Tuesday, 21 April 2015

ここ数年感じていることで、色々な人に言ってもいることなのだが、自分はもしかしたら女性的な精神をもっているのではないか、と思う。実際、雄の体にストレートな男性の精神が内臓されていても、雄の体にレズビアンの女性の精神が内臓されていても、どちらの人間も女性に対して性愛を感じるのだろうし、社会的にも区別がつかないだろう。それでも、前者は「普通」だと思われるだろうけれど、後者は「気持ち悪い」と思われてしまうかもしれない。

しかし、とにかく自分は男らしくないといつも思う。それに、男らしくならなければならない、とも思えない。雄の体を持つ人間は男らしくならなければ成熟した個人になりえない、などという偏見は捨てたい。

逆に、雌の体の中に男性の精神が内臓されているような人間もいるだろう。私はこうした人間が実は(かなり個人的に)一番苦手だ。同じくらい苦手なのが、雄の体に100%男性の精神を内臓しているような人。客観的にどうこうというわけではなくて、ただひたすら個人的に、苦手なのだ。

とはいえ、これも単なる毛嫌いではなく、ちゃんと根拠もある。思うに、体と精神の性を統一しなければならない、そして異性のみを性愛の対象とすべきである、などという命令は、それ自体が男性の精神の側から発せられている気がする。性愛やジェンダーに限らず、他の分野でも、男性的な考え方はこういう形をとっていると思う。つまり、「ある一つの形をのぞいて、他のすべてを下に見る」という考え方。逆に、女性的な考え方というのは、「すべてが一番ではない」という形をとるのではないか。

男性や女性になりきれないような人、なりきれないことを悪いとは思っていないけどすばらしいとも思っていないような人が私は好きだ。たぶんそうした人たちに共通するのは、「性については私はまだわからないことがあるから、もっと考えたい」という姿勢だ。

性を生殖機能と混同してしまう考え方はまだまだ根強い。少なくとも、キリスト教的な機関―ロシア正教会やローマカトリック教会など―はこうした立場をとっている。ロシアやアイルランドなどでは同性愛や同性結婚が認められにくい。ただ、新約聖書を読んでみると、イエス・キリスト自身が同性愛を禁じたことは一度もないし、むしろキリストの生き方には、性と生殖機能をしっかり区別せよ、既存の結婚制度に負けるな、という姿勢が含まれている気がする。

性とは体と心のつながりそのもののことではないか。