2015年4月2日、デヴィッド・ハーヴィーのThe Seventeen Contradictions and the End of Capitalismが発売された。和訳も近々出るかもしれない。
ハーヴィーは「資本」と「資本主義」とを区別する。「資本主義」とは資本に基づいた社会全体のことで、資本よりも範囲が広い。この作品は「資本」に焦点を絞っている。
マルクスの『資本論』をわかりやすい英語に翻訳し、現代の資本の状況に合わせて修正したら、ハーヴィーの作品になるだろう。ピケティの『21世紀の資本』が統計をずらずらと並べる本ならば、ハーヴィーの『17の矛盾』は資本を身近な問題として考える上で必要な道具を与えてくれる本である。そして、ピケティの作品が累進課税というあまりにも単純化された解答しか与えてくれないのに対して、ハーヴィーは世界の各地域に合わせてカスタマイズできるようなプログラムを提出している。
貧富の格差や環境問題、また資本に内在する論理的な諸問題(複利成長という不可能なことを要求したり、誰にも消費されえない商品を大量生産してしまうこと等々)を乗り越えるための鍵は、ハーヴィーによれば、お金である。
今、大学の経済の授業で使われている教科書の大半には、お金の機能として「価値の貯蔵」「会計の単位」「交換の媒体」の三つが挙がっている。しかし、これではお金に対してフェティッシュに関わることになってしまう。お金そのものに「価値」が「貯蔵」されるなどありえないし、「交換の媒体」はあたかも商品の交換の媒体であるように思わせる。ハーヴィーはマルクスに従って、お金を「労働の表象」(representation of labor)と定義する。「労働の対価」と言い替えてもいいだろう。つまり、お金とは、(1)誰か他の人に何かしてもらうためのもの、ないし(2)他の人のために何かをしたという証明、のいずれかなのだ。
とすると、お金の「価値」は労働の量や有無によって定められる。しかし、労働は「貯蔵」することができない。(年金制度はこうした貯蔵が可能であるという錯覚に基づいてデザインされているのでうまくいかない。)
また、労働を通してではなく、何か他の方法でお金が増えてしまっては、それに見合う労働がないので、お金と労働との間にギャップが生じてしまう。これは、ものの使用価値と交換価値の差の開きにもつながる。
こうしたことをおさえた上で、ハーヴィーはものの使用価値を交換価値に優先できるようなお金、また「価値の貯蔵」などではなく労働の対価として機能するようなお金をデザインするよう呼びかける。具体的には、使わずにいるとどんどん価値が下がるようなお金だ。
これによって何が起こるのか。まず、不動産や会社、特許や知的財産の売買によるマネー・ゲームを抑えることができる。そもそも、バブルの原因は、2億円で買った家を3億円で売って、1億円を懐に入れ、これを使って一生優雅に過ごそう、という幻想である。しかし、1億円を得ても、それを一気に使わない限り数年でまた0円に戻ってしまうとしたら? それでもなお、後先考えずに1億円を懐に入れようとやっきになるだろうか? こうした儲け方はもはや意味をなさなくなる。代わりに、「貯金ができない」ことが当り前であるような人生を生きるだろう。
現実的な影響力を持つためには、この「貯金不可能なお金」はドルである必要がある。つまり、ドルを「貯金不可能」にすれば良いのである。
さて、これと連動して、ハーヴィーはベーシック・インカム制度のような何らかの手厚い社会保障を導入すべきだという。それも、「人のため」などといった道徳的な理由からではなく、資本の流動性を保つための手段としてである。
ベーシック・インカム制度の問題は、財源ではない。そうではなく、これを貯金してしまわれた場合、資本の流動性が確保できなくなってしまう、という点である。しかし、貯金不可能なお金によってベーシック・インカムを支給すれば、最終的には毎月ないし毎年支給分は消費されるので、流動性は確保される。
