カントを読みすぎた人が書くような御題が続いているが、決してカントを意識してのことではない。自然にそうなってしまうのは、それだけカントの哲学が何か核心に迫るものがあったのだろう。とにかく、ここは哲学を扱う場所ではない。徹底的に考える場所でもない。思いつきを無責任に書く場所に過ぎない。
今日の思いつきは、物語の文章と時空間の関係。
通信手段や移動手段が高速・長距離・身近となったことで、時空間が縮小されたかのように感じる、というのは別にアカデミックな方々に言われるまでもなく、前世紀と今世紀とを比べれば一発でわかる。でも、日本語の使われ方、特に小説における使われ方は、まだまだその変化に適応できていない。
例えば、携帯電話の普及、それも3Gワイヤレスに接続することによって世界ネットワークがあるような状態においては、会話とか、自然な注意の流れが大きく変わってしまう。以前は、例えば眼の前のものをみてそれについて考えたり、遠くのあの人に思いを「馳せる」のが自然だった。今は違う。遠くのあの人には思いを「馳せる」のではなく伝えれば良いのだし、眼の前のものなど、世界中を写した写真や動画との競争の前に一瞬でつまらないものになってしまいかねない。距離的に近い、遠い、というのはもう意味が無い。眼前のものごとや、今現在のことだけに注意を奪われている人物を描くようなことは話にならない。たとえリアリズムであっても、ただその人物の身近のことをさりげなく書くのでは現実的などころかむしろわざとらしいし、その人物の品位のようなものも落としかねない。時空間的には、拠り所となる地点などない。ここで、例えば風景描写一つとっても、あるいは思考や会話の流れ一つとっても何をどのような順番で並べてゆけば良いかを新しい仕方で決断していかなかればならない。眼の前の人物と話すことは自然ではない。今起きていることにそのまま感情的に反応しているのも、自然ではない。
時空間上のあちこちで起きていることを自由に紡ぎ合わせてゆくのには、書くほうも新しい課題を沢山乗り越えていく必要がありそうだ。