Monday, 6 April 2015

恋愛と結婚

恋愛とは何か、結婚とは何かを考えるとき、私はいつもジェイムス・ジョイスとノラ・ジョイスの関係を思い浮かべてしまう。二人の関係の詳細は、ジョイスの書簡集や、リチャード・エルマンの『ジェイムス・ジョイス伝』を読むとわかる。

どれほどのロマンチストでも、恋愛の始まりはフェティシズムだと認めるしかないだろう。つまり、恋愛とはその人「自身」ではなくて、その人の「一部」に惹かれるところからしか始まらない。その人の話す言葉、匂い、動き方、顔立ち、趣味、性格、行動力、等々、色々とあるだろう。

恋愛が深まる転換点はどこかといえば、始めに惹かれる原因となった「一部」が突然なくなってしまうか、あるいはどうでもよくなってしまう瞬間だ。気がつくと、この人の話す言葉は耳障りなだけで、匂いも嫌なだけ、動き方もイライラさせるようなものだし、顔立ちも汚くみえる、趣味も悪いし性格も悪い、行動力があるようにみえて今はもう自分の殻に閉じこもっているようにしかみえない… このようにして、魅力は欠点へとみるみるうちに変貌していく。

しかし、「それでもなぜか、私はこの人と一緒にいるしかないと感じる」とき、恋愛関係は一歩深まる。というより、本当の恋愛の出発点はここである。これ以前はすべて幻想の中の個人的なお遊びにすぎない。相手の「部分」がすべて嫌になったとき、その人「自身」がみえるようになる。それは他の人に「ほら」と言って示せるようなものでもないし、自分でもうまく言葉にできないようなものだろう。恐らく、その人の名前でしか表せないような何かなはずだ。この「何か」とどこまでつながっていけるか―これが恋愛だと思う。

結婚とは、「私はもう人の「一部」に惹かれても、この人の「何か」の方に忠実でいます」と宣言することだ。恋愛の中では自分の中の気持ちでしかなかったものが、結婚によって一種の強制力をもつようになる。しかし、本気で学問を研究したい人が大学という機関へと進まなければいけないように、本気で相手を愛したい人はその人と結婚しなければいけない。結婚とは、「気持ちの上ではもう完全に嫌になっても、なおこの人と一緒にい続けます」という宣言である。

いうまでもなく、結婚はある種の快楽とは無縁だ。ある種の幸せとも無縁である。結婚をしたからといって、何か保障があるわけではない。現代においては、簡単に「離婚」ができてしまうし、離婚をおおごとだとも思わない風潮がある。そのため、結婚することは一層難しい。恋愛の出発点にすら立たないで結婚してしまう人もいるだろう。しかしながら、逆に、初対面に近い相手と、上で述べたような(おそろしいまでに)自由な関係をもつことを決意する人たちもいる。

ノラとジェイムスは、ここまで意識していたかどうかはわからないが、結婚のもつ問題や苦痛を味わい続けながらも最後まで一緒にい続けた。二人は、結婚した夫婦が皆そうするように、互いの最もつまらない部分、嫌な部分、汚い部分を、互いにさらけ出した。

汚い部分、弱い部分、嫌な部分を隠すのは簡単である。しかし、隠してもそれはその場しのぎにすぎない。その分、二人は夫婦としては関わり合えなくなる。「これをみせてしまったら、もう相手は私のところから離れてしまうのではないか」―怖くて隠し、距離ができる。相手を信頼できない印だ。結婚とは何かをわかっている人と一緒ならば、そこまで怖がる必要はないはず。