原子力発電についてどう考えれば良いのかを決めることは、案外難しいものです。今流行の議論は、「推進派」になるか「脱原発派」になるかを考える、というものです。しかし、この問題設定の仕方はおかしいでしょう。原発を増やすか減らすかは目標です。その目標を何にするか、という議論をしていては、これが解決しない内は何も具体的には動き出しません。ということは、これが議題となっている限り、原発は稼動し続けるのです。現状が維持されるのですから。つまり、「推進派か脱原発派か」という問いを中心に原発について考えることは、それ自体「推進派」の考え方なのです。
そこで、脱原発を現実的に訴えるのであれば、「推進派」と「脱原発派」の間での議論、という考え方を捨てなければなりません。では、どうすれば良いのでしょう。単純に、脱原発こそが正しい目標なのだという前提に立てば良いのです。推進派との議論などというものに時間を無駄にする必要はありません。脱原発にならざるをえないような状態に政治や経済などを持っていけば勝ちなのですから。もちろん、そうするためにはより具体的な知識が必要となります。まず、いくら推進派を正面切って相手にする必要はないとはいえ、なぜ原子力安全委員会や東京電力、そして日本政府は原発推進派なのか、その原因を知っておくことは大切でしょう。そうすることで、自分たちが推進派に寝返らないようにするための免疫力をつけることができます。次に、具体的にどういう状態になれば脱原発は進展するのかを把握する必要があります。つまり、どういう法律ができて、どういう経済的なインセンティヴが生じれば、原発を予定より早く廃炉にしていくことができるのかを知るということです。最後に、今ある政治や経済、人の考え方や生き方の内、「このままでも良いもの」を把握する必要があります。いきなり悪いところだけを挙げ連ねて、「ではどう変えれば良いのか」という風に議論を持っていくのは急ぎすぎです。これでは、対策を白紙から練り上げる、なんていうことにもなりかねません。そうではなくて、現に良い運動を続けてきた人々がいるのですから、まずはこれを評価し、それに続くような仕方で何かを始める方がよっぽど具体的で建設的です。このようにして自分の行動の基盤を固めた上で、さらに厳しい批評を別の場所で続けることは大いにけっこうなことでしょう。
1.日本の原子力発電の仕組みを批判する
さて、推進派の現状を知ったり、具体的な脱原発の戦略を考えるのは良ことですが、では何から読めば良いのでしょうか。 ここで紹介するのが、飯田哲也(いいだてつなり)という方の著作、特に『「原子力ムラ」を超えて―ポスト福島のエネルギー政策』という作品に収められている氏のエッセイです。氏は原子力安全委員会、東電、東芝など、様々な場所で働いてきたキャリアを持ちます。つまり、原発についての方針の決定という「上」の仕事から、実際に「現場」でヘルメットをかぶり発電所の稼動や維持に関する作業まで、その全てを経験しているということです。さらに、現役時代、氏は原子力発電についての技術的および政治的な知識を貪るように吸収し、上司から事典のように頼られてもいたそうです。このような背景から、まずは飯田氏が十分信用に値する原子力の「専門家」であることが見て取れるでしょう。
さらに、『「原子力ムラ」を超えて』はその書かれ方が簡潔であり、内容は飯田氏個人の経験に加え外国との比較や国内の原発事情を示す資料などで入念に裏付けられており、素晴らしいものです。
2.脱原発=自然エネルギー、ではない
すでにみてきたように、飯田氏の脱原発のための戦略では、自然エネルギーの開発と普及がかなり重要な位置を占めていました。他方で、「節電」という項目の下には、自然エネルギーについてほどの詳しい議論がみられませんでした。
飯田氏の原発批判は素晴らしく、これ以上ないほど鮮明に原発についての現状と問題点を浮き彫りにしています。氏の提案する脱原発戦略に甘さがあったとしても、氏の批判的な仕事の価値が下がるわけでは全くありません。まずはそのことを強調したいと思います。その上で、氏の「自然エネルギー」を中心とした戦略は最善のものではない、ということを示し、具体的な代案としてどのような戦略がありえるのかを手短に述べてみたいと思います。
