『精神の鏡』の和訳は、『哲学の方法について』の和訳よりも一層自然に読めるものにしたい。『哲学の方法について』でも、わかりやすいように、自然なようにと心がけて和訳をしたのだが、結局まずは何よりも正確さが大切になる。そういう事情もあり、また自分自身の未経験・未熟もあり、『哲学の方法について』は改善の余地が多分にある作品となってしまった。それでも、これにあと1,2年かけるよりも、『精神の鏡』へと進んだ方が、数少ない読者にとっても、私自身にとっても生産的であろうと判断した。読みやすさとは何だろうと、いついかなるときも悩んでいる。寝ているときも、脳内の一部は起きていて、自動的に悩みが継続されているような錯覚にさえ陥る。
たまたま今目の前にある『精神の鏡』の190ページからの一節を取り上げる。
This immediacy is not identical with the immediacy of religious vision; it is not faith; for the religious immediacy is the genuine immediacy of imagination; the immediacy of science is the false immediacy of thought, which is trying not to be immediate, so that its immediacy is the mark of its failure. Science feels that it ought to be able to justify its assumptions; religion never feels that it ought to be able to prove the existence of God. That is the feeling of theology, which is not religion but science.
そして以下が和訳。immediacyを「直接性」と訳すのは問題があるのだが、まだ代案がないので、暫定的に「直接性」にした。
さて、ここでの直接性は、宗教における幻視と同一ではなく、よって信仰ではありません。というのも、宗教的直接性は想像による正真正銘の直接性ですが、科学における直接性は思想による偽の直接性だからです。後者において、科学は直接的になってしまうことを避けようとしているので、直接性は科学にとって失敗の証しなのです。また、科学は自らの前提を正当化できるようになるべきだと感じています。対して、宗教は、神の存在を証明できるようになる必要を全く感じないものです。そう感じるとすれば、それは神学のもつ感情ですが、神学は宗教ではなく科学です。
文章の流れを保つためには、原文の語順に忠実でなければならない一節になっている。しかし、日本語のもつ引力というか、性癖というか、習性のようなものからすると、どこか逆立ちしているような文章だ。
まず、「科学」や「宗教」などが主語となって、「感じる」という動詞が述語に来ている。ここが日本語ではいかにも不自然な感じだ。「From Mother Tongue to Linguistic Mother」というエッセイの中で、多和田葉子さんは、ドイツ人が鉛筆に向かって怒る様子を初めて目の当たりにしたとき「これはドイツ的アニミズムにちがいない」と思った、と書いている。ものに主体性を認めるという特徴がギリシア・ラテン言語にはあるのだろう。鉛筆から一歩進んで、「科学」などといった抽象的なものにも、主体性は自然と宿るのだろう。しかし、日本語ではなかなか難しい。なぜだろう。今なら、日本語で「この鉛筆は馬鹿だ」とか、「この本棚はえらい」とか書いても、さして不自然な感じを与えない。身近で愛着のあるものならば、そしてリアリティーのあるものならば、主体性を与えても良いのかもしれない。とすると、「科学」「宗教」などは、身近でもなく、リアリティーもないので、主体性を与えにくいのだろう。
「科学は、自らの前提を正当化できるようになるべきだと感じています」という一文など、このままではどうしようもない。そして、こういう「どうしようもない」文は本当にたくさんある。とりあえず直訳に近い形で訳すが、第一稿が仕上がったら日本語だけを読みつつバシバシ直す予定だ。
もう一つの悩みは、「直接性」という言葉。以前も書いたが、directとかdirectnessという含みが強い。immediacyあるいはimmediateは、「媒介がない」という意味なので、「無媒介」「無媒介な」としてしまいたいのだが、「無媒介性」までいくとすこしやりすぎな気もする。すでにimmediacyという語は「直接性」と訳すという伝統があり、例えばこの語を多用するヘーゲルの著作でもこの伝統は守られているので、今さら新語を当てるのも非生産的なのかもしれない。しかし、気になるものは気になる。この作品だけをみたとき、「直接性」という言葉はどうもしっくりこない。代案は、例によって直ちには(「直接には」)浮かばないのだが。「直接には」と「直ちには」の差異を考えることが、まずは出発点になるかもしれない。
さて、上に引用した節からは離れるのだが、もう一つ、「in itself」のような再帰の形をとる表現も、和訳する際にとても悩む。今のところは、「そこにおいて」「潜在的に」などなど、場合によって言い分けることにしている。「即自」という訳し方は、専門用語として一貫した訳語を当てたいときには仕方がないのかもしれないが、それにしても実感の薄い微妙な言葉だと思う。「即」という文字が「immediately」や「instantly」を強く連想させる一方、肝心な「in」があまりうまく表現されていない気がする。同様に、「implicit」と「explicit」の組を訳すときも、「暗示」と「明示」ではやはり日常表現との不和が強すぎていけない。「暗示」は「暗示をかける」という意味もあり、「明示」はやや硬い。「暗示」の代わりとして、「潜在」「潜在性」を今は多用し、場合によっては「暗に含まれる」という言い方をする。そもそも、「implicit」には「示されている」という意味はほとんどないので、「示」という漢字を保持する必要はない。また、「明示」という語は、「明らかにする」「引き出す」「明るみに出す」「明確にする」などといった表現に置き換えている。専門用語としての統一性は失われるが、言いたいことは伝わりやすくなる。