ポール・オースターの『シティ・オブ・グラス』(City of Glass)を読了した。ニューヨークを舞台にしたミステリー小説だが、ミステリーとしては破綻している、なぜなら、作中にオースターが張った伏線の数々が結局宙ぶらりんなまま尻すぼみで話が終わるからだ。。元々、ミステリーめいたストーリーは、オースターが本当に書きたいことを一般読者に読んでもらうための装置として使われているにすぎない。
話は主人公クィンが間違い電話を受け取る場面から始まる。そして、探偵「オースター」と間違えられたまま、クィンはある女性に依頼されてスティルマンという男を尾行するよう頼まれる。このスティルマンは人柄も狙いも謎が多く、素性のしれない男だが、クィンは尾行中に様々な文献やアイディアにこそ出会うがスティルマンの正体はわからず、最後はスティルマンが自殺し依頼主の女性が失踪することで決着がつくのだが明らかに苦し紛れの結末である。物語の中で重要なのはそのため、スティルマンという謎の人物に対する好奇心から意欲的になった読者が、作中に登場する文献・アイディアを積極的に読んでくれることだろう。
しかし、そんなアイディアの数々も、現代の政治的な、あるいは個人的な問題に絡むまで追究されていないため、往々にして何かをほのめかして途切れてしまう。たとえば、クィンが電話帳でオースターの住所を探し当て、オースターの自宅に向かい、ビールを飲みながら話をする場面で、オースターは「『ドン・キホーテ」にはセルヴァンテスの分身が4人登場し、ドン・キホーテ自身は実在する人物である」というテーゼのエッセイを書いている、と話す。そして、『ドン・キホーテ』 は「人は、それが愉快な嘘である限り、どこまでも嘘を受け入れる」ということを説得力をもって証明している、という結論にたどり着くのだが… 「へぇ、面白い」と言う以上に、迫りくるものではない。あるいは、スティルマンの過去の著作に、20世紀後半にバベルの塔が再び完成し、世界は一つの言語によって統一される、という予言を立証するくだりがある。これもまた、恐らく英語が世界を席捲するということを暗にいいたのだろうが、「そうかもしれないけど、だからなんなの?」と思ってしまう。
さらに、終盤でクィンがニューヨーク市街を散歩しながら赤いノートに文章をなんとなく書きつけていく場面があるのだが、その文章が散歩のあとで引用される。そこでクィンは、ホームレスの様子を描写し、本当に技のある大道芸人から、何もなくて純粋に物乞いをしなければならない人たちまでニューヨークにはいる、ということを書いている。たしかにそのとおりだろうし、それは社会問題であるに違いないのだが、ただその様子を描写しただけで、それ以上の政治的なレファレンスもないようでは読んでいるほうとしても痒いところに手が届かない気持ちがしてくる。それにホームレス問題と、バベルの塔の問題と、『ドン・キホーテ』論との繋がりもよくわからない。
一見何かありそうなストーリーを基盤に、色々なアイディアや情景の断片を紡ぎ合わせていくオースターの小説は、なぜこのように尻すぼみで、かつ全体として政治的インパクトを持ち得ない作品となってしまったか? 「オースターはエンターテインメントとしてこの話を書いた」と言ってしまえばそれまでのようだが、さらにそこで「なぜこの話は、政治的な味を含める余地もあったのにエンターテインメント止まりで脱稿したのか?」と問い直してみる。
これは憶測にすぎないが、オースターにとって、この小説はメモ帳のようなもので、まだこれといった問題に偏執的にこだわるほどの準備はできていなかったのではないだろうか。端的にいって、この時点ではオースターは「解決しなければ気が済まない」と切実に思うほどの問題を抱えていない、「問題のない」書き手なのである。
現代の英語の台頭とキリスト教の予言を結びつけてバベルの塔のなんとなく機知に富んだ解釈を披露するなんていうのはどうなのか。20世紀初頭に、アイルランドで起こった「民謡復活運動」を思い出す。あるいは、日本で戦後に起こった「仏教の心の見直し」とか、震災後にしきりに海外に向けて発せられた「日本には仏教的な精神がある」などというメッセージなんかもこれに通じる。要するに懐古主義だが、リアリティーのない趣味的な懐古なのだ。それが問題なのだ。バベルの塔について本気で考えている人だっているだろうが、かれらはオースターの断片的なアイディアなんか折込済みの深い研究をしているだろうし、日本で仏教に本気で興味がある人は経典を読んで修行もしているだろう。アイルランドでだって、結局民謡は大して復活せず、ジョイスやベケットのようなモダニズム作家が人気を集めた。結局、読む人にとって物理的に迫りくるような問題に言及できない小説は淘汰されるのだと思うし、単純な懐古主義が受け容れ難い理由もそこにあると思う。
現代で最も切実な物理的問題は、カネと自由の問題だ。カネを稼ぎつつ、どうやって自由でいられるか。言い換えるならば、都会でどのようにして生存していけば良いか。日本の都会、中国の都市部、アメリカの都市。東京、東莞、ニューヨーク、それぞれに、カネと自由の問題の中でもがいている多くの人々がいる。まずはその人たちの日常に入っていかなければ、具体的な政治的インパクトもないし、単なる現実逃避か、知的な遊戯に終わってしまうだろう。