以上をするにあたって、Ozzie Zehnerという方の作品『Green Illusions: The Dirty Secrets of Clean Energy and the Future of Environmentalism』を基に議論を進めます。(残念ながら、2012年の出版ということもあり、まだ和訳は出ていないようです。) 飯田氏が原子力ムラの内部、その第一線で働いていた経歴を持っているように、Zehner氏も自然エネルギー開発と稼動の現場で働いた経験を持ちます。また、Zehner氏自身、自然エネルギーを推進していた時期もあったといいます。そのため、かれもまた、信頼できる専門家の一人と呼ばれるに相応しいでしょう。
さて、それではZehner氏が指摘する自然エネルギーの問題点をみていきましょう。
3.具体的な抵抗の仕方
飯田哲也氏を始めとする方々の発表した事実から、私たちは首相を始めとする政府関連の人間、原子力安全委員会の人間、東京電力のトップ、及びこれらの団体におもねることが自分の地位や仕事を守るために欠かせないような学者や医師等が総じて信頼できない人々であるということが見えてきました。つまり、「上の人が言うのだから安全・安心だ」という風に、信頼を根拠として何かを信じることはできない、ということです。原子力発電所についての今後や、フクシマの本当の影響等について知りたいと思う人、何かを述べたい、あるいは何か行動を起こしたいと願い人は、自分で原発のイロハを学び、歴史を学び、資料から論理的に導き出せる結論だけを頼りにしなければならないのです。実験結果の分析といった、専門的な知識や機器が必要なことはできないでしょう。しかし、例えばWHOとIAEAがそれぞれ発表した分析結果の矛盾から、より正確な考えを自分で導き出すことはできます。まずはそのようにして、自分の知識や論理を育てることが、フクシマ以後の日本で生き延びていくためには――特に、自分の住む地域付近での新たな原発事故を想定した場合――不可欠なのです。
さて、それでは具体的にどのようなことを言い、どのようなことをすれば良いのか、となったとき、原発=エネルギー問題、という図式から、「自然エネルギーの開発こそが脱原発への必然的なステップだ」と思いたくもなります。しかし、Zehner氏の著作を始め、自然エネルギーの研究開発に実際に関わってきた人々の証言から、このような未来像は新たに深刻な問題を生むのだということが見えてきました。もちろん、原発事故のリスクと比べれば、太陽光や風力、水力等がそれぞれ抱える短所の方が「マシ」なので、そちらをとるべきでしょう。しかし、より良い道があるならば、そちらを選んだほうが良いです。
それでは、この「より良い道」とは具体的にどのような道なのでしょうか。ここからは、またZehner氏の著作を参考にしつつ、一見「エネルギー問題」とは関係のなさそうなものごとが実は最も大切なのだということを見て行きたいと思います。そうすることで、今日本や世界ですでに形になっている文化や政治制度等の内何を守れば良いのか、また何を変える必要があるのか、それを変えるためにはどのような行動が考えられるのか、見えてくるはずです。
Zehner氏は、エネルギー問題及び環境問題を解決するということ――厳密にいえば、これらと合理的に向き合いつつ生きること、というべきでしょう。生きている限り、これらの問題は無くなりませんから――は、別の問題へと小分けすることができる、と述べます。
まず、人口爆発の問題です。地球上の人口が今のペースで増えてゆけば、必然的にエネルギーの消費量、森林の伐採量、温室効果ガスの排出量なども増えて行きます。そこで、どのようにして人口の爆発的な増加を食い止めるか、という課題があります。それは、人口の増加を止めるためのシステムと、人口が増えなくても機能するような社会保障制度とを並行して作ることを意味します。前者を実現するためには、中国が行っているようないわゆる「一人っ子政策」は避けるべきです。Zehner氏は、この政策が過程においても結果においても無惨に失敗しているという実態を描いています。また、アメリカ等では、国民が物質的に豊かであるにもかかわらず、意図しない妊娠が相次いでいます。中国においては貧困や文化的風習が原因で、アメリカでは主に文化的な風習が原因で、このような事態となっているのです。インドや中東などの国々に至っては、子どもを生み、裕福層に子どもを売り飛ばすことで生活のための収入を得なければやっていけない、などという家族も沢山存在します。そこで大切なことは、子どもをたくさん作らなくても豊かに暮らして行けるような文化や仕組みを形にすることです。そのためには、特に女性の権利を守ることが重要です。それは、避妊する権利に限ったことではもちろんなく、例えば結婚しなくても良いという権利を日常的な会話のレベルまで浸透させることや、売春を強要するような経済的な状況にある人々を守るための保障制度を政府が作り、そのために必要な税金や物資などを国民が提供するということです。また、現在の日本の年金制度のような、将来人口が増えることを見越した上で機能する仕組みは改良されるべきでしょう。保険料を払う人の数が減っても機能する保険、などというものが可能なのかは素人には判断できません。経済の専門家が取り組むべき大切な課題でしょう。
