Friday, 28 September 2012

ヘーゲルの思想を読むことへの抵抗感

日本語を一から考えると銘打って『日本語づくり』なんていう看板を掲げてみたものの、気がついたら日本語の原理的な話にはなかなか至らずにもっぱら書評や思想を書いてしまっている。ただ、言葉というのは一から構築するものではそもそもないかもしれないし、言葉を使って何をしているかを記録することでみえてくる原理もあるかもしれないので、あえてこだわりすぎずに思考の流れを綴ることにしたい。

私的な話になるが、近所の図書館の蔵書が思いのほか豊富で感動した。文学のコーナーにはあらゆる作家の全集が国籍を問わず揃っており、学術書も選書のセンスが良い。『ジェイムス・ジョイス伝』が上下巻揃っている市立図書館をみたのはここが初めて。そして何より、哲学コーナーが充実していた。カント・ヘーゲル・フィヒテ・ハイデガーの全集が全て揃っている! ドイツ近代思想史を掘り下げたい人にはたまらないセレクションだ。

逡巡せずにヘーゲル全集の棚に手を伸ばし、長谷川宏訳ではなく、竹内敏雄訳の『美学』を手にとる。「序論」は貸し出し中だったが、既にある程度読み込んでいた部分だったので問題はなく、「第一章・第一節」を読むことに。一時間以上かけて、みっちり読んだ。

長谷川宏訳は読みやすいことで有名で、ヘーゲルの厳密な思考の流れを多少ゆがめるリスクをとりつつ、あえて日常会話に近い形式の言葉づかいで訳されている。ほとんど意訳であり、長谷川氏の解釈が色濃く反映されてもいる。他方、竹内敏雄訳はわかりやすさや読みやすさなどそっちのけ、とにかくヘーゲルの思想のゴツゴツとした異物感や緻密さを存分に日本語に運び込んでいる。

すでにヘーゲルの思想に触れており、『精神現象学』を読了している程度のレベルの読者には、竹内訳のほうが読み応えがあるように思う。早速ページを開くと、旧字体でゴツゴツとした文章が眼に飛び込んできた。「体」を「體」と書き、「当」を「當」と書き、「実」を「實」と書く、この徹底ぶりには感服するし、また哲学的な言い回しが多様されてもいる。すると、読む側としては今までの言語感覚をとりあえず脇において、丁寧に読むしか読解への道がない。元々、ヘーゲルに限らず哲学とは本来一行一行よく噛んで読むものなので、このようにスローダウンを強要する文体のほうがかえって思想のほうはスムーズに入ってくるものなのだ。

『美学』の本論の最初の一節は、『精神現象学』のサマリーのようなもので、美について直接にヘーゲルが展開する場面はない。

本の内容とか関係がないが、ヘーゲルほど臆面もなく次々と哲学用語を振り回し、本流の「思想」を展開する著者の書いたものに対しての抵抗感は何なのか。それは哲学一般への抵抗感といっても良いと思う。哲学者は、「これはこうだ」と言い切りたい欲求と、そうはいかないという否定の欲求とに振り回され続けており、その振れ幅が本当に大きいので、読んでいるほうも体力を使うし、納得させられた次の行で一気に前述の思考が否定され乗り越えられてしまうと苛立つことだってあるだろう。何よりも、経験的にしかわからないようなことだってあるはずなのに、言葉だけでドンドン進んでいく思想家の営み自体が気にくわない、という人だって多いはず。

ヘーゲルのすごいところは、上記のような心理も含めて思想を展開しているところだ。言葉だけでドンドン進む思考の流れが、経験的な視点からは浅はかにみえることを、ヘーゲルは強調する。ただ、同様に、経験に固執しすぎて、言葉の自由を行使できない意識のあり方も一方的であり、振り回されてばかりでどこにも行き着かず、「不幸な意識」であるのだともヘーゲルは書いている。そのどちらにも偏らずに、しかも両方とも通り抜けることによって経験と言葉とを編み合わせるようにして思考する第三の道をヘーゲルは「絶対精神」と呼び、美学や芸術思想をするにあたってはこの見地からでしかできないとも書いている。

ヘーゲルの書くことは納得できるが、それでも頑固に経験論者で居続けることだって可能だ。結局、言葉と経験の関係を自由に探究する心持ちになろうと思わない限り、ヘーゲルを読むことはできないし、哲学も思想も空虚なだけに思えてしまうだろう。

そうやって食わず嫌いで哲学的なものやヘーゲルを退けたくなる心理はわかる。文学を読んでいたり、旅やスポーツをしているとそういう心理は一層強いものとなってじぶんを捕らえる。でも、ただそれが今威力を発揮しているからといって、正しいわけではなく、今日のように素直にヘーゲルの思想に出会い直す機会に身を任せたことは良かったし、そういう機会を喜んで受け容れるような人でいられたら愉しいはずだとも思う。