、巨額の予算を設定しつつ問題を未解決なままにしておくことは、政府にとっても企業にとってもとても大切な目標となる。
最近、鹿児島地裁は九州電力の有する川内原子力発電所の再稼動差し止めを却下した。原告は地元住人たち。対して、関西電力の高浜原発の差し止め処分は昨年5月に通っている。詳しい資料にアクセスできないのでなんとも言えないのだが、なぜこの二つの判決がこう異なるのかは気になる。
経済や利権、また与党の支持率維持、改憲問題など、色々な要素が絡まりあい過ぎていて、原発関連の人たちの言うことはとても直接鵜呑みにできるものではない―それは賛成派についても反対派についてもいえる。当人でなければわからないことも当然たくさんあるが、他方で、外からの視点でないとみえないものごともたくさんあるのではないかと思う。
さらにもう一つショッキングな事実がある。震災から4年も経過しているのに、いまだに福島県で25,000人以上、宮城県で30,000人以上が仮設住宅に住んでいる。そもそも仮設住宅は「仮設」なわけで、老朽化の進みが速い。私は現地にはもうしばらく行っていないので、地元の方々の声を把握できていない。それなので、具体的に何が理由で55,000人以上もの人たちが仮設から出ることができていないのかもわからない。
2012年夏に宮城県を訪れた際にみたのは、経済的な理由に加え、地元への愛着があって移住ができない人たちだった。土地への愛着は老若男女問わずある―例えば、14歳の男子が「将来市役所に勤めてこの市を回復させたい」と話していた。しかし、汚染水の管理も不安定では、宮城県の海沿いの地域や、福島県の東側などは、到底帰郷できるような状態ではない。
政府がいかに手段を尽くしたところで、特に福島県の原発半径20キロ圏内にはもう人は住めないだろう。この現実を地元の人たちに伝えるのは容易ではない。震災から4年が経つが、4年でこの現実を呑みこめるものだろうか。
しかし、こうした現実を伝えようとするどころか、日本政府は2017年までにすべての福島県民が帰郷できるようにする、などと公言している。辛い状況にある被災者たちならばまだしも、東京で以前とほとんど変わらない生活を送っている人たちが現実逃避をしている。ただ、これは単なる現実逃避ではなく、TEPCOや日本政府、原子力安全委員会などの責任を軽くするための現実逃避であると考えた方がよいかもしれない。
復興庁によれば、原発周辺の町の住人の内、帰郷したいと考える人の割合は約10%らしい。これは先日多和田葉子さんの朗読会で印象深かったことの一つなのだが、多和田さんは福島のあるお年よりからこういう話を聞いたと言った―「地元には帰りたい。家にも戻りたい。しかし、孫のいない家には戻りたくない。孫たちが遊びに来てくれるような家でないといけない。しかし、自分の故郷は、孫を安心して呼べるようなところではもはやない。だから、帰りたくない。」 ―汚染された土を土嚢のようにして積み上げる計画があるらしいが、これに対して、多和田さんは、この土嚢を烏や鼠が破り、土が静かに漏れ出すイメージを短い詩で表現した。このお年寄りが「帰郷」という言葉を思い浮かべるときに、同時に感じていることをイメージにするとしたらこういうイメージになるのかもしれない。
予算についても、当初の19兆円に、2013年にはさらに6兆円上乗せし、またさらに増額する動きもあり、結局30兆円近くなっている。田中康夫さんが指摘しているように、避難民に単純に分配すれば一人5000万円以上受け取れる。新しい家を建てることは必ずしもできなくても、5000万円あれば、お年寄りならば100歳まで生きることはできるだろうし、若者でも、新しいビジネスを始めたり、大学や大学院に行ったり、あるいは就職活動をしたりする余裕が得られる。仮設住宅に閉じ込められ、「いつか帰れるから、それまで我慢してくれ」などと政府に言われ続けるよりはよっぽど良いはずだ。
しかし、このような分配が行われない理由は二つありそうだ。一つ目は、単純なばらまきは納税者の支持を得づらい。税金というのは本当は国家の所有物であって、納めた時点でもう個人はこのお金と何のつながりも持たないはずなのだが、納税者の中には、「私のお金」という意識を捨てきれない人が案外多い。自分の利益や快楽のために大金を使うよりも、国家を通して国民の福祉に貢献する方が遥かに名誉なことだと思うが、そういう意識は現代のリベラルなイデオロギーの中では少数派なのだろう。二つ目は、ナオミ・クラインが「惨事便乗型資本主義」と呼ぶ現象が福島でも起きようとしているのではないか、ということ。投資家や外国の大企業にとって、福島のような惨事は未解決であった方が都合が良い―なぜそうなのかは『ショック・ドクトリン』に詳しく書いてある。そのため、巨額の予算を設定しつつ問題を未解決なままにしておくことは、政府にとっても企業にとってもとても大切な目標となる。
最近、鹿児島地裁は九州電力の有する川内原子力発電所の再稼動差し止めを却下した。原告は地元住人たち。対して、関西電力の高浜原発の差し止め処分は昨年5月に通っている。詳しい資料にアクセスできないのでなんとも言えないのだが、なぜこの二つの判決がこう異なるのかは気になる。
経済や利権、また与党の支持率維持、改憲問題など、色々な要素が絡まりあい過ぎていて、原発関連の人たちの言うことはとても直接鵜呑みにできるものではない―それは賛成派についても反対派についてもいえる。当人でなければわからないことも当然たくさんあるが、他方で、外からの視点でないとみえないものごともたくさんあるのではないかと思う。