Tuesday, 11 September 2012

普遍語としての英語

一つの言語表現をつくる上で避けては通れないのが、その言葉に特定の意味を与える『背景』だ。文脈、といってもいい。当然過ぎることで、わかりきっていることのようだけど、あまりにも当然すぎるためにかえって理解されていないようにも思える。というのも、言葉を発する際に、その言葉を受け取る側の文化的背景を意識の片隅において、自由に言語表現を選び取って行っている人が果たしてそんなにいるだろうか? むしろ、往々にしてそういった『背景』の存在はなんとなく前提とされているだけではないか?

伝えたいことが辞書的な意味で伝えきれるのならば良いが、小説の言葉は、言外の何かを伝えようとする場合が多いためより一層、言葉を支える背景と、言葉それ自体との関係、弁証法ともいっていいけど、それを意識して綴らなければならないだろう。

少し話しは個人的、具体的になり、本筋から多少それるが、最近高行健(ガオ・シンジャン)の短篇集の英訳を読む機会があった。英語で「Temple」「Buying a Fishing Rod for My Grandfather」と題された二編を読んだが、あまり印象的ではなかった。作者が本当に言いたいことに到達する前に話しが終わってしまっているような気がしたし、文体も作文か日記を読んでいるような気持ちにさせるようなものに思えたのだ。自分の読み方が悪いのか、何か見落としているところがあるのではないかと思い、後日Amazon.comでこの短篇集のレビューを読んでみた。すると、あるレビュアーが、高の作品は中国語ではその文体の独特さや言葉選びの絶妙さによって支持されているのに、この英訳では全くそれが伝わってこない、なぜこのような英訳を出版しようと思ったのかが理解できない、という趣旨の、割と辛らつなレビューを書いているのを発見して納得してしまった。

これに比較して、やはり最近冒頭部を読む機会があった、余華(ユイ・ホア)の長篇小説『To Live』(邦題は『活きる』)は、フォークナーを思わせるようなフォント分けや、かなり緻密な描写などで纏められていて、読み終わるのが楽しみだし、読んでいて作者の言葉が様々な領域を染めていくような心地にさせるものだった。この場合、英語の訳が高行健の場合とくらべて明らかに勝っている、ということもあるだろうが、それに加えて、あるいはそれ以上に大きい要因として、余華の場合、原作が英語訳を意識して書かれている、ということも考えられる。そのため、英語はわかるけど中国語はできない、という、決して小さくない読者層にとっては、高よりも余の作品に惹かれるのではないか。実際に、Amazon.comにおけるレビューの数や購入者数も、後者の方が圧倒的に多い。

これらの読書体験を通して、もう一つ思い出すのは、数年前に読んだ対談集『存在の耐えがたきサルサ』の中で柄谷行人が「韓国の作家の中には、もう英語で書くしかないと思っている人もかなり出てきている」と言っていたことだった。実際にどれだけの書き手が韓国でそう考えていたかは定かではないし、現状をみる限りやはりそこまで単純に英語志向になっているわけではないと思う。 それでも、これからは英語で書かなければならない、と考える姿勢には、どういう読者層を開拓したいか、あるいは言葉によってどのようなコミュニティーや政治闘争を基礎付けたいか、作者の選択が表れるようにも思う。つまり、英語を意識して書くことによって、作者は暗黙の内に「国境を越えて、英語でつながりましょう」と言っているのだ。また、「英語は元々ある特定の国の言葉であり、それが世界を制覇してしまうのは文学の衰退につながるのではないか」というような反論に対しては、「英語を普遍語として拡げることによって、英語が元々、英米人によって限定されていたのを変革していけばよい」と応じれば良い。

大江健三郎の文学、欧米言語を日本語にぶち込むことによって、馴染み深い概念や経験を「異化」していく文学は、英語を世界言語として積極的に引き受けていく作家たちによってこれから乗り越えられていくだろう。それは、日本語から日本語的な部分を全て削りとって、英語と日本語の共通点だけを残して細々とやっていく、ということではない。逆に、日本語しかわからない読者が邦訳を読んでもその作品の本質が伝わるように、英語で作品を書かなければならないということだ。

話を元に戻すと、日本語で書いた文章を「面白い」とか「わかるわかる」とかいう風に受け取ってもらう背景として、日常生活のちょっとしたことの積み重ねがある。そのほとんどは極めて物理的であり、経済的だ。アパートの一室とか、安い家具、安い食材、安いあれこれ、消費物たち、そしてどこに行っても大抵あるコンビニ、駅、銀行。何も能力がなくても、お金さえあれば行ける旅行。セックス、テレビ、パソコン、そして1ページ未満の哲学。レンタルDVDで観る映画、レンタルCDで聴く音楽、携帯電話、少しの自然。そういう環境、「どこに行っても同じ」という言葉が痛々しいほどよく当て嵌まる環境で、「個性」を叫ぶ言葉は特に受けが良いし、それを越えようとあえて匿名的な、冷えた書き方で発せられるちょっとしたメッセージなんていうのも好まれる。結局、それらは一様化された毎日へ、平常心でまた戻っていくための一時的な麻酔薬にすぎない場合が多いのだが、そういう言葉を求めている人は多いし、ウケも良い。

一様化された環境、という背景から逃げられないどころか、ますますみずからの手で一様化をエスカレートさせていく人が読者であることは、英語を普遍語として開拓していこうと考える書き手にとっては良くも悪くもある。一方では、すでにそれ自体として流れるように機能し、人間の誕生から死まですべての側面があらかじめ管理されている環境では、「ここにしかないもの」をみつけるのがほとんど不可能だ。個性や単独性は、あってもなくてもどっちでも良いものとなってしまうばかり。それに対応して、言葉のレベルでも、そういった個性を表現する作業はかつてほどスリリングな、あるいは必要とされるような作業ではなくなっている。これは悪い点。ただし、英語的なものが受け容れてもらえる基盤は、生活の一様化によってむしろ強固になったともいえる。実際、日本では、大抵の場所では英語だけわかればある程度生活していくことができるようになっている。店の名前、企業の名前から、小説のタイトルまで、カタカナ言葉が溢れている。そういう環境は英語によって捕らえ易いものだし、それだけ他の面で英語が自由になる、という良い点はあるだろう。

そういった言語の状況や、言葉を支える背景を考慮にいれて、あらためて日本語を英語的にしていく、あるいは英語を日本語的にしていく作業は、実り多いものになるはず。それは長文を書いて集中的にやっていくこともできるし、毎日の中で自分が発する言葉を意識的に改めていくことで進めていくこともできる作業だ。