中畑正志氏が翻訳したアリストテレス『魂について』を読んだ。哲学の翻訳について日々考え関わるうちに深まる思いがある。それは、哲学を和訳するということは、一からその作品を書き直すことにも等しいという思い。中畑氏はあとがきで次のように述べている。
翻訳にあたっては、平明さというより以前に、アリストテレスの文章がともかく一応筋がとおり意味をなすような訳文を作ることを第一に心がけた。したがって当然、訳者自身の判断で言葉をかなり補い、また説明のための註も量が多くなっている。
また、次のようにも。
アリストテレスの主要な概念については訳語がかなりの程度固定しているために、まったく別の訳語の創出には逡巡したというのが正直なところである。結果的には、従来のアリストテレスの邦訳の拘束を免れることができず、いくつかの基本的語彙については訳語を補うなどの見苦しい工夫をしなければならなかった。アリストテレスの基本的概念の訳語については全般的な再考と改訂の必要があるが、それは別の機会を期すしかない。
従来の訳語の見直しを部分的に行うために行う工夫は「見苦しい」―たしかにその通り、と深く納得した。また、訳文作りの作業を、「ともかく一応筋がとおり意味をなすような訳文を作ること」を最優先して進める姿勢も深く共感する。(「共感」という言葉が安易に使われている昨今ではあまりこの言葉は好きではないのだが、ここではこうとしか言いようがないので仕方ない。)
哲学は西洋発祥の学問なので、それを日本語のような言語で行うためにはどうしても言語自体を大きく捻じ曲げていく必要が出てくる。その結果、日本語が「見苦しい」ものになってしまうことはある程度は避けられない。 ある程度は。訳者によって、何をどの程度まで「見苦しい」と感じるかが異なる。私見だが、日常語や日常感覚―それは「俗語」とははっきり区別されるもので、一種の美学すらも備えているような言語・感覚であり、それは詩人や小説家の積極的な興味の対象に常になっているようなもののことである―に可能な限り接近しようとしている訳者ほど、哲学の和文もまた優れたものになっていると思う。中畑氏の訳文は、読みやすいのみならず、表現されている思想が、実際に日本にも存在しているのだという気持ちにさせてくれる。あたかも、日本には昔アリストテレスのような人がいて、今はもう証拠となるものは何も残されていないが、かつては弟子たちも持っていてアリストテレスのような哲学を説いたこともあるのだ、などという空想すらさせてくれるような訳文だ。なかったはずのもの、現になかったものを、それがあったかのように錯覚させ、むしろそれがなければおかしいとすら思わせる訳文―中畑氏の訳文はそんな訳文だ。
同じことは、長谷川宏氏や中山元氏、田中美知太郎氏、木田元氏の訳文についてもいえる。
アリストテレスは18歳のときに初めて読もうとした。プラトンの作品群をひととおり読み終えた後だった。プラトン全集の田中美知太郎氏の訳文で、全く異国性や別時代性を感じさせない、じかに迫り来る文章だったことを覚えている。その後、岩波文庫から出ている対話篇を読んだときも、私は田中氏の訳文の余韻のおかげで、ややまわりくどい訳文となってしまっている作品も一気に読み進めることができたように思う。そして、私は哲学対話の活力に満ちていて、アリストテレスとはプラトンの後で一体どんなことをいうことができたんだろう、と興味に満ちていた。しかし、『形而上学』の日本語テキストと向き合ってみると、とにかく意味がわからず、1ページも読めずに挫折した。アリストテレスの場合、田中氏の訳文のような書き手に出会っていなかったので、出発点となる作品と出会えず、結局英語訳のものを後日読んだのだが、日本語では作品に触れられずにいた。
ふと先日、駅での忘れ物を売っているバザーをみていたら、『魂について』が350円で売られていた。こんな短い作品なのになぜこんなに分厚い本になっているんだろうと不思議に思い、興味本位で買ってみたのだが、中を読んでみて、新たなすばらしい訳者さんに出会うことができた。これのおかげで、他のアリストテレス作品の和訳にも入り込んでいけそうな気持ちになった。
西田幾多郎や田邊元の作品群、三木清や中沢新一、広松渉の書いた本などを読んでみると、やたら見慣れない言葉が連発されており、内容も一体どうやってカントやヘーゲルを「超えた」り「完成」したりしているのかが全く不明確なままだ、という印象しか受けない。『フィロソフィア・ヤポニカ』などには、西田が田邊を「子どもがいないから情愛がわからない」という風に批判した、などということが取り上げられ、そうではない、田邊は愛の哲学者だった、という議論が載っている。馬鹿馬鹿しいとしか思えないが、こういうレベルの論争ばかりが矢継ぎ早に出てくる。決め付けを決め付けと思わずにすらすらと造語を並べ立てていく書き手たち。例えば、「絶対無」とヘーゲルの「無」はどう異なるのか、といった基本的な点すら、説得力のある説明が与えられない。
和辻哲郎、鶴見俊輔などの書いたものの方がまだ「読める」が、そうはいっても、かれらはあくまで歴史家・民族学者であって、哲学者ではない。それはかれらの仕事への批判ではなく、ただ、かれらの仕事は日本語の哲学への貢献ではないということだ。『鎖国』や『日本精神史研究』は史実を一貫した物語へとまとめてくれていて読んでいて大変面白いし、文体も淡々としていて明るい。
長谷川三千子氏の『日本語の哲学へ』には、日本語で哲学をする上で「こと」と「もの」が持ちうる意味などを考察していて、断片的ながら面白い。ただ、やはりヘーゲルにうまく入り込めていない。日本語にこだわりすぎている。そもそも、日本語は完成した実質や体系などではなく、むしろ日本語はそれを使う人の言いたいことを柔軟に表現するために変容していく。私の偏見かもしれないが、英語よりも日本語の方がそうした変容がしやすいように感じる。それがために、せっかく定着しそうだった哲学訳語が日常語の変化に取り残されてしまい一新を要するようになってしまうことも事実だ。
例えば、「ある」と「いる」のちがいとか、「もの」と「こと」のちがいなどというところからは、哲学の議論は始まらない。また、「ある」「有」「存在」などの品詞の歴史や和訳の苦労の歴史も、哲学の議論の出発点にはなりえない。デリダを読んでいる人には怒られそうな話だが、結局、哲学は今を出発点とするしかないのだと思う。ヘーゲルの「純有」「純無」という言葉に縛られているとすれば、それは言葉の影響力というよりは、それが表現しているカテゴリーの力と言った方が良い。西洋哲学が日本に紹介されてすでに一世紀以上が経つが、まだ西洋のカテゴリーの消化や哲学議論の出発は到底日本語には定着していないように思える。翻訳者は、そうした消化や出発の手助けをするものなのだと思い込んでいたが、案外その担い手にならざるをえないのかもしれない。