次に、食料生産の問題です。Michael Pollan氏等の著名なジャーナリストたちが再三に渡って書いていることですが、安さ優先の現在の食料生産システムは膨大なエネルギーを消費します。また、広大な敷地に一種類の穀物――多くの場合、モンサント社のような大手が開発した遺伝子組み換え穀物と、遺伝子レベルで適応できない動植物を一掃する農薬とがセットになって使われます――を植えるため、森林等が永久に失われることも多く、水質や空気の質が下がる原因にもなります。畜産業ではさらに深刻な問題があります。まず、飼料となるトウモロコシをできるだけ安く生産するために、先ほど述べた「遺伝子組み換え+農薬」による自然破壊が進むこと。次に、なるべく狭いスペースで家畜を育てるため、ものすごい匂いや汚染水などが家畜小屋の周囲に――時としては、何百キロメートルも離れた池や湾にまで――広がります。最後に、そのような環境で蔓延する可能性のある病気が人間にも移るリスクがあります。また、これはどのような食料品にもいえることですが、安さを優先するあまり日本の外からの輸入が増え、輸送の過程で大量の温室効果ガスが排出され、石油燃料も消費されます。これらのことを考えると、国内農業を増やし、肉の消費量をおさえ、都市農家なども増やしていくことが、環境問題やエネルギー問題を解決するための大きな助けとなることは明白です。現時点では、特にアメリカの肉やトウモロコシの生産に関しては、政府からの「助成金」が大きな役割を果たしています。つまり、これは政治的な問題でもあります。このような助成金制度にくいついて、新規でトウモロコシ農家になったり畜産業を始めたりする人も多いといいます。このように、カネによって一部始終が管理された仕組みを変える必要があるでしょう。それは、「私が国外産の肉や野菜を食べなければ良い」といった個人の問題ではなく――もちろん、そうやって意識的な買い物をすることは大いに大切なのですが――助成金制度や関税制度などを現在のようなものにしたままの政府の問題です。ここでも、さきほどの人口問題同様、政治的な活動が求められています。
最後に、街づくりの問題です。Zehner氏いわく、特にアメリカでは、「集合住宅とスーパーマーケット」のセットが20世紀後半には大量に建設されました。その理由は、このセットが「便利」だと謳うことで国民がそれを望むように情報を操作しつつ、不動産会社や建設会社、そしてスーパーマーケットで商品を売る様々な会社が同時に潤うためでした。いうまでもなく、これらの会社の社員は、「自分の給料を得る」ために「頑張って仕事をした」結果こういう風潮に加担していただけであり、本当の責任は社長や幹部にあるというよりは利益中心主義の経済システムそのものにあったというべきでしょう。いずれにしても、この「集合住宅とスーパーマーケット」のセットはエネルギー効率が悪く、周りの環境にも配慮できていません。安さ中心の考え方を周りの住民に植え付け、結果として地元で地道にやってきた商店などを次々と破産に追い込み、広範囲の人々が「安い商品」を求めて車で買い物に来る、などというケースも増えました。これに対して、Zehner氏は「歩ける都市」を提唱します。徒歩や自転車で買い物に行けるような街づくりが必要だということです。幸い、アメリカやカナダに比べると、日本は住宅地と商店との配置が良い地域も多いです。まずはこれらの地域を維持しつつ、車がないと買い物にもいけないようなコンクリートジャングルからどのように周辺住民が抜け出せるかを想像することは大切でしょう。これは、国レベルで道路建設などを自粛することはもちろんですが、県や市レベルで具体的にどのような街づくりができるのかを考えることの方が重要となってきます。市民も、選挙の際には市長や県長の打ち出す街づくりの方針を注意深く読む必要があるでしょう。
Zehner氏の提唱する対策は主に以上ですが、これに加えて、教育の問題と、日常でどのように他者と情報を交換すれば良いのか、という問題も一考に値すると思います。
