Wednesday, 16 December 2015

思考の保留としての文学と音楽

最近はもっぱら黒い服を着るようになった。喪服? そうではなくて、暖炉に泥炭を入れるようになったから。火をみつめていると、一日が過ぎてしまう。日が短く、やることがない。泥炭から水分がすっかり抜けて、発火しやすくなったら、スコップでひっくり返す。そうすると、発火する。火が小さくなったら、木片を重ねてその上に新しい泥炭をのせる。そうやって過ぎる一日もある。

テオドール・サイダーの『世界の本を書く』(Writing the Book of the World)を読んだ。「根源性」「構造」という二つの概念について考えた本。サイダーは、「世界には構造がない」という命題と、「世界には構造がある」という命題を比較して、どちらを真とすべきかを丁寧に論ずる。世界には構造がないとすると、構造をもった言説は全て客観性を欠いたものとなってしまう。逆に、世界に構造があるのだとすれば、なぜ世界の構造とは異なる構造をもつ言説が可能なのかを考えなければいけなくなる。サイダーは後者の道を選び、「根源性」という概念へと進む。「根源性自体は根源的か」「構造は根源的か」といった問いを考える。

サイダーの本は2012年に出版されている。現代哲学の「意味論」(semantics)の最先端で、こうした問いが扱われているのは、私にとってとても嬉しい。いっとき、英米哲学ではこうした形而上学的な問いがやけに毛嫌いされる時期があった。そのため、精神哲学や意味論では「日常的な言葉遣い」に焦点があてられたり、あるいは自然科学や心理学の前提を研究したりすることが流行った。倫理学では、善悪の問題や人の生き方についての問いと真っ向から向き合う代わりに、いかにして伝統的な問いを避けるかに力が注がれた。挙句の果てには、「善悪については真偽が問えない」という結論が前提とされる議論が目立つようになった。「価値判断は悪口のようなものである」という理論すら出てくるほど。つまり、悪口がある事実に対する感情の表現にすぎないのと同じように、価値判断もまたそうした感情の表現にすぎない、というわけだ。なぜこう考えるのがよいのか? かれらによると、「こう考えることによって、今まで倫理学が向き合ってきた問いに向き合う必要がもはやなくなる」ということらしい。真ではなくても、問題が簡潔になるならばそれで十分というわけだ。

こうした風潮は、しかしここ数年は下火になってきている。代わりに、形而上学的な問いに真っ向から向き合うような作品が多く出版されている。サイダーの本はその中の一冊。他にも、ミリカン派やネアンダー派の意味論や、ブランドン派の倫理学など。

思考の出発点を探すことは哲学にとってとても大切だと思う。文学や音楽では、そうでもない。「途中から」始めてもよいし、そちらの方がよい作品になることも多い。哲学にも「途中から」始める義務があるが、しかし同時に、哲学は単なる感情表現ではなく乾いた思考の作業なので、何もない状態から始めなければいけない。ある意味あらゆるものごとは真なのだが、それがどのような意味で真なのかを知るためには、無前提の出発点から辛抱強くものごとを捉えなおしていかなければいけない。それは、考えること自体が好きではない人にとっては虚しく無意味に感じられるかもしれないし、実際そうなのだろうと思う。文学や音楽では真偽が問題とならないので、精神の幼児期に人は戻ることが許される。暖炉の火をみつめているうちに一日がすぎることと、思考を保留して文学に向かうこととは、同じようなことなのかもしれない。