マノエル・デ・オリヴェイラが4月2日に106歳でこの世を去った。
『アブラハム渓谷』を初めて観たのは2011年だった。エマを品定めする二人の老婦人。口を閉じたエマは上品な娘に見えるが、口を開いて笑顔をつくると、大きな歯がむき出しにされ、サメのような表情が現れる。その1シーンだけがやけに「意味」を持っていた。しかし、『アブラハム渓谷』は意味がどうこうという映画ではないように思えた。オリヴェイラは、人が観るべきものを人に観させるためにショットを重ねていたのかもしれない。
それから4年後、ふとしたことで『永遠の語らい』を観ようと思った。そのときはまだオリヴェイラの死は知らなかった。映画を観た今日、初めて知った。
『永遠の語らい』のラストはびっくりする。オリヴェイラの死のニュースがもたらした感情と似ている。語られる歴史は残るが、歴史を語る人はいなくなる―そのことのショックを二度味わった。
ドストエフスキーやトルストイも真っ青になるような見事な対話シーンが『永遠の語らい』の後半部に登場する。そして、ローザ=マリアが会話の輪に加わり、多言語空間が英語一色になるが、この移り変わりが作り出す緊張感がこれ以上ありえないのではないかという程に綿密に、厳密に表現される。
この映画でもまた、観るべきものを観たという満足感が残る。
映画のラストと監督の訃報の二つのショックとはまた別の種類のショックも感じた。それは、映画のラスト近くで、ローザ=マリアが次のように言うとき―「今まで本でしか知らなかった場所に実際に行ってみたいと思ったので。」 それまでのシーンでは、ローザ=マリアがマリア・ジョアンに向けて語り、死んだ風景が教授の言葉によって蘇生されていく。「本でしか知らない」とは本当はどういう意味なのか、俗説や俗っぽい感覚が一掃させられるような台詞だ。
コンスタンティンノープルが中世ではキリスト教の聖堂からイスラム教のモスクへと変わり、現代においては博物館に変わり、「もうここでは祈ることができない」と話が終わる。そして、ローザ=マリアは床につけられた丸天井建造に際しての十字の傷跡をマリア・ジョアンに繰り返しみせてゆく。
まだ映画を自分の一部にできていないうちの、時期尚早なメモ。