まずは、後者から考えてみます。このブログも含めて、沢山の情報を持っている人ほど、往々にして相手を不快にさせるようないわゆる「エラそうな」物言いをしてしまうものです。(自分も、これには度々反省させられています。)他方で、自分の勉強不足を棚に上げて、自分とは意見の違う人の言うことを不当に批判したり、場合に拠っては罵倒する人もいます。その結果、「アイツはエラそうだ」「アイツは何もわかっていない」という具合に、不毛な対立が起きるのです。誰しも経験のあることでしょう。また、この対立があるということに加え、特に日本では、政治的な話を積極的にしたがる人は嫌だ、という風潮も根強いものです。こうした嫌悪感の裏にはもっともな理由もあるのでしょうが、しかし現代の政治的な状況をみる限り、これは変えていって差し支えないものだと思います。それでは、どのようにして変えれば良いのでしょうか。まず、「本当のことを言い、わからないことはわからないと言う」潔さは大切です。正確な情報を10述べても、知ったかぶりを1しただけでせっかくの価値ある話が信頼してもらえない、なんていうのはもったいないです。また、「話し相手のためになるような情報を伝える」ことも必要でしょう。要人と会って話す機会があれば、基本的な情報を長々と述べるのは相手を無知な人のように扱うこととなり失礼です。逆に、何も知らない友人に何かの基本を伝えようとしているときは、一から根気強く説明する覚悟で話す必要があるでしょう。最後に、相手を不快にさせないような言い方で情報を伝える、ということもとても大切です。これが、実践するのが一番難しい項目です。人間が何に対して快不快を感じるかということは、頭で考えただけではわかりません。どんなに自分では失礼のないように工夫をしたつもりでも、ほんの小さなことで相手を不快にさせ、結果、どんなに正しいことを相手に合わせて述べても、何も伝わらなくなる、ということもありえます。これについては、普段から人と積極的に話し、間違いを重ねることによって少しずつ学んでいくしかない、としか言えません。ただし、他の人の言い方が気にくわないからといって、その人の伝えようとしている内容にまで不快感を感じる、などという姿勢は改めることができるでしょう。つまり、聴き手としての自分を磨く、ということです。例えば、相手の言おうとしていることはこういうことか、という具合に、自分にとっても受けいれやすい言い方でもう一度言い直してみる、というのは僕も良く使う手です。政治や情報に対する意欲がそこまでない人は、快不快で話を評価することが多いので、この最後の点は特に注意が必要です。これらのことを意識することで、有益な情報を色々な形で広めていくことは十分可能になるでしょう。
次に、教育の問題です。現代の日本では、「詰め込み型」の教育が目立ちます。知識を得ることは大切ですし、自分が「わかったつもり」になっていることが実際にどれだけ「わかっている」のかを確かめる方法として、学力テストも大切でしょう。しかし、単に教科書や先生の述べたことを反復するだけの授業やテストとなってしまっては本末転倒です。重要なことは、すでに得た情報をどのように解釈するか、です。そのためには、自分で考える力が必要です。多くの場合、学校ではこのような力は磨かれず――学校によっては、国語の授業ですら自分の意見を考え抜く機会がないところもあります――社会に出てからも「出る杭は打たれる」で、抑圧されることも多いです。酷いときには、「出る杭となるか、それを打つハンマーとなるか」の二択を迫るようなイジメの構造にはまってしまうこともあります。このような不毛な人間関係から自由になり、自由に考えて意見を述べることのできる人を育てるために、今の教育のカリキュラムを変えることは必要でしょう。例えば、問題の反復量を減らし、変わりに自分の意見を述べるための時間を増やす、というように。学力テストにも、自分で意見を述べなければならない問題を作り、これへの評価も、いわゆる「模範解答」に近いかどうかで判断するのではなく、ちゃんと自分の言いたいことを根拠づけて述べることができているかどうかを評価してあげるようにするのです。また、教育=学校でするもの、という観念も捨てたいところです。どんなに学校が素晴らしい教育を行っていても、肝心な両親や周囲の大人たちが堕落した生活をし、短絡的なことを言ったりやったりしていては意味がありません。この問題の極端な例は、アメリカで現在も成長を続けているいわゆる「ネオ・ナチズム」の家庭にみられます。そこでは、学校で行われている平和教育や歴史教育を両親が徹底的につぶして、子どもは選民思想を刷り込まれます。ここまで極端な例はみられないにしても、日本でも学校での高度な教育と、家庭でのずさんな親の態度とが対立するケースは少なくありません。