『村上龍と坂本龍一―21世紀のEV. Cafe』という対談集を立ち読みした。全ての対談を精読したわけではない。読んでいる途中で、ある違和感があったから。「昔を懐かしむわけではないけれど…」と言いつつ、対談に出ている人たちは皆、昔について肯定的に語り、今について否定的に語る姿勢を捨てていない。昔についてはビートルズやフランス思想等についてのお決まりの褒め言葉を述べる一方、今については「硬いものを食べないから若者の顎が細い」と浅田彰が述べる等、ほとんど悪口に近い。
読んでいて思うのだが、批判と教育とがうまく「啓蒙」という形でブレンドできていないから、いつになっても同じことの繰り返しなのだ。『思想地図』の「アーキテクチャ」という副題のついた号で、浅田彰が「昔と今とはそんなに問題意識の違いがない」ということを言ったが、それがなぜなのかについてはその対談に出ている人たちも、今回の村上龍・坂本龍一の対談での話者も建設的なことを言えずにいる。でも、これが一番真剣に向き合うべき問題なのではないの?
現代がもつ悪い側面を批判するのは確かに大切だし、1970年代以降の文化を改めて紹介してくれるのはその時代を生きたことのない私のような若者にとっては大変ありがたい。その点だけでも、『EV. Cafe』 シリーズは読む価値があると思う。しかし、一度当時の時代背景や、快楽原則を理解した後、現代の持つ「停滞感」や「脱力感」をどう乗り越えるかについては、ほとんどヒントとなることが書かれていない。
オタク文化がそのような突破口になりえないことは納得できるし、街を眺めれば見渡す限り同じような機能的な景色が広がっているこの光景に嫌気が差すのもわかる。だが、これが今の物質的な現実なのだから、安易に「昔は良かった」などとはいえない。すると、村上龍や坂本龍一がやっているようなことをやる羽目になるのである。かれらは、「昔に戻りたい」という思いを抑制するあまり、昔から今へと受け継がれても良いことを次々と「ダサい」「もうそんなことはいえない」と否定するのだ。例えば、坂本龍一は「昔は東京から何かを発信することが良いと思えたけど、今はそうやって「東京」「ロンドン」「ニューヨーク」という場所にこだわってものを発信すること自体がダサい」という趣旨のことを述べている。たしかに、「今ニューヨークではこれが流行っている」と言われて「え、ニューヨークで? すごい、知りたい!」と飛びつくのは変だと思う。しかし、だからといってもう場所にはこだわらなくて良いという結論には至らないはず。NYにはNYの、東京には東京の特徴があり、独特の雰囲気があるのだから、それを伸ばすか変えるか、そこに実際に住む人たちが考えてその場所を作るのはおおいに結構なのではないか。そして、そうして構築された都市が、外部者から特別な眼でみられるのは良いことだと思う。例えば、ニューオーリンズから出てきた新しい歌手がいる、なんていう噂を聞けば、私ならば「ニューオーリンズ」という地名が原因でその噂をさらに掘り下げてみたくなるだろう。
もちろん、このような批判は、この対談の文脈や趣旨にはそぐわない。そもそも、『EV. Cafe』シリーズは何かを批判的に検討する場所としては機能しないと思う。上記の例でも、「そういう側面があるということはわかっているし、それを否定するつもりはない」と言えばそれで済む程度のことだ。そうやって、とにかく考えを広げていくのがこのシリーズの目的なのだ。
ある考えや感覚をそのまま肯定しようとする意識は、コリングウッドが「直感的意識」 (aesthetic consciousness)と呼んで鋭くその特徴を描写している。直感的意識は、なんとなく快楽を与えてくれるような考えや感覚を基に、徹底的に遊ぶ意識だ。それはオタク文化の土台でもあるし、社会や科学等の領域を横断して交わされる対談の土台にもなりえる。話されている内容が違うだけで、会話の約束事は同じなのだ。なぜ『EV. Cafe』は直感的意識を土台としているのか? それは、自分たちが描写している現実を、対談者が積極的に変えようとしていないから。むしろ、安易に今を批判しつつ、代案を出さないことで、かれらは「今は駄目だ、だけど私たちはそれをなんとかする義務もなければ、私たちのせいでこうなったわけでもない、だからあとは誰かがなんとかしてくれるしかない」と暗に言っているのだ。自分たちのホームグラウンドのような文化や現実を批判するのは不快な作業だ。快くないことはやりたくない、というのが村上龍と坂本龍一の持つ共通点かもしれない。別にそれが悪いと言っているわけではない。だけど、このような意識には限界もあるのだ。『EV. Cafe』シリーズは、その限界を考えるためのヒントを与えてくれない。
やや偏った読み方を基にしたアンフェアな批判かもしれないが、しかしそのように読まれてしまっても仕方がないような対談であることも事実だと思う。特に、今を否定的に描写していること、そして昔の時代が持っていた「良い点」が今の時代の「悪い点」と持っているかもしれないつながりを追究できていないこと、さらに、今は「具体的なヴィジョンがない」と言いつつもではヴィジョンが必要なのか、必要じゃないのか、必要ならばどんなヴィジョンなのか、というような踏み込んだところには入っていかずにさっさと話題を変えてしまうこと、等等は問題だと思う。すでにある程度安定を得ていて、あとは快楽を得ればよい、という状況に生きている幸福な読者にとっては純粋に良い本だと思えるだろうが、私はどうもこれを読んで違和感を覚えずにはいられなかった。