正直、私には哲学の出発点がはたして「ある」という念ないし思考でよいのかがわからない。今のところはこれに勝る思考が意識にのぼってこないので渋々ここにいるのだけれど、どうも何か変だという感覚が拭い去りきれない。一つの問いが解決すると、私はそれについてほとんど考えなくなるのだけれど、この「哲学の出発点」という問いはいっこうに頭から離れてくれない。
出発点とは一つか、それともすべての思考はそれぞれそれ自体として出発点であると同時に到達点でもあるのか… ここからすでに悩ましい。もしすべて出発点であるならば、どこから出発してもよいということになりはしまいか。「ある」という思考が到達点であるとして、たしかに到達点であるにはちがいないのだけれど、そこに到達するまでの思考の道のりは「ある」のみを参照しても見出せないのではないか? さらに言うならば、例えば「(何かの)本質」という思考も、それが純粋な出発点となってしまえば、内容的には「ある」と変わらないもので、言葉が違うけど内容が同じ、となってしまうのではないか?
考えるためには考えが存在していなければいけないので、「考え」という概念を出発点とすればよいではないか、と考える人もいるが、これはおかしい。哲学は普遍的な真実を扱うが、「考え」が存在してなくても存在するものごとはたくさんあり、「考え」がなくても存在するということは、そうしたものごとは「考え」を前提とはしていないということになる。とはいえ、「考え」なくしてはそれらについて考えることはできないので、別の意味ではそれらものごとはすべて「考え」に依拠しているともいえるのだが、それはそれらものごとが「考え」に至る宿命にある、あるいはついには考えの対象あるいは内容となるにいたるということを示唆しているのみで、考えがなくなった途端に他のものごともすべてなくなるという保証はどこにもない。よって、「考え」は絶対的出発点とはいえない。
むしろ、「考え」が存在するためには、まず「存在(するということ)」が存在していなければいけない。考えが存在しなくても、存在は存在しうるが、逆はありえない。あるいは、逆がありえるためには、今度は「不在」が存在しなければいけない。よって、あらゆるものごとは「存在」あるいは「不在」のどちらかを前提とする必要がある。よって、「ある」と「ない」は、どちらか一つだけをとってしまえばあってもなくてもよいものになってしまうが、一組として同時に定立してみたとき、あらゆるものごとの絶対前提となる。
以上が、「ある」と「ない」を哲学の出発点とする論拠の概略である。ヘーゲルはこれを『大論理学』の冒頭部で述べている。
さて、ここで問題になるのは、「ある」「ない」に至るまでに私が行わなければいけない精神的操作、思考の動きである。「ある」という思考そのものは、はじめから私の意識に明確にのぼっているものではなく、他のあらゆるものごとを否定することによってはじめて顕在化するような思考である。では、「ある」もまた、そのような否定の動きを前提としているので、この意味では絶対前提とはいえないのではないか? こういう批判はありえる。
しかし、本当はこの批判はおかしい。なぜなら、「ある」そのものは、私がそこに到達しなくても平然としてそこにあるはずだからである。私がそこに到達するために前提としていた精神的操作は、あくまで私の主観的操作であり、「ある」そのものにとって必要な操作ではない。
とはいえ、まだこれではさきほどの批判を完全に看破できたとはいえない。「ある」はそれ自体としてはやはり思考形式、抽象体のようなものとしてある。そして、私が考えるからこそ、それは抽象体であるともいえる。つまり、「ある」に至った途端に主観から主観ー客観へとジャンプが起こる根拠が示されていない。ヘーゲルの議論が少し足早に感じられるのはここだ。(足早であるというだけで、間違っているというわけではない。議論を深める余地があるというだけの意味である。)
ヘーゲルは、「ある」は「自己昇華する反省」の産物であるという。「自己昇華」とは、「ある」に到達した途端にひとりでに消えるという意味である。「反省」とは、私が「精神的操作」と読んだもの、思考の動くのことだ。しかし、ヘーゲルはなぜこの反省が自己昇華するのかをこれ以上説明してくれないし、こうだという論拠も示してくれない。本当に、「ある」に至った途端に反省は自己昇華しうるのか? そもそも、そうした反省は、それ自体として「ある」の内容の一部となってはいないのか?
こうした批判の声は私の中でまだ渦巻いている。しかし、では哲学の出発点、本当の出発点は何なのか、わからない。「差延」などと言ってみても、出発点の問いをそれこそ先延ばしにしただけのような気がして、しっくりこない。もちろん、「自己昇華する反省」がそれ自体恣意的で偶然的なものだと考えた上で、「ある」にはすでにそのような反省が「痕跡」を残しているのだと考えるのはわかる。それはヘーゲルに対する進歩かもしれない。こうした思考を進歩として、私は受け入れるべきなのかもしれない。しかし、では純粋な出発点は本当に「ない」のか? デリダは純粋な出発点に対して決定的な批判はしていないように思えるのだけれど… そして、「差延」それ自体が、すでにヘーゲル的な「ある」からの反省の動きによって成立しているのだとしたら?