例えば、子どもに原子力発電所の仕組みを知ってもらいたい、あるいは子どもには他の人に対して気配りができるようになってほしい、などと思っている親は、まずは自分が勉強をし、日ごろから誰に対しても真摯に接するように心がけるべきでしょう。また、「子どもには自分で考えることのできる人になってほしい」と思う親は、子どもと何かを話すときは子どもを「自立した考える人」として扱うことが必要で、命令口調で説明も無く何かをやらせたり禁止したりする機会を極力減らし、ダラダラと自分の不満を子どもに向かって発散するような怒り方も慎むべきでしょう。また、知的にも文化的にも成熟したコミュニティーで子どもを育てることも大切です。裕福なコミュニティー、というわけではありません。どのようなコミュニティーについてあなたは言っているのか、と問い詰められると、なかなか言葉にするのは難しいのですが。これについては、また改めて書くこともあるかもしれません。
最悪、「高飛び」という選択肢もありえるでしょう。原子力発電所が次々に稼動され、事故が起こった場合身に危険が降りかかるとわかったならば、外国へ移住するしか生き残る道はありません。そう考えると――これはより利己的な活動ですが――海外でも職に就けるような人間になるために、専門知識を身につけ、ビザなどがすぐにとれるように万全の準備をし、あわよくば未然に移住するべきです。 一市民には、残念ながら政治的に出来ることに限界があります。政治家や権力者たちが危険な国を作っているのならば、そこから逃げるしか自分を守る手段がない場合もあります。これが現実です。これと向き合うことも、原子力発電所について考える過程の一環なのです。
自分で考え、他者に対して寛容な人は、すでに与えられたものごとをそのまま良しとするような受身の態度ではいられないはずです。このような人が増えてゆけば、ものごとは良い方向へと転じてゆくでしょう。「常識的に無理」とされていることが、可能となってゆくでしょう。Zehner氏の提案にしても、僕がここで簡単に描いたことにしても、十年後、二十年後に結果が少しずつ見えてくるようなことなので、辛抱が必要です。ただし、「今すぐ変わらないのならば、やる意味がない」というような考え方は捨てるべきでしょう。また、「そこまでする必要はないのではないか」という楽観主義も捨てたいところです。フクシマは、そのような楽観主義に対する一番の批判ではなかったでしょうか。いずれにしても、このような具体的な抵抗計画を実践しつつも、批判的な考えを続けていくべきなのです。
3.具体的な抵抗の仕方
飯田哲也氏を始めとする方々の発表した事実から、私たちは首相を始めとする政府関連の人間、原子力安全委員会の人間、東京電力のトップ、及びこれらの団体におもねることが自分の地位や仕事を守るために欠かせないような学者や医師等が総じて信頼できない人々であるということが見えてきました。つまり、「上の人が言うのだから安全・安心だ」という風に、信頼を根拠として何かを信じることはできない、ということです。原子力発電所についての今後や、フクシマの本当の影響等について知りたいと思う人、何かを述べたい、あるいは何か行動を起こしたいと願い人は、自分で原発のイロハを学び、歴史を学び、資料から論理的に導き出せる結論だけを頼りにしなければならないのです。実験結果の分析といった、専門的な知識や機器が必要なことはできないでしょう。しかし、例えばWHOとIAEAがそれぞれ発表した分析結果の矛盾から、より正確な考えを自分で導き出すことはできます。まずはそのようにして、自分の知識や論理を育てることが、フクシマ以後の日本で生き延びていくためには――特に、自分の住む地域付近での新たな原発事故を想定した場合――不可欠なのです。
さて、それでは具体的にどのようなことを言い、どのようなことをすれば良いのか、となったとき、原発=エネルギー問題、という図式から、「自然エネルギーの開発こそが脱原発への必然的なステップだ」と思いたくもなります。しかし、Zehner氏の著作を始め、自然エネルギーの研究開発に実際に関わってきた人々の証言から、このような未来像は新たに深刻な問題を生むのだということが見えてきました。もちろん、原発事故のリスクと比べれば、太陽光や風力、水力等がそれぞれ抱える短所の方が「マシ」なので、そちらをとるべきでしょう。しかし、より良い道があるならば、そちらを選んだほうが良いです。
