Wednesday, 16 October 2013

自由について 1

ヘーゲルの『法権利の哲学』は自由についての思考を始めるための土台です。哲学の方法を守っていますし、とても簡潔に書かれています。「土台」というのは、それ自体としては揺るぎないものですが、まだそれ自体として完結してはいないものでもあります。そういう意味で、この作品は精読されるべきです。精読した後で、自分の言いたいことをさらに付け足して行けば良いのです。

自由について述べる前に、まずは哲学の方法とは何かを簡単に書きたいと思います。哲学は概念を扱う学問です。概念は色々な形をとります。これらの形は、互いに別々のものではありません。むしろ、互いに重なり合っています。概念の全体も、概念の形の内の一つです。この形こそ、概念の持ちうる最上級の形なのです。対して、「これを外してしまっては、この概念自体が成り立たない」といった要素があるとします。そしたら、この概念の最下級の形は、この要素のみを含んでいます。哲学は、この最下級の形から出発します。例えば、自由という概念について考える場合、「これがなければ自由は成り立たない」という要素一つから出発します。そして、その要素の中に含まれる矛盾をバネにして、次の形へと考えを進めます。こうして、最上級の形にまで、つまり概念の全体にまで至ろうとします。哲学的な批判や発見は、すでに先人たちが描いた概念のもつ各段階を再び考え直し、途中でなにか飛躍はないか、省略されていたりないがしろにされたりしている段階はないか、あるいは、最上級の形と思われている形よりもさらに先の形はないか、などといったことを考えることで成り立っています。

ヘーゲルは、自由の概念の最小限の形、一つしか要素のない状態を次のように描いています。自由とは、意志の自由です。意志とは、個人に宿るものです。個人とは、思考、あるいは観念としてしか存在しないものです。つまり、必然性しかない自然の世界から逸脱した個人、思考の力によって全てのものごとから距離を置いた「私」こそ、自由の最下級の形です。この「個人」が存在するところから、自由は出発します。しかしながら、この「個人」は全く抽象的な存在です。内容が全くありません。自然界のものごとの一切はこの個人とは別のものですし、この「個人」の肉体や、考えや、感情や才能さえも、自由の形としての「個人」の一部ではないのです。自然も肉体も考えも感情も才能も、全てここでは必然的なもの、つまりすでにそのあり方が「どうしようもなく決まりきっているもの」なのですから。対して、この自由な個人には、あらゆる可能性を夢想する自由があります。

さて、この個人が始めにもつ自由は、否定的な自由です。というのも、この個人は思考によって自然の中のものごとの一切を否定し、そこから自身を切り離すことによって生まれたのですから。当然、自分の外にあるものごとは自分の自由を侵害するものとして目に映ります。こうしたものごとを斥け、破棄し、否定することで、この個人は自由を表現するのです。

ただし、こうした自由の表現は、逆に言えば外の世界にある様々なものごと失くしては成立しません。つまり、否定する対象がなくなってしまうと、この個人もまた潰えてしまうのです。もちろん、この最も貧しい自由の状態にひたり続けることは全く簡単なことです。現実の世界には、否定する材料はいくらでもありますから。自然物を否定できなければ社会制度や人間関係に対して否定的になれば良いですし、それすらもなくなって独りになった後も、自分の中に沸き起こる感情や考えを否定し続けることができます。サミュエル・ベケットの『名づけえぬもの』の主人公こそ、この自由を貫徹している好例といえるでしょう。

ここにきて、この否定的な個人は、自分の自由がその実結局自然物に支配された不自由さである、ということに気がつきます。しかし、同時にまたこの個人は自由です。自由で居続けるための打開策として、個人は自分の自由意志の対象に何か具体的なものを設定しようとします。しかし、あらゆる自然物は、結局偶然的にその場に現れては消えるものなので、自由にそれを実現することは個人にはできません。例えば、私たちは自分の感情を自分の思うように掻きたてたり鎮めたりすることができませんし、さまざまな欲望や物理的な制限などに対しても概して無力なものです。

しかしながら、一つだけ、この個人にとって自由に実現できるものがあります。それは、すでにこの個人が自由に実現しているものでもあるのです。何かといえば、それは他でもない、自由な意志そのものです。この個人は、自由な意志を自らの意志によって選び取ります。「私は自由になろう」と自分で決定するのです。自由な意志は具体的なものですが、それは自然物ではなく、思考によって自然の一切から距離をおいた結果生じたものです。つまり、自由に実現されたものなのです。あるいは、自由の生じるきっかけとなった出来事は必然的に起きたかもしれませんが、その結果生じた自由な意志は、自ら自分自身を実現しようとするこの段階に来たときに、このきっかけとは無縁の自立した存在となる、ともいえます。

こうして、自由な意志を自ら実現しようとするとき、自由は一段上の形へと発展しているのです。この新しい形を、ヘーゲルは「私的所有」(private property)と呼びます。