大江健三郎の『取り替え子』を、終章を除いて読了した。タイトルに関する種明かしはどうやら終章で行われるようなので楽しみなのだが、一つ発見したのは、今までの大江小説の中でおそらく初めて、大江は意識的に繰り返し「もの自体」というフレーズを使っている点。同じく多様される「アレ」という代名詞と並んで、印象的だった。
小説家が意識的に「もの自体」と書くとき、それは言葉側からの、世界の側への敗北宣言とも解釈できてしまう。
これは非常に難しい問題で、要するに言葉と世界との関係、あるいは言葉と、そこから沸き起こる感情や印象などの関係をどう構築していくかということだ。小説の言葉を無味乾燥な、作者の工夫などほとんど感じられないものに設定することで、そこに書かれている内容を引き立てようとするやり方。あるいは、言葉に工夫を凝らし、読者が見覚えのあるはずの景色を改めて新鮮なものとして経験させようとするやり方。迷う選択である。欲をいえば、両者を一度に達成したいところだけど、これは至難の業。偶然によるところも少なくないし、意識的に達成できるようなことではない。
さて、だからといって、一方に偏りすぎてしまうのは問題だと思う。大江はそこのところを自己批評しつつ、「もの自体」というフレーズを導入したのではないか。
だからといって、では「もの自体」を言葉をとおしてみつめなおすのをどうやれば良いのか、といえばそれは容易には説明できない。Tellではなく、showでしか伝えられない。「もの自体」も、あまりにも透明な言葉で表現されてしまっては、それこそ仏教的な解脱の域に達して、万物は無常である、とかなんとかいう抽象的で実感の薄いところへ嵌まり込んでしまうだろう。
以上のことを考慮にいれて、改めて思うこと。一応の結論としては、言葉を考える上での出発点は常に「もの自体」であるべき、ただ、言葉が「もの自体」を変形する瞬間があっても、それが印象的であれば大丈夫。これより先は、tellではなくshow、語るのではなく示す他ないように感じている。