それでは、この「より良い道」とは具体的にどのような道なのでしょうか。ここからは、またZehner氏の著作を参考にしつつ、一見「エネルギー問題」とは関係のなさそうなものごとが実は最も大切なのだということを見て行きたいと思います。そうすることで、今日本や世界ですでに形になっている文化や政治制度等の内何を守れば良いのか、また何を変える必要があるのか、それを変えるためにはどのような行動が考えられるのか、見えてくるはずです。
Zehner氏は、エネルギー問題及び環境問題を解決するということ――厳密にいえば、これらと合理的に向き合いつつ生きること、というべきでしょう。生きている限り、これらの問題は無くなりませんから――は、別の問題へと小分けすることができる、と述べます。
まず、人口爆発の問題です。地球上の人口が今のペースで増えてゆけば、必然的にエネルギーの消費量、森林の伐採量、温室効果ガスの排出量なども増えて行きます。そこで、どのようにして人口の爆発的な増加を食い止めるか、という課題があります。それは、人口の増加を止めるためのシステムと、人口が増えなくても機能するような社会保障制度とを並行して作ることを意味します。前者を実現するためには、中国が行っているようないわゆる「一人っ子政策」は避けるべきです。Zehner氏は、この政策が過程においても結果においても無惨に失敗しているという実態を描いています。また、アメリカ等では、国民が物質的に豊かであるにもかかわらず、意図しない妊娠が相次いでいます。中国においては貧困や文化的風習が原因で、アメリカでは主に文化的な風習が原因で、このような事態となっているのです。インドや中東などの国々に至っては、子どもを生み、裕福層に子どもを売り飛ばすことで生活のための収入を得なければやっていけない、などという家族も沢山存在します。そこで大切なことは、子どもをたくさん作らなくても豊かに暮らして行けるような文化や仕組みを形にすることです。そのためには、特に女性の権利を守ることが重要です。それは、避妊する権利に限ったことではもちろんなく、例えば結婚しなくても良いという権利を日常的な会話のレベルまで浸透させることや、売春を強要するような経済的な状況にある人々を守るための保障制度を政府が作り、そのために必要な税金や物資などを国民が提供するということです。また、現在の日本の年金制度のような、将来人口が増えることを見越した上で機能する仕組みは改良されるべきでしょう。保険料を払う人の数が減っても機能する保険、などというものが可能なのかは素人には判断できません。経済の専門家が取り組むべき大切な課題でしょう。
次に、食料生産の問題です。Michael Pollan氏等の著名なジャーナリストたちが再三に渡って書いていることですが、安さ優先の現在の食料生産システムは膨大なエネルギーを消費します。また、広大な敷地に一種類の穀物――多くの場合、モンサント社のような大手が開発した遺伝子組み換え穀物と、遺伝子レベルで適応できない動植物を一掃する農薬とがセットになって使われます――を植えるため、森林等が永久に失われることも多く、水質や空気の質が下がる原因にもなります。畜産業ではさらに深刻な問題があります。まず、飼料となるトウモロコシをできるだけ安く生産するために、先ほど述べた「遺伝子組み換え+農薬」による自然破壊が進むこと。次に、なるべく狭いスペースで家畜を育てるため、ものすごい匂いや汚染水などが家畜小屋の周囲に――時としては、何百キロメートルも離れた池や湾にまで――広がります。最後に、そのような環境で蔓延する可能性のある病気が人間にも移るリスクがあります。また、これはどのような食料品にもいえることですが、安さを優先するあまり日本の外からの輸入が増え、輸送の過程で大量の温室効果ガスが排出され、石油燃料も消費されます。これらのことを考えると、国内農業を増やし、肉の消費量をおさえ、都市農家なども増やしていくことが、環境問題やエネルギー問題を解決するための大きな助けとなることは明白です。現時点では、特にアメリカの肉やトウモロコシの生産に関しては、政府からの「助成金」が大きな役割を果たしています。つまり、これは政治的な問題でもあります。このような助成金制度にくいついて、新規でトウモロコシ農家になったり畜産業を始めたりする人も多いといいます。このように、カネによって一部始終が管理された仕組みを変える必要があるでしょう。それは、「私が国外産の肉や野菜を食べなければ良い」といった個人の問題ではなく――もちろん、そうやって意識的な買い物をすることは大いに大切なのですが――助成金制度や関税制度などを現在のようなものにしたままの政府の問題です。ここでも、さきほどの人口問題同様、政治的な活動が求められています。
