Friday, 12 July 2013

護憲派でいることの本当の難しさ

「日本国憲法」は矛盾した文書だ。一方では、武力を「永久に」放棄すると述べていながら、他方では天皇の仕事の一つに「憲法の改正」を挙げ、後半部ではいかにして憲法改正が可能かも示している。ということは、「永久に」というのは「この憲法が改正されない限り永久に」という意味であり、それは真の意味では「永久に」ではない。もちろん、このような矛盾は、憲法の強みだ。改正されえないのであれば、それは国民が選び取るものではないので、本来の効力を発揮しないだろう。改正されうるのにも関わらず、あえて9条をそのままにしておくからこそ、説得力を持つのだ。

そういう意味で、憲法改正に向けての政治の動きは、9条を守りたいと考えている国民――つまり、平和主義者たち――にとっては好機でもある。

改憲に際しては、最終的には国民投票が必要なのだが、「投票」という形式には僕は大いに懐疑的だ。投票による政治は、その起源以来、馬鹿馬鹿しいものとして批判されてきた。たしかに、一生を政治の研究に捧げた研究者の一票と、新聞も読んだことがない成人になりたての若者の一票とが等価に扱われるのだから。それに、多数派が求めることが正しいとは限らない。むしろ、無知からくる無数の間違いによって、悪い方を選び取る可能性の方が高い。数学に喩えてみるとさらにわかりやすい。数学を学ばなかった人が、例えば二次方程式の解についての選択式の問題に正答できるだろうか。それと同じで、政治について考えるための歴史的・経済的・政治的知識のない人が、最善の政策や政党を選び取る可能性はどれくらいのものだろうか。 数学の問題に当てずっぽうで答える学生のように、かれらも当てずっぽうに、「気分」や「直感」に頼りつつ、一票を投じるのではないか。国民投票を行う前に、現行の日本国憲法について簡単なテストを行い、それに合格した国民のみに投票権を与えるのはどうだろうか。そのようにでもしなければ、相対的にみて無知な人々が仮に多数派だった場合、国民にとって思わしくない結果を国民自身が選び取る、なんていう悲劇が起こる可能性が高い。

そのため、憲法について学ぶのは大切なことだ。憲法をどう変えると何がどう変わるのか、今から考え始める必要があるだろう。安倍首相は断固として改憲を推し進める姿勢だ。国民にも、知的な対応が求められている。参考図書として、渡辺治氏の『憲法「改正」の争点』という著作はオススメだ。安倍晋三氏の『美しい国へ』と並べて読むと、後者では触れられていない経済的・政治的な事実が前者で補える。これによって、安倍氏の立場を批判的に読むことができる。

両方の著作を読み終えてみての感想だが、安倍氏はブッシュ・ジュニア元大統領と似たような立場に立たされていると思う。安倍氏自身の人柄は、まじめで、誠実で、実直だ。ただし、アルバイトの経験もなく、低賃金にあえぐ労働者や、将来の見通しが立たずに希望がもてない非正規雇用者・派遣社員などの立場からものを考えることができていない。『美しい国へ』は簡潔な国家論と個人的な美談とが織りあわされている。最終章は「教育」と題されている。ここでの安倍氏の記述は特に本全体の問題を象徴している。例えば、安倍氏は「詰め込み式」によってサッチャー=レーガン体制は「国民の学力の底上げ」に成功したのに対して、日本の「ゆとり教育」は学力低下を招いた、だから再び私たちは詰め込み式に戻し、学校の管理を強化して、全国テストなどの結果も重視すべきだ、と論を進める。ここで安倍氏は「詰め込み」と「ゆとり」とを対立するものとして並べているが、現場で教えている教師からすればとても納得のいくものではない。「ゆとり」とは、「詰め込み式」を続けつつ、その量を減らした教育形態だ。そのため、「ゆとり」になってもテストはあるし、順位付けもある。結局、暗記してテストでそれを放出する、という形は変わっていない。そして、暗記量が減ったのだから、同じレベルのテストを受けた場合に「ゆとり」世代が負けるのは当然だ。そこだけに注目をして、あたかも「詰め込み式」自体は無問題だという論を進めるのは明らかな錯誤である。

