Tuesday, 29 October 2013

自由について 2

前回はヘーゲルの『法権利の哲学』を土台に、人間の自由がどう芽吹くのかを考えました。今回は、自由そのものについて、『論理学』から見えてくることを述べます。

『論理学』では、自由の前に必然性が来ます。必然性とは、何かがまさにそうであるしかない、ということです。例えば、肉体が朽ちることは必然的である、とかいう風に言います。逆に、日本がソチ五輪で一番多く金メダルをとるのは必然的である、とはいえません。とらない可能性もまだ否定できていないからです。

必然性とは、 なにに関しても、ことが起こった後でみえてくるものです。日本が五輪で金メダルをとってからでなければ、「なぜ金メダルがとれたのか」という問いは生まれませんし、そうした問いが生まれなければ、金メダルをとれた原因について考え始めることもできません。つまり、実際に起こったことしか必然的ではないのですし、逆に実際に起こったことならば、全て必然性の中で捉えることができます。

全てを必然的なものとしてみなしたときに、自由が生まれます。これが、ヘーゲルの考えの非常に面白いところです。ものごとの一部が必然的で、別の一部が自由なのではありません。自分の外にあることによって決定されてしまうものは、不自由です。自由なものは、自分の内部に自身の成り行きを決定する力や原因を持ち合わせています。例えば、金メダルをとった私と、金メダルをとる原因となったものごととが切り離されて考えられているうちは、私は自由に金メダルをとったとはいえません。この出来事に向けた一連の因果関係が全て一つにまとめられ、私の考えとしてまとまったとき、私は始めて、自由にこの出来事を起こした、ということができるのです。

この、自分の外で起こっていたようにみえた出来事が、自分の考えへと転化していく動きは、ヘーゲルいわく、存在、あるいは客観的なものが、概念、あるいは主観的なものへと昇華されていく(Aufhebung)ことです。ここにくると、ある出来事は、「私がそうみるからこそ」その出来事である、という風に捉えられ、その出来事を生かすも殺すも主観である私次第となります。そのため、必然性と自由とは二つの別々のものの見方なのではなく、ものの見方として二つを区別できる時点で私はすでに自由なのです。

とにかく、この思考の流れの中で一番大切なのは、自由になる前には、全てのものごとを必然性の名の下に一回まとめる必要がある、という点です。ものごとの因果関係がまだよくわかっていない内は、ある出来事の解釈をどう料理しようがそれは身勝手な偏見にすぎません。これでは、結局自分の外にある、自分ではまだ捉えきれていない原因によって、その出来事が決定されているからです。「これが起こるにはこういう因果関係しかありえない」といえるまで全てを考え抜いて、初めて、その因果関係に自分から関わっていく土台が生まれます。

必然性が自由の条件だとすれば、考えることの大切さが改めてみえてきます。昨今は、「考えている暇があったら行動しろ」とか、「意見をいうならばまずは行動に移せ」といった具合に、行動こそ意味と内容のある尊敬すべきことで、考えや意見、哲学や批評は口だけの薄っぺらい無力なものだと思われがちです。しかし、自分がそもそもどんな状況にいて、今とっている行動はなぜこうでなければならなかったのか、それを把握できないまま、がむしゃらに思いつきを実践に移しても、虚しいだけです。この虚しさと、人は向き合えていないように思えます。 考えることによってでしか、つまりものごとの必然性を把握することによってでしか、この虚しさを乗り越えて、本当に次に進むような行動をとることはできません。「なんとなく良いように思える」ことをやって、かりそめの安心感に浸っていても、全くそれははりぼての城のようなもので、自分の行動を今の世界の大局と結び付けていくためにはやはり学問が必要不可欠なのです。

ヘーゲルは、手つきも鮮やかに、哲学者が哲学によって哲学を正当化していくさまをみせてくれます。かれの打ち出すこうした自由の概念は、また改めて詳しく論じるに値するものです。