Wednesday, 19 September 2012

ふるい分けとしての文体

文体とは何かといえば、書き手が世界をふるいにかけるための容器である。

余華の『活きる』を読み終えた。まだ映画の方はみていないのだけれど、少なくとも小説はとても良かった。舞台はおそらく20世紀末の中国のとある田舎町であり、語り手は「中国を旅して民謡を集める仕事をしている」人だという。その語り手が、フグイという男に偶然この田舎町で出会い、話を聴くところから物語りは始まる。斜体で書かれたテキストが語り手の一人称の部分で、そこから自然に話はフグイの一人称で語られ、また折に触れて斜体へと戻り、またフグイへ… を繰り返す。現在と過去のこのリズムが、そのまま中国の20世紀の前半と後半の関係を映し出して鮮烈だった。たとえば、十代では金持ちのボンボンとして娼婦館や賭博場で金を湯水のように使い、ついには家族の財産を全て消してしまった話をフグイはするが、語り手としてのフグイの老いの境地からの声と、語られている側のフグイの唯我独尊な振る舞いの比較が、そのまま近代化以前と以後の中国の姿の象徴になっているようにも感じた。「中国の象徴」といっても、国家としての中国、というよりは、中国という政治的な環境で生きる人のモデル、という意味において。

さらに、余華の文体には、繰り返し「?」記号が登場し、フグイが主人公の語り手に向かって「まさかこうなるとは誰が予想しただろう?」という風に自分の人生の転機を語る部分が頻繁にある。その転機の内容自体は、物語の筋書きとしてはよくあるもの――親族の死、財産の入手、戦争――ばかりなのだが、男やもめとなった農夫の語りで語られると独特の緊張感があり、新鮮だった。物語の後半では中国の赤軍がフグイのコミューンの総長を捕らえて三日間拷問する場面があるが、そこでのフグイの独白:「おれたち農夫に、大きな政治の話などわからない。わからないから、ただお上の言うとおりにするしかない。そしておれたちが総長の言うとおりにするしかないように、総長もまた赤軍のリーダーのいいなりになるしかないのだ。」大きな物語の一部として意識的に政治に関わることができないからこそ、フグイの人生の転機となるイベントはどれも突然の出来事として訪れる。字もろくに読めないし、新聞を買う余裕もない人にとって、これは本当に切実な問題なのだ。ここも含めて、余華の「?」記号の多様はフグイを中国の革命期を生き延びなければならなかった人のモデルとして完成させるのに一役買っていると思う。

また、フグイの語ることの内容のほとんどは、家族に関連したものである。本を読まない人であるフグイなので、例えばゲーテの『若きウェルテルの悩み』の主人公のように高尚な言葉で物思いにふけることもなければ、ジョイスの『若き芸術家の肖像』のスティーヴンのような内面的・孤立した苦しみもほとんどない。あるのは、土地と、家族だけである。その簡素さの裏には、何か新しい切り口で、新しい内面が生まれるような予感もあるけれど、それよりもまずはこの時代に中国に生きていた農夫のリアリティーを考えるための物語をフグイが語っているという点が大切だろう。

一人の農夫の純粋な語りをそのまま書き取ったかのような文体を用いることで、余華は中国の思想や政治の多くをふるい落とすことを選んだ。今存在する一人の人間の統一感を保つために、あえて先人の教えや政治的な大きい言葉を排除して書いた『活きる』は、そういう意味でモダンであり、英語に訳されたものを外国人の読者が読んでも十分に共感できるような普遍的な作品になっているのではないか。