また、貯金不可能なお金を導入するためには、ベーシック・インカムのような社会保障は必要不可欠である。そもそも、人が貯金をしたがる原因は、将来に対する不安である。この不安を取り除けば、貯金をする必要を感じることもない。
三番目に、ハーヴィーは賃貸取引の禁止を呼びかける。土地や不動産、知的財産や特許を使って、大多数の人々からお金を巻き上げるのが現代の資本家のやり方である。しかし、これでは労働の対価としてのお金ではなく、マルクスのいう「虚構資本」を増産するだけで、資本の矛盾はエスカレートするばかりだ。賃貸契約を結ばなくてもまわる社会はいくらでもあるし、知的財産などもすでにインターネットや図書館などを通じて共有されている。賃貸取引を禁止することは、そう難しいことではない。
最後に、ハーヴィーは「成長率0%」でも良いという新しい常識を作るべきだと言う。現在、資本主義社会では、GDP成長率が3%であるのが「常識」となっている。これは複利成長なので、二年目は一年目の103%の金額にさらに3%を上乗せし、これが雪だるま式に増えてゆく。これほどの成長は、物質的に不可能なのである。元々不可能であることが簡単に証明できるのだから、だったらやめてしまえ、というのがハーヴィーの考えである。
これと連動して、「お金に固執する人はどこかおかしい」という常識も作りたい、とハーヴィーは言う。人生がお金への関心で埋め尽くされるのは残念である。貧困の問題点もここだろう―つまり、お金に精神を傾けるあまり、他の大切なことを考えたりしたりする余裕がないばかりか、自分の人格までがこうした「損得勘定」に支配されてしまう。貯金はできないし、賃料によって儲けることもできない、さらにベーシック・インカムで生活が保障されており、国の安全もGDPの成長には依拠していない―このような仕組みの中では、お金に固執する理由がない。
「値段の競り合いというゲームは、一部の変人たちが狭い画廊の中でピカソを巡って楽しめば良い」とハーヴィーはある講義の中で冗談交じりに言った。
いずれにしても、こうした制度改革は国家レベルで(あるいは通貨レベルで)行わなければ意味がない。いきなりアメリカでこうした改革が起こることは考えにくい。私は、アイスランドのような、人口が少なく、政治的にも進んだ国が先陣を切ってくれないかと、無責任にも思ってしまう。ストライキをして強い交渉をする元気が、アイスランドの労働者たちにはまだまだある―アイスランドでは、昨月から全労働者の40%近くがストに入っている。要求もはっきりしている―最低賃金の50%増額である。どんなにアイスランドが小さい国であっても、国として成功例を示せば、他の国―例えばギリシアやアイルランド、日本など、資本の論理の負の側面、陰の側面を背負っている人たちが教養と行動力とを備えている国々―もそれにつづく決断をするかもしれない。
日本では、70年代から労働組合の力が弱まっている。今では、ストライキはほとんど起こらなくなっている。そのため、労働者の交渉力が皆無に等しくなっている。しかし、労働者の力を1930年代から60年代後半のように回復しても、根本的な解決にはならない―余剰価値が生まれなくなり、資本が再び危機に陥るからである。このあたりをわかりやすくハーヴィーが解説している動画がある。(英語だが。)
とはいえ、ストをする能力というのは、労働者の権利を守る上でほぼ唯一有効な武器なので、再びこれを回復するために労働組合を通じてネットワークをつくるのは大切だと思う。例えば、コンビニのフランチャイズ店舗の店長がいっせいにストをする態勢ができていたらどうか。セブンイレブンやファミリーマートなどの上層部も、賃金の見直しをせざるをえなくなる。このような具体的な活動が何を目指しているのかを、ハーヴィーの本は明確にしてくれる。例えば、ストが目指すのは単なる賃上げではなく、労働者の生活が政府によって法的に保障されることである。ということは、これと連動して、新しい貨幣システムの導入も必要となる。つまり、労働組合と連動して、例えば地域通貨やオルタナティブ通貨団体なども動くことになるだろう。例えば、ストの間に物資の交換を行うための専用の貨幣をつくっても良いかもしれない。
