Sunday, 9 June 2013

『現代中国女工哀史』を再読するための出発点

あくまで出発点として、いくつか心に留めておきたい疑問や考えがある。

まず、社会的な役割と、プライベートな考えとのギャップについて。この本は、女工たちの両側面をくまなく記録している。問題は、この関係をどう見るか。「労働条件だけを見れば酷いものだが、彼女らの日記を読むと、単に労働条件が酷いから工場を辞めさせろとは言い切れない」という立場は嘘だと思う。労働条件が酷いことは、女工たち自身もよく分かっている。そして、その中に居て、恋愛や家族や将来の夢、あるいはもっと物質的な目標に向かって、内面的に自分を鼓舞してもいる。事実、著者のレスリー・チャン自身も、TED TALKSに出演したときに、女工たちを彼女らの労働条件の悪さや物質的な貧しさのみで評価するのは失礼だという趣旨のことを述べている。

しかし、もしこのような悪条件を甘受するための戦略として、女工たちが家族や友人、恋人や夢などに固執しているとしたら? または、いまここでの状況では満足が得られず、将来の展望もないという事実から目を逸らすために、あえて労働ではない別の場所に自分の聖域を捏造しているとしたら? チャン自身がこのような見方を否定しているので、外部者であり一読者にすぎない私がこのような問いを立てることは滑稽にもみえるかもしれない。しかし、自分の書いて推敲したテキストであるからこそ、また自分が親密になった取材相手であるからこそ、冷静にそれを分析できていない可能性も大いにある。

女工たちの「内面」を真に受けるあまり、彼女らの現在の労働条件を「仕方のないもの」として放置するような意識は問題だ。それを誘発する可能性が、チャンのような立場にはあると思う。本当に女工たちは、自分たちが語るような夢、あるいは人間関係を自分の一部として認識しているのだろうか? 彼女らの実際の行動を見る限り、私には逆が真実であるように思えてしまう。彼女らは収入と名誉を求めてあらゆる努力をしている。そして、人に会うときも、まずはその人の収入を気にする。さらに、たとえ他人を「人間的に」みる場合でも、往々にして「成功の秘訣」を語るようなマニュアル本がそうしろと教えているからそうするだけなのである。こうしてみると、彼女らの人生の指針を決定している要素は、決して実現することのない幻想としての「夢」や「人間関係」と、これを目標とすることで甘受できるような過酷で自己増殖的な労働環境である。

二つ目の問題は、果たしてこの本に登場しない女工たちはどのような地獄をみているのか、という点だ。チャン自身も、本の最後の方で度々読者に注意を促し、「ここでは取り上げていないさらに深い闇の世界が中国のドングアン(東北)にはある」と述べている。女工の義務に耐えられなくなり、昇進することもできず、かといって田舎の実家に帰る気持ちにもなれない十代の女性が、売春婦になったり路頭に迷ったりすることは珍しくないという。もしこのような道が単なる偶然や個人の責任から生じるものではなく、女工という社会的な役割を担った結果起きるものだとしたら、女工を必要とするような中国の工場に対する見方や解釈もそれだけ批判的になるはずだ。

最後に、このような闇の現実を、今自分のいる立場とどうつなげるかという問題だ。これは何も「これを読んであなたは具体的にどう行動するのか」などという問いではない。そのようにすぐに「行動」を求める思考回路は私も一時期持っていたものだが、これは今現在自分が無知で、本当に効果のある社会的な運動がうまく想像できないという現実をうやむやにするための手段でしかない。例えば、中国産の製品をボイコットする、などという「行動」は、私一人がそのようなことを一時的にしたところで何のインパクトもない。気休めにしかならないのである。

だったら、中国に現在住んでいる友人や、中国から海外に留学し、海外に就職した友人とのつながりを保ちつつ、情報を交換し、機をみて政治的・経済的に何かをできるように、少しずつ態勢を整えていく方がよっぽど具体的だ。僕が相手に提供できる情報がどれだけ女工の問題、あるいは中国の現在の悲惨な産業の現実に干渉できるかはわからない。ただ、そうして現に直接中国のそのような文化と関わりを持っている人を後押しするほうが、取るに足らない「行動」に走ることで自分の無力さや無知を見失うよりもよっぽど良い。もちろん、だからといって個人レベルで慎重にならなくてよいというわけではない。特に電子機器の購入や消費については、中国だけではなくコンゴでの問題にも直接関わりがあるだけに、注意深くならざるを得ない。結局、気休めなのだが、それでも、例えばパソコンを買うときに安易に値段とブランド、そして性能だけに注目するのは難しい。原料の金属がどこからどのように採集され、どのような工場で加工されてきたのかに神経質になる。(例えばココをみると、日本の企業が、国内でのロビー活動がまだ活発でないせいか、欧米の企業に比べ明らかに意識が低いことがわかる。)

私の持っている社会的に役立つ能力は語学力であり、専門知識と呼べるほどのものを持っている分野は哲学なので、これらの領域でできる仕事をするのみだ。どんなに個人としてあれこれ考え、細かい行動をとろうとも、結局このような社会的に通用する能力を生かして何かできなければ具体的に行動を起こしたことにはならない。ボランティアなども、広義の「気休め」である。ただ、仮に中国の女工たちが工場へと自ら赴く根本的な動機が経済的な成長などではなく「夢」や「人間関係」、あるいはさらに漠然とした「可能性」への期待なのだとすれば、そのような幻想に変わる具体的な精神的満足を提示してみせうるという点で、哲学ができることも多いだろう。しかし、そのような著作の執筆・翻訳・流通までの仕事を成し遂げるには、まだまだ私は勉強する必要があるようだ。