Friday, 26 June 2015

資本の本質から聖年まで

「資本とは何か」と問われたら、答えられるだろうか。

「通貨と資本の違いは何か」という問いに置き換えてみると、少し考えやすくなるかもしれない。答えは、「成長」である。資本とは、成長する(あるいはすべき)お金のことだ。「資本とは成長である」が最も短い答えだ。

資本ではないお金は、市場のやりとりに使われる単なる「通貨」である。そのため、経済学の入門書に載っている三つの機能を挙げればよい―「交換の手段」「会計の単位」「価値の貯蔵」だ。マルクスに従えば、さらにここで「社会的に必要な労働時間」を加えるべきだ。

なぜ資本は通貨ではないのか。商品を他の商品と交換するとき、人は交換の結果を数字に表すことができない。なぜなら、通貨を介した交換は、商品の交換としては等価だからだ。例えば、私が1000円で本を売り、その1000円を使って別の本を買った場合、私は得をしたわけではなく、単に一つの本を別の本と交換しただけとなる。

対して、資本の側からすると、交換は必ず得に結びつかなければいけない。通貨を通貨と交換するからだ。例えば、私が1000円を持っている。これを本という商品と交換し、さらにこの本を1100円で売ったとしよう。この場合、100円の利益が出る。1000円の本を買い、これをまた1000円で売ってしまっては、交換した意味がなくなる。利益が出る場合のみ、私は通貨を通貨と交換しようと思うのである。しかし、1000円を直接1100円と交換することはできない。そのため、商品による媒介が必要となる。

マルクスの『資本論』第一巻のはじめの方に、以上のことが詳しく書いてある。

成長が止まれば、資本は単なる通貨となってしまう。等価でしか交換できなくなったとき、通貨を「投資」するという発想はもはや生まれない。さらに言うと、商品の交換もまたなくなる。「商品」とは、その起源を隠す「フェティッシュ」だからだ。もちろん、資本がなくなったからといって、ものの起源が透明になるわけではない。しかし、ものの「価値」を交換価値としてみる傾向はなくなる。

資本が成長を続けるための条件は、大きく言えば二つある。一つ目は、労働の搾取である。1000円の本は、そのままでは1000円の値打ちしかない。これを1100円で売るためには、最初の本に何らかの「加工」をほどこさなければいけない。つまり、労働が必要となる。

さて、もし私が個人的に加工をほどこして1100円で本を売った場合、100円の利益は直接私のところに来る。対して、労働を資本家に売っていた場合は、事情が異なる。私は、例えばあらかじめ「時給1000円」という価格で契約を結んでいることになる。そのため、例えば一時間に20冊の本を加工して売り、2000円の利益をあげたとしても、実際に手にできるのは1000円だけである。(逆に、本を一冊も加工しなかった場合でも、1000円をもらうことはできる―そのため、労働者をいかに勤勉に働かせるかは、資本家にとって一番の関心事となる。) 差額の1000円は、資本家が手にする。これが「搾取」である。

資本の成長の二つ目の条件は、商品が売れることである。商品が売れるためには、あらかじめ消費者の手に通貨がまわっていなければいけない。しかし、商品が売れる前に、商品の総額分の通過を人々が持っているということは、論理的には不可能である。そのため、まだ商品が売れていなくても、通貨を人々が手にできるような仕組みをつくる必要がある。

この仕組みとは、「債務」である。グレイバーの作品『債務―5000年の歴史』に詳しく書いてあるが、市場とはことごとく債務から始まる。まず、侵略者たちが前資本主義経済の社会を略奪し、人々から土地と生産様式(そして場合によっては相互扶助の文化)を取り上げる。次に、通貨を大量に発行し、これを人々に「貸し出す」。最後に、この通貨を通してでしかものを買えないようにする。こうして、人々は「債務」の返済のために、労働者として労働力を市場に売るように強制されるのである。

以上がマルクスやグレイバーなどの書き手の作品を参考にした簡単な資本論だ。

一見すると、抽象的な論理と史実の組み合わせにしかみえないかもしれないが、実際のところ、私たちの日常生活や世界政治にまで、このような資本の動きはくまなく浸透している。例えば、コンゴの採掘場に強制的に閉じ込められる子どもたちや、香港から出国できずに身売りをする大量の労働者たちをみてみれば良い。あるいは、アメリカの農場で働く不法移住者たちや、日本の農業や漁業、建築業、製造業、小売業を支える移民を考えてみればよいだろう。これに排外主義のイデオロギーを加えれば、「搾取されても仕方がない」人々を社会に組み込むことに成功する。土地と生産様式、文化を奪われて債務を無理矢理負わされた人々と全く同じである。

労働階級にとって、現代資本主義はかつてないほどすさまじい暴力の源となっている。とはいえ、少なくとも80年代くらいまでは、「プチ・プルジョアジー」のような、いわゆる「土地・家・車」を所持しつつ家族を営む階級が存在した。それがゼロ年代になるとますます難しくなってくる。これの一番の原因は、純然たるホワイトカラー労働者の数の減少だろう。つまり、9時―5時の週五日勤務で年収300万円+昇給が保証される仕事の激減である。

なぜホワイトカラーが縮小されているのか。答えは、製造業から金融業へと資本が流れているからである。製造業・小売業など、労働者から搾取をして利益を得る会社は、まずは金融資本(つまり借金)を負わないと設立できない。この借金に対しては、毎年利益をあげ、金利を返済しなければいけない。成長へのプレッシャーがここからくる。そのため、ホワイトカラー労働者や、社長さえも、低賃金で過重労働を強いられる。すべては資本の提供者への金利支払いのためである。

一言でいうと、利子や罰金、賃料を徴収して生活する層が肥大し、利子や罰金、賃料を負担している側が総じて息切れをしているのだ。

現代資本主義のこの問題は、何も現代に特有のものではない。「現代に特有ではない」という考えはとても大切だ。解決可能な問題としてこれをみることができるようになるからだ。

借金が膨らみすぎ、罰金や賃料も払えなくなったとき、人々はどうするのか。グレイバーをはじめ人類学者たちが指摘するのは、こうした事態が歴史上では「聖年」(Jubilee)によって乗り越えられてきた、という点だ。

聖年とはキリスト教の考えで、例えば50年ごとにすべての罪を赦すという制度である。簡単にいえば、ある決まった年毎に借金・罰金・未納賃料などをすべて帳消しにし、ゼロからやりなおそうという制度だ。近代的に言うならば、「革命」とも呼べるだろうか。

他の宗教や文化をみてみると、債務を帳消しにする制度というのは滅多に見当たらない。むしろ、逆に債務をでっち上げる場合が異様に多い。例えば、子どもは親に「命を負っている」とか、労働者は雇用主に「生活を負っている」という具合だ。また、キリスト教の中にも、アクィナスのように、信者は神にすべてを負っているという神学を展開する人もいる。「負い目」ほど人を支配するときに好都合な感情はないからである。

しかし、キリスト自身は「人の罪をのぞきたもう神の子羊」である。つまり、アクィナスの唱えたような神学はキリストの示した規範に反するし、その他債務や「負い目」を強調するあらゆる宗教や文化も、キリストと対立する。他方で、グレイバーのような無神論者のほうが、むしろよっぽどキリストの考えを理解しているといえる。

「聖年とは何か」という考えは、資本主義のもつ債務の必然性を乗り越える新しい手段を考えるにあたって、出発点となる問いだと思う。