さらに、ストに加え、家賃を払わないなど、賃料の滞納も、戦略的に行えば抵抗運動になる。一人の人間が賃料を滞納するだけでは大家さんに追い出されるだけだが、例えば全国規模で2ヶ月滞納した場合、 事情は全く違ってくる。マイクロソフトのオフィスツールを買わずに、無料のオープンオフィスやウブンツなどを使うことも有効だ。土地、不動産、そして知的財産は、共有物として必要に応じて使えるようにすべきだ。バンクーバーやニューヨークなどの大都市で特に顕著に見られる現象だが、箱物だけが増え続け、一部の人間の売買ゲームに使われる一方で、路頭に多くの人々が迷っているのは明らかにおかしい。家賃を払えない人は払わなくても部屋を使って良い―こういう意識は、例えばニューヨークの低所得層の間にはある程度浸透しているし、日本でも田舎の方に行くとこういう意識を持っている人もけっこういる。不可能なことではない。
こうした運動をするためには、個人が失敗しても集団としては運動を続けられるような団体が必要。カナダやイギリスなどではこうした団体がたくさんあるが、日本では「第三国を助ける」というような「慈善団体」はあっても、日本国内の問題について政府や企業と積極的に交渉するような団体はまだまだ少ないのではないか。ハーヴィーの本を読んだあとは、こうした団体を将来的に立ち上げて運営する必要を感じた。
日本では、70年代から労働組合の力が弱まっている。今では、ストライキはほとんど起こらなくなっている。そのため、労働者の交渉力が皆無に等しくなっている。しかし、労働者の力を1930年代から60年代後半のように回復しても、根本的な解決にはならない―余剰価値が生まれなくなり、資本が再び危機に陥るからである。このあたりをわかりやすくハーヴィーが解説している動画がある。(英語だが。)
とはいえ、ストをする能力というのは、労働者の権利を守る上でほぼ唯一有効な武器なので、再びこれを回復するために労働組合を通じてネットワークをつくるのは大切だと思う。例えば、コンビニのフランチャイズ店舗の店長がいっせいにストをする態勢ができていたらどうか。セブンイレブンやファミリーマートなどの上層部も、賃金の見直しをせざるをえなくなる。このような具体的な活動が何を目指しているのかを、ハーヴィーの本は明確にしてくれる。例えば、ストが目指すのは単なる賃上げではなく、労働者の生活が政府によって法的に保障されることである。ということは、これと連動して、新しい貨幣システムの導入も必要となる。つまり、労働組合と連動して、例えば地域通貨やオルタナティブ通貨団体なども動くことになるだろう。例えば、ストの間に物資の交換を行うための専用の貨幣をつくっても良いかもしれない。
さらに、ストに加え、家賃を払わないなど、賃料の滞納も、戦略的に行えば抵抗運動になる。一人の人間が賃料を滞納するだけでは大家さんに追い出されるだけだが、例えば全国規模で2ヶ月滞納した場合、 事情は全く違ってくる。マイクロソフトのオフィスツールを買わずに、無料のオープンオフィスやウブンツなどを使うことも有効だ。土地、不動産、そして知的財産は、共有物として必要に応じて使えるようにすべきだ。バンクーバーやニューヨークなどの大都市で特に顕著に見られる現象だが、箱物だけが増え続け、一部の人間の売買ゲームに使われる一方で、路頭に多くの人々が迷っているのは明らかにおかしい。家賃を払えない人は払わなくても部屋を使って良い―こういう意識は、例えばニューヨークの低所得層の間にはある程度浸透しているし、日本でも田舎の方に行くとこういう意識を持っている人もけっこういる。不可能なことではない。
こうした運動をするためには、個人が失敗しても集団としては運動を続けられるような団体が必要。カナダやイギリスなどではこうした団体がたくさんあるが、日本では「第三国を助ける」というような「慈善団体」はあっても、日本国内の問題について政府や企業と積極的に交渉するような団体はまだまだ少ないのではないか。ハーヴィーの本を読んだあとは、こうした団体を将来的に立ち上げて運営する必要を感じた。