Saturday, 20 September 2014

出発点の問題

明日から数日間、お休みだ。じっくり読書をして考える時間にしたい。散歩や音楽もしたいと思う。今夜は久しぶりに蚊取り線香を焚いた。外からの風が冷たい。これから、温かい飲み物がおいしい季節になる。

哲学は、他の学問と違って、ある原理を前提とすることができない―こうヘーゲルは書いた。そして、哲学の基礎である「論理学」においては、「前提なき出発点」から思考を開始する必要があるのだ、ともかれは書いた。

しかし、「前提なき出発点」などというものは本当にあるのだろうか。一つは、「前提なき出発点」それ自体がありえるのかという問題。二つ目は、仮にそのような出発点があったとしても、そこにたどり着くまでに何かを前提としなければならないのではないか、という問題。

一つ目の問題は、容易にクリアできると思う。まず、前提なき出発点は、あらゆる前提を否定している。しかし、この否定が前提となっているので、その意味では「前提なき」とはいえないだろう、という反論はありえる。これは、ヘーゲルも折り込み済みの反論で、これに対してかれは、そうした否定自体もまた否定すればよい、と答えている。つまり、否定したということ自体をまた否定すれば、純粋な出発点だけが残る、というわけだ。

二つ目の問題の方は非常に難しい。たしかに、前提を取り払う作業においては、なんらかの原理が常に仮定されている。例えば、「私」は出発点にはならない、という議論を考えてみる。すべてのものごとは「私」の内部で起きている。そのため、「私」は絶対的な存在であるかのように思える。しかし、「私」が存在するためには、同時に「私ではないもの」が存在している必要がある。というのも、「私でないもの」が存在しない状態においては、「私」はもはや「私」としては存在できず、ただ抽象的な「有」でしかないからだ。そのため、「有」ではなく「私」が出発点となるならば、後者と「私でないもの」との間にすでになんらかの区別がされている必要がある。しかし、こうした区別が仮にあるのだとすれば、「私」はもはや絶対的な存在ではなく、より根本的な存在のもつ片割れであるにすぎない。そのため、「私」は絶対的な出発点とはなりえない。

同様の議論は、「私」に限らず、その他ありとあらゆる思考形式に対して使うことができる。例えば、タレスの「水」であっても、エピキュロスの「原子」にしても、それはすでに何らかの区別を前提とし、その区別の片一方を理由もなく出発点にしているだけなので、絶対的な出発点とはなりえない。

さて、こうした議論は、例えば「区別」という思考形式、あるいは「モーダスポネンス」という思考形式を前提としている。 こうした思考形式を前提としてしまってよいのだろうか。これは難しい問いだ。一目には、「こうした前提があるならば、「前提なき出発点」へ到達するのも不可能だろう」と言いたくなってしまう。しかし、他方では、「前提なき出発点」へと到達するまでの道のりは、その出発点の本性には影響を与えないから、こうした前提は問題にならない、と反論することもできそうだ。これは、もう少しじっくり考えて整理するべき問いだと思う。