最後に、街づくりの問題です。Zehner氏いわく、特にアメリカでは、「集合住宅とスーパーマーケット」のセットが20世紀後半には大量に建設されました。その理由は、このセットが「便利」だと謳うことで国民がそれを望むように情報を操作しつつ、不動産会社や建設会社、そしてスーパーマーケットで商品を売る様々な会社が同時に潤うためでした。いうまでもなく、これらの会社の社員は、「自分の給料を得る」ために「頑張って仕事をした」結果こういう風潮に加担していただけであり、本当の責任は社長や幹部にあるというよりは利益中心主義の経済システムそのものにあったというべきでしょう。いずれにしても、この「集合住宅とスーパーマーケット」のセットはエネルギー効率が悪く、周りの環境にも配慮できていません。安さ中心の考え方を周りの住民に植え付け、結果として地元で地道にやってきた商店などを次々と破産に追い込み、広範囲の人々が「安い商品」を求めて車で買い物に来る、などというケースも増えました。これに対して、Zehner氏は「歩ける都市」を提唱します。徒歩や自転車で買い物に行けるような街づくりが必要だということです。幸い、アメリカやカナダに比べると、日本は住宅地と商店との配置が良い地域も多いです。まずはこれらの地域を維持しつつ、車がないと買い物にもいけないようなコンクリートジャングルからどのように周辺住民が抜け出せるかを想像することは大切でしょう。これは、国レベルで道路建設などを自粛することはもちろんですが、県や市レベルで具体的にどのような街づくりができるのかを考えることの方が重要となってきます。市民も、選挙の際には市長や県長の打ち出す街づくりの方針を注意深く読む必要があるでしょう。
Zehner氏の提唱する対策は主に以上ですが、これに加えて、教育の問題と、日常でどのように他者と情報を交換すれば良いのか、という問題も一考に値すると思います。
まずは、後者から考えてみます。このブログも含めて、沢山の情報を持っている人ほど、往々にして相手を不快にさせるようないわゆる「エラそうな」物言いをしてしまうものです。(自分も、これには度々反省させられています。)他方で、自分の勉強不足を棚に上げて、自分とは意見の違う人の言うことを不当に批判したり、場合に拠っては罵倒する人もいます。その結果、「アイツはエラそうだ」「アイツは何もわかっていない」という具合に、不毛な対立が起きるのです。誰しも経験のあることでしょう。また、この対立があるということに加え、特に日本では、政治的な話を積極的にしたがる人は嫌だ、という風潮も根強いものです。こうした嫌悪感の裏にはもっともな理由もあるのでしょうが、しかし現代の政治的な状況をみる限り、これは変えていって差し支えないものだと思います。それでは、どのようにして変えれば良いのでしょうか。まず、「本当のことを言い、わからないことはわからないと言う」潔さは大切です。正確な情報を10述べても、知ったかぶりを1しただけでせっかくの価値ある話が信頼してもらえない、なんていうのはもったいないです。また、「話し相手のためになるような情報を伝える」ことも必要でしょう。要人と会って話す機会があれば、基本的な情報を長々と述べるのは相手を無知な人のように扱うこととなり失礼です。逆に、何も知らない友人に何かの基本を伝えようとしているときは、一から根気強く説明する覚悟で話す必要があるでしょう。最後に、相手を不快にさせないような言い方で情報を伝える、ということもとても大切です。これが、実践するのが一番難しい項目です。人間が何に対して快不快を感じるかということは、頭で考えただけではわかりません。どんなに自分では失礼のないように工夫をしたつもりでも、ほんの小さなことで相手を不快にさせ、結果、どんなに正しいことを相手に合わせて述べても、何も伝わらなくなる、ということもありえます。これについては、普段から人と積極的に話し、間違いを重ねることによって少しずつ学んでいくしかない、としか言えません。ただし、他の人の言い方が気にくわないからといって、その人の伝えようとしている内容にまで不快感を感じる、などという姿勢は改めることができるでしょう。つまり、聴き手としての自分を磨く、ということです。例えば、相手の言おうとしていることはこういうことか、という具合に、自分にとっても受けいれやすい言い方でもう一度言い直してみる、というのは僕も良く使う手です。政治や情報に対する意欲がそこまでない人は、快不快で話を評価することが多いので、この最後の点は特に注意が必要です。これらのことを意識することで、有益な情報を色々な形で広めていくことは十分可能になるでしょう。