「教育」の末尾で、安倍氏は日本国民のモラルの低下を嘆き、これこそ最も難しい課題であると位置づける。これ自体はその通りだと思う。しかし、そのモラルの低下を招いたのは、「詰め込み式」によって教育され、「高度経済成長」によって日本を「成功」させた大人たちではないのか。だとするならば、今までの教育制度では、子育ての出来ない、子どもにモラルを伝えることができない大人が育ってしまうことになりはしないか。今までのやり方を強化すれば良いという安倍氏の考え方は、学力をテスト結果と同一視する立場からすれば、百歩譲って学力向上にはつながると思う。しかし、これではモラルの問題は解決しないどころか、下手をすればますます酷くなるだろう。というのも、大人たちは、子どもは管理すればよいもの、と思い込むかもしれないから。

このように、安倍氏の『美しい国へ』は、多くの示唆的な記述があるにも関わらず、問題を掘り下げて具体的に考えることができていない。そのような安倍首相も、憲法改正にはとても積極的だ。そんな彼が持ち上げられているということは、どういうことなのか。それを考えるヒントが、渡辺氏の『憲法「改正」の争点』にあると思う。この本の一番の強みは、2000年代前半までで30以上も作成された様々な憲法改正案を資料としてまとめている点である。この資料を元に、渡辺氏の分析は書かれている。もちろん、政治に中立な議論など存在しない。渡辺氏は平和主義者であり、そのため護憲派だ。ただし、かれは序章でそのことを公言しているし、かれの議論はそのようなバイアスをあらかじめ受けいれていない読者でも納得がいくようなものになっている。ひとえに、かれの資料収集の努力の成果だと思う。

渡辺氏いわく、特に9条が、戦後日本にとって一番の争点となってきた。理由は、主に経済発展にある。以下は渡辺氏の論を僕なりに解釈したものだ。まず、日本は経済成長をするために、安い労働力を調達する必要があった。そこで、東アジアのいわゆる「後進国」に進出し、これを達成した。また、同じ国から様々な原料も調達した。同時に、主な輸出先としてアメリカを選んだ。円高もあって、これが最も合理的な選択しだった。この経済システムがうまく機能するためには、東アジアの治安が保たれつつ、アメリカが日本から商品を買い続けてくれる必要があった。特に前者を実現するためには、日本は軍事力を拡張し、もしものときのために海外派兵が出来るようにする必要があった。海外派兵ができなければ、東アジアの国々が成長し、軍備を整え、民主化し、ストや革命、あるいは内乱などが起こってしまう。海外から日本が攻めてくる、という可能性は、可能性だけでも「抑止力」になる、というわけだ。そのため、改憲は、まずは経済的な視点から必要とされている。

ここで一つ注釈をはさみたい。改憲のこの理由は、単に財界の都合ではない。現に、僕を含めた日本国民の生活は、海外の安い労働力によって支えられている。これを維持するために、軍事力が必要なのは事実だ。なぜなら、政治的不安定さと、労働者たちが劣悪な環境で仕事をさせられていることとの間には必然的な関係があるからである。そのため、もし本当に「護憲」を叫ぶのであれば、他国への軍事介入を必要としない経済システムを想像し、あたかもそれがすでに実現しているかのように振舞うくらいの行動力が求められている。今の経済の仕組みを良しとして、何も議論せず、何も行動をとらない人は、根本的に改憲派なのである。

二つ目の理由として、アメリカとの外交関係がある。こちらの方が、よく知られているかもしれない。安倍氏も、この点を強調する。要するに、何かあったときに海外の基地や戦闘機などを攻撃する役割を一方的にアメリカに担ってもらっていたのではいけない、というものである。そうしてアメリカに守ってもらうためには、見返りとして何かアメリカに提供しなければならない。もしかしたら、原子力発電所などの不合理な設備の開発や、「おもいやり予算」などの出資も、そのような背景から実施されているのかもしれない。いずれにしても、アメリカと対等に、合理的に外交を進めるためには、一方的にアメリカから軍事力を提供してもらってはいけない、というわけである。

