Tuesday, 9 July 2013

公共の場

英語ならば「public space」と訳せる。公共の場は、稀少になってきていると思う。日本で、ある場所が公共か私的かを区別する基準はいくつかある。一番のしるしは、音楽だと思う。その場所にかかっている音楽が、その場所では何が許され、何が禁止されているかを示唆していると思う。具体的にどんな音楽がどんな場所をつくっているかは、細かく分析するのが難しい。というのも、これは感覚的に、あるいは感性的に、その場所に入ることで感じ取ることだから。

公共の場をつくることが、19世紀や20世紀前半に比べると難しくなってきているのではないだろうか。もちろん、東京の都市部などに行けば、そこには独特の統一感がある。あとはその統一感を感じて動けるだけの人間がそこに居れば、東京という場所は公共となる。また、農村部には農村部のまとまりがある。以前は「農村部は閉じた社会だ」という先入観もあったみたいだけど、少なくとも僕が知る限り、農家は決してそのような閉じた人間ではない。僕のような都会人よりもよっぽど色々なところへと旅に出ているし、色々な人と出会い、色々な風景を覚えている。個性もある。人望もある。あまり多くを語らなくても、十分そういう人格が伝わってくる。問題は、農村と都市との間にある、どっちつかずの場所だ。機能的な建物や道路が屹立している。人は、どこか閉じている。とにかく、表情がどこか違う。そして、おそらく自宅でもそのように振舞っているのだろうという仕方で、ところかまわず振舞う。子どもがいる家庭は、どこにでも子どもを連れて行くのかもしれない。公共の場が、とても成立しにくい。結果、町全体が、どこか冗長で間の抜けたような雰囲気となってしまう。

そんな中で、公共と呼べるような場所をつくることに努力している人たちもいるし、そういう場所としてこの町をみることができるようにと自分を律している人もいる。東京やバンクーバー等とはまだまだ比較にならないほどそのような人は少ないが、それでもたしかに存在する。ドイツ語ならば、そういう人は「Bildung」がある、とでも言えそうだ。特別な意味での「教養」を指す言葉。自分が周囲に何を提供できるかをよく自覚しつつ、総合的に色々なことを知って、公共の場をつくろうと心がける人たち。

よく、帰国子女が日本に帰ってきてノイローゼになる、なんていうけど、この偏見(?)の根拠は、「文化の違い」というよりも、「文化の有無」と言った方が正確ではないだろうか。少なくとも、イギリスやアイルランド、フランスやカナダ、アメリカの一部の州では、人がオープンで、 政治や音楽や映画や科学に興味があり、あわよくば自分にも何かできないだろうかと日々何かをしている人も多く、他の人が何をしているのかにも興味がある。だから、話しやすい。何より、人間関係がさっぱりしている。「人間よりも、文化に興味があるので」とでもいわんばかりに。もちろん、ゴシップもある。しかし、ゴシップは「俗っぽいもの」として批判する声も大きい。あと、「しょうがない」や「だるい」などという言葉に相当するような流行語もない。これはなかなか大きいと思う。逆に、「それは面白いね」や、「でもこういうのはどう?」というような、単純に否定的なだけではない言い回しが多用される。こういう言葉が、あるものの見方をつくり、それが町に「公共の場」を生む原動力となっている気がする。

近所の喫茶店で、イタリア人のマスターとベルルスコーニの人気や政治について少し話した後、考えたことを書いてみた。