次に、教育の問題です。現代の日本では、「詰め込み型」の教育が目立ちます。知識を得ることは大切ですし、自分が「わかったつもり」になっていることが実際にどれだけ「わかっている」のかを確かめる方法として、学力テストも大切でしょう。しかし、単に教科書や先生の述べたことを反復するだけの授業やテストとなってしまっては本末転倒です。重要なことは、すでに得た情報をどのように解釈するか、です。そのためには、自分で考える力が必要です。多くの場合、学校ではこのような力は磨かれず――学校によっては、国語の授業ですら自分の意見を考え抜く機会がないところもあります――社会に出てからも「出る杭は打たれる」で、抑圧されることも多いです。酷いときには、「出る杭となるか、それを打つハンマーとなるか」の二択を迫るようなイジメの構造にはまってしまうこともあります。このような不毛な人間関係から自由になり、自由に考えて意見を述べることのできる人を育てるために、今の教育のカリキュラムを変えることは必要でしょう。例えば、問題の反復量を減らし、変わりに自分の意見を述べるための時間を増やす、というように。学力テストにも、自分で意見を述べなければならない問題を作り、これへの評価も、いわゆる「模範解答」に近いかどうかで判断するのではなく、ちゃんと自分の言いたいことを根拠づけて述べることができているかどうかを評価してあげるようにするのです。また、教育=学校でするもの、という観念も捨てたいところです。どんなに学校が素晴らしい教育を行っていても、肝心な両親や周囲の大人たちが堕落した生活をし、短絡的なことを言ったりやったりしていては意味がありません。この問題の極端な例は、アメリカで現在も成長を続けているいわゆる「ネオ・ナチズム」の家庭にみられます。そこでは、学校で行われている平和教育や歴史教育を両親が徹底的につぶして、子どもは選民思想を刷り込まれます。ここまで極端な例はみられないにしても、日本でも学校での高度な教育と、家庭でのずさんな親の態度とが対立するケースは少なくありません。例えば、子どもに原子力発電所の仕組みを知ってもらいたい、あるいは子どもには他の人に対して気配りができるようになってほしい、などと思っている親は、まずは自分が勉強をし、日ごろから誰に対しても真摯に接するように心がけるべきでしょう。また、「子どもには自分で考えることのできる人になってほしい」と思う親は、子どもと何かを話すときは子どもを「自立した考える人」として扱うことが必要で、命令口調で説明も無く何かをやらせたり禁止したりする機会を極力減らし、ダラダラと自分の不満を子どもに向かって発散するような怒り方も慎むべきでしょう。また、知的にも文化的にも成熟したコミュニティーで子どもを育てることも大切です。裕福なコミュニティー、というわけではありません。どのようなコミュニティーについてあなたは言っているのか、と問い詰められると、なかなか言葉にするのは難しいのですが。これについては、また改めて書くこともあるかもしれません。
最悪、「高飛び」という選択肢もありえるでしょう。原子力発電所が次々に稼動され、事故が起こった場合身に危険が降りかかるとわかったならば、外国へ移住するしか生き残る道はありません。そう考えると――これはより利己的な活動ですが――海外でも職に就けるような人間になるために、専門知識を身につけ、ビザなどがすぐにとれるように万全の準備をし、あわよくば未然に移住するべきです。 一市民には、残念ながら政治的に出来ることに限界があります。政治家や権力者たちが危険な国を作っているのならば、そこから逃げるしか自分を守る手段がない場合もあります。これが現実です。これと向き合うことも、原子力発電所について考える過程の一環なのです。
自分で考え、他者に対して寛容な人は、すでに与えられたものごとをそのまま良しとするような受身の態度ではいられないはずです。このような人が増えてゆけば、ものごとは良い方向へと転じてゆくでしょう。「常識的に無理」とされていることが、可能となってゆくでしょう。Zehner氏の提案にしても、僕がここで簡単に描いたことにしても、十年後、二十年後に結果が少しずつ見えてくるようなことなので、辛抱が必要です。ただし、「今すぐ変わらないのならば、やる意味がない」というような考え方は捨てるべきでしょう。また、「そこまでする必要はないのではないか」という楽観主義も捨てたいところです。フクシマは、そのような楽観主義に対する一番の批判ではなかったでしょうか。いずれにしても、このような具体的な抵抗計画を実践しつつも、批判的な考えを続けていくべきなのです。