ここでも、護憲派としての立場をとるためには、単に「戦争反対」を叫ぶだけでは甘い。ただ、アメリカによって「守られている」という考え方は批判しなければならないだろう。ここでいう「守る」というのは、他国に対して「先制攻撃」(pre-emptive strike) を仕掛けることであり、ブッシュ・ドクトリンの実行のことである。しかし、この論理が、経済的な動機のもとでいかに悪用されてきたかは、東南アジアやアフリカ、中東でのアメリカの企業や軍部などの振る舞いをみれば一目瞭然である。そのため、同じような論理で「自衛」をすることは許されない。ただし、今の状態で中国や北朝鮮から軍事的な挑発があった場合、日本が無力であることも事実だ。それでは、「先制攻撃」の論理とは一線を画しつつも、国防を行うためにはどうすればよいのか。この課題に対して具体的な答えが出ない限り、護憲を高らかにうたうことはできない。もちろん、では今の改憲派の主張が正しいのかといえば、これも違うのだが。

ところで、なぜ「今」改憲なのか。ここでも、渡辺氏の洞察を参考にしつつ、二つの理由が考えられる。一つ目は、社会がまとまりを失っており、規範意識が薄れており、様々な問題が国民にとってリアルに感じられているということ。この状況で、何か「新しい」国のあり方に希望を抱きたくなるのは、国民の心理としてはわからなくもない。二つ目は、安倍氏も明確に述べているように、元々自民党は「自主憲法の制定」を政策目標として掲げてきており、日本経済のグローバル化や時代の機運などを考慮にいれ、今が最も改憲の成功率が高いと踏んでいるから。安倍氏が首相に再抜擢された理由もここだろう。以前ならば、アクが強い右翼首相だと批判もされただろうが、現代ならば少しくらい「過激」なほうがかえってウケも良いのだろう。

ただし、ここでも一つ、疑問に思わざるをえないことがある。仮に、改憲が必要だとしよう。果たして、それは「今」やるべきことなのだろうか。仮に、改憲によって解決できる具体的な問題があるのであれば、今改憲を急ぐのも良いのかもしれない。しかし、例えば家族崩壊、教育問題、雇用の問題、環境問題などは、現行の憲法によって解決してゆけるものであるとしか思えない。別の言い方をすれば、改憲したからといって、これらの問題の解決には近付かない。今必要なことは、そのため、憲法の改正などではなく、より細かい政策の実施である。例えば、石油にかかる税金を上げる。自転車のレンタルサービスを充実させる。自宅勤務を認める。学校教育のカリキュラムを見直す。そういったことが必要なのだ。

憲法の改正を巡って、まだまだ考慮にいれるべきことはたくさんある。以上は、あくまで基本的なところをおさえたメモだ。書き足りない。しかし、これだけでもみえてくることはある。まず、安倍氏は、経済的な、あるいは外交的な立場から改憲が必要と考える人たちにとっての好都合な駒として使われているかもしれない、という点。これが、さきほどブッシュ・ジュニアと似ていると述べたところである。二つ目は、9条を変えることと、改憲とは別々のことなのに、それらを混同して議論を進める政治家――特に改憲派にこれが多い――がいるということ。マスコミもこれに加担しているため、注意が必要だ。たしかに、現行の憲法には時代にそぐわない、欠落した部分もあるのだろう。しかし、これらを変える必要があるのならば、9条に手を出す必要はない。それにも関わらず、改憲派の提出する草案には必ず9条を緩める動きが含まれている。三つ目に、9条はそれ自身で普遍的なのではなく、9条以前の条文によって根拠付けられているということを忘れるべきではない。そのため、9条を守るか変えるかを議論するということは、9条以前の条文をどう考えるかとセットなのである。最後に、護憲派でいることは容易ではないということ。少なくとも今の経済的な仕組みに依拠した生活を送っており、これが変わってしまっては嫌だと考えている限り、私たちは必然